城はある種の都市である。
川沿いに文明が生まれたように、
そこに町ができるのは、
人の住みやすい土地であったからだろう。
城には縄張りがある。
館林城はキツネが尾を引いて、縄張りを示したという。
天正18年に豊臣秀吉が天下統一を果たし、
関東に徳川家康が入府すると、
館林城は“榊原康政”に与えられた。
近世の城は、惣堀で囲んだ城下町を含んでいる。
幕末まで残った館林城においても、
しばしば城の整備が行われ、戦国時代と近世の城の姿は異なる。
いまでこそ、町に入るのにどの道からでも行けるが、
往古においては出入り口が決まっていた。
館林城下町では5つの出入り口があった。
その中で南に位置し、江戸に向かう城門を“江戸口”と言った。
延宝年間の地図を見ると、屋根に鯱のついた立派な門が建ち、
石垣と高塀が連なっている。
城内の門の前は広場になっていて、番所と門衛の住宅があった。
門衛たちが厳めしく立ち、城内の出入りを取り締まっていたのだろう。
ちなみに、館林城では一つの門につき、5人の門衛が配置されていた。
江戸口では、田代馬蔵、田代忠蔵、青山清蔵、福田彦次郎、鈴木市五郎の5人が、
門番に当たっていたという。
昼は、城門は開け放たれているが、夜になると閉められる。
番所には、突棒、刺股、袖搦めが常備され、
不審者と遭遇したときに手にしていたのだろう。
往古の城下町への出入りは、独特の緊張感を強いられたのかもしれない。
館林城の御門とも言える江戸口の城門は、
明治に入って間もなく破却された。
現在、城門の名残は跡形もない。
説明板が立っているわけではなく、
「あ、ここが城門だ」と気付くことなく通り過ぎてしまう。
往古と現代の景観の隔たりは凄まじいものがあるのだろう。
道はアスファルトに覆われ、車が頻りに通り過ぎる。
江戸口跡周辺は民家や会社が建ち、
門の気配すら漂わせない。
※最初の写真は、現在の道路から江戸口を望んだ夜景(群馬県館林市)
川沿いに文明が生まれたように、
そこに町ができるのは、
人の住みやすい土地であったからだろう。
城には縄張りがある。
館林城はキツネが尾を引いて、縄張りを示したという。
天正18年に豊臣秀吉が天下統一を果たし、
関東に徳川家康が入府すると、
館林城は“榊原康政”に与えられた。
近世の城は、惣堀で囲んだ城下町を含んでいる。
幕末まで残った館林城においても、
しばしば城の整備が行われ、戦国時代と近世の城の姿は異なる。
いまでこそ、町に入るのにどの道からでも行けるが、
往古においては出入り口が決まっていた。
館林城下町では5つの出入り口があった。
その中で南に位置し、江戸に向かう城門を“江戸口”と言った。
延宝年間の地図を見ると、屋根に鯱のついた立派な門が建ち、
石垣と高塀が連なっている。
城内の門の前は広場になっていて、番所と門衛の住宅があった。
門衛たちが厳めしく立ち、城内の出入りを取り締まっていたのだろう。
ちなみに、館林城では一つの門につき、5人の門衛が配置されていた。
江戸口では、田代馬蔵、田代忠蔵、青山清蔵、福田彦次郎、鈴木市五郎の5人が、
門番に当たっていたという。
昼は、城門は開け放たれているが、夜になると閉められる。
番所には、突棒、刺股、袖搦めが常備され、
不審者と遭遇したときに手にしていたのだろう。
往古の城下町への出入りは、独特の緊張感を強いられたのかもしれない。
館林城の御門とも言える江戸口の城門は、
明治に入って間もなく破却された。
現在、城門の名残は跡形もない。
説明板が立っているわけではなく、
「あ、ここが城門だ」と気付くことなく通り過ぎてしまう。
往古と現代の景観の隔たりは凄まじいものがあるのだろう。
道はアスファルトに覆われ、車が頻りに通り過ぎる。
江戸口跡周辺は民家や会社が建ち、
門の気配すら漂わせない。
※最初の写真は、現在の道路から江戸口を望んだ夜景(群馬県館林市)
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