クニの部屋 −北武蔵の風土記−

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

館林城の御門“江戸口”には番人がいた?

2012年02月17日 | 城・館の部屋
城はある種の都市である。
川沿いに文明が生まれたように、
そこに町ができるのは、
人の住みやすい土地であったからだろう。

城には縄張りがある。
館林城はキツネが尾を引いて、縄張りを示したという。
天正18年に豊臣秀吉が天下統一を果たし、
関東に徳川家康が入府すると、
館林城は“榊原康政”に与えられた。

近世の城は、惣堀で囲んだ城下町を含んでいる。
幕末まで残った館林城においても、
しばしば城の整備が行われ、戦国時代と近世の城の姿は異なる。

いまでこそ、町に入るのにどの道からでも行けるが、
往古においては出入り口が決まっていた。
館林城下町では5つの出入り口があった。

その中で南に位置し、江戸に向かう城門を“江戸口”と言った。
延宝年間の地図を見ると、屋根に鯱のついた立派な門が建ち、
石垣と高塀が連なっている。
城内の門の前は広場になっていて、番所と門衛の住宅があった。

門衛たちが厳めしく立ち、城内の出入りを取り締まっていたのだろう。
ちなみに、館林城では一つの門につき、5人の門衛が配置されていた。
江戸口では、田代馬蔵、田代忠蔵、青山清蔵、福田彦次郎、鈴木市五郎の5人が、
門番に当たっていたという。

昼は、城門は開け放たれているが、夜になると閉められる。
番所には、突棒、刺股、袖搦めが常備され、
不審者と遭遇したときに手にしていたのだろう。
往古の城下町への出入りは、独特の緊張感を強いられたのかもしれない。

館林城の御門とも言える江戸口の城門は、
明治に入って間もなく破却された。
現在、城門の名残は跡形もない。
説明板が立っているわけではなく、
「あ、ここが城門だ」と気付くことなく通り過ぎてしまう。

往古と現代の景観の隔たりは凄まじいものがあるのだろう。
道はアスファルトに覆われ、車が頻りに通り過ぎる。
江戸口跡周辺は民家や会社が建ち、
門の気配すら漂わせない。

※最初の写真は、現在の道路から江戸口を望んだ夜景(群馬県館林市)
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春、初めて“都”を感じさせるものは? ―ウラ部屋―

2012年02月16日 | ウラ部屋
『更級日記』の作者“菅原孝標女”は、
上総から京の都へ向かうとき、
京にたくさんあるであろう書物に、
胸を期待に膨らませている。

 世の中に物語といふもののあんなるを、いかで見ばやと思ひつつ、
 つれづれなる昼間、宵居などに、姉、継母などやうの人々の、その物語、かの物語、
 光源氏のあるやうなど、ところどころ語るを聞くの、いとどゆかしさまれど、
 わが思ふままに、そらにいかでか覚え語らむ

新宿にある大型書店に初めて足を運んだ日の衝撃を、
いまでも昨日のことのように覚えている。
まるで建物が一つの世界だった。
1階から数階が全て本に埋め尽くされている。

文芸書、ビジネス書、学術書、洋書、児童書など、
あらゆる本が広いフロアに所狭しと並んでいた。
地元の書店が数件集まったような感覚だ。

おそらく、そのときのぼくの顔は、
田舎者の表情丸出しだっただろう。
それまで、上野や浅草、渋谷へ遊びに出掛けてはいたものの、
「東京」を感じたのは新宿の高層ビル群と、大型書店だったのである。

さすがは花の都東京。
都で目の当たりにした大量の本に、
菅原孝標女のごとく胸を躍らせた。

以来、しばらく新宿通いが続いた。
行けば必ず本を買い込んだ。

ある日、池袋から埼京線に乗って赤羽に向かう途中、
本を書おうと思い直して十条駅で折り返した。
そのとき、ばったり会ったのは高校の同級生だった。

お互い18歳。
もし、十条駅で引き返さなければ、そのままその人としばらく話せたかもしれない。
しかし、ぼくの頭は本でいっぱいである。
そのまま電車から下りずに残るという発想には到らなかった。

いまのところ、その人を見たのはそれが最後である。
春のちょっとした思い出。

もし、大型書店が地元にあったら、きっと大きな影響を受けていただろうな。
せめて、中学生くらいからその存在を知っていたならば、
人生が変わっていたんじゃないだろうかと思うのは、
決して言い過ぎではあるまい。

地元の書店が悪いというわけではない。
だいぶお世話になったし、
近隣近在の書店も学舎の一つだった。

ただ、大海を知っているのと知らないのとでは大きな違いである。
上野や渋谷もいいが、東京の大型書店に早くから足を運ぶべきだったのではないかと、
いまでもときどき思うのだ。

本好きはともかく、一度は覗いてもいい世界だ。
しかも、なるべく早い内がいい。
本に興味のない子どもをつれていったところで、すぐに飽きられてしまうが、
そんな世界もあることを見聞きさせることは、
決して無駄ではあるまい。

地方から出てきて、大型書店に目を丸めた人はどれくらいいるだろう。
あるいは、新宿の高層ビル群に口を開けて見上げた人は、
どのくらいいるだろうか。
ぼくもその一人である。
高層ビルがロボットの変形すると聞いたら、
きっと信じてしまう。

寒さの続く2月では、春の予感は感じられないかもしれない。
でも、春の足音は少しずつ近付いてきている。

春は出会いの季節。
通り過ぎる冷たい風の中に、
新しい本との出会いの香りが、
そこはかとなく感じるのは気のせいだろうか。
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久喜に有名な“眼科医”がいた?

2012年02月15日 | ふるさと歴史探訪の部屋
目医者へ初めて行ったのは、保育園にも上がっていない頃だ。
3歳くらいだろうか。
祖母の自転車の後ろに乗せられて、
目医者へ行ったのをぼんやり覚えている。

なぜ目医者だったのかわからない。
記憶の中で、葛西用水路の橋と、川沿いにあるうどん屋さんが、
頭の隅に残っている。

元来、目はいい方だった。
視力検査でもいつも両目とも1.5。
知的男子に憧れてメガネをかけたかったのだが、
十代、二十代とついに無縁だった。
(だて眼鏡はこっそり持っている)

ところが、ここ最近になって右目の視力が急激に落ちた。
あつまつさえ、気になる検査結果が出る。
そこで、数十年ぶりに目医者へ行った。

目医者の要領は遠に忘れている。
内科と違って空いているだろうと思ったら大間違い。
満席である。
広い待合室を年輩の人たちが埋めている。
その中で、元校長先生とばったり会った。
白内障の手術をしたらしい。
座り話をしていると、ぼくの名前を呼ばれる。

ところで、埼玉県久喜市に有名な眼医者がいたという。
その名は“久喜周琢”と“久喜周了”。
家筋は同じで、後者が本家だという。
久喜で眼の専門の診療所を設け、人々に治療を施していた。

かなりの名医で、その名は近郷に轟いていたらしい。
江戸時代後期に津田大浄が記した『遊歴雑記』には、
次のように紹介されている。

 両家おのおの眼療を専らにし出精して仁術を施すにや 名誉の風聞あれば
 東武の人ハ勿論 近国よりも目を煩うもの日々入来り群をなせば
 両医いよいよ家を広ふし 猶又眼病の者のミ止宿する旅店ありて
 医師より指図して滞留なさしむ

津田大浄自身、治療のためではないが久喜を訪れている。
知人の小川宗助のところへ訪ねたが留守。
久喜の旅店に一泊し、周辺を散策した。

昔から眼病を患う人は多いということだろうか。
目医者と言うと、ぼくはつげ義春氏の『ねじ式』を思い出す。
あの作品の中に登場する目医者がとても印象的で、
『遊歴雑記』の上記の一文に『ねじ式』を連想してしまうのだ。

2011年の暮れから通い始め、2月で終わった。
治療というより、検査の連続である。
いつ行っても病院はいっぱいで、
それでいて長時間待たされることはなかった。

二人の眼科医と出会った。
共に女性である。
商店を見て思うように、
なぜこの人たちは眼科医になろうと決めたのだろう。
内科、循環、歯医者など選択肢はいろいろある中で、
なぜ眼科医なのか。

もちろん、先生に直接訊けるわけがない。
いいのか悪いのかわからないが、
何でも背景や舞台裏を知りたくなるのはぼくの癖だ。
目医者へ行くたびにそんな疑問がふと起こり、消えていく。

『遊歴雑記』に登場する久喜の眼科医のことは、
ぼくの目医者通いが終わってから書こうと思っていた。
すぐに書けると踏んでいたが、
早くも2月になってしまった。
何事もなく書けたことを良しとしよう。
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羽生のある“グルメ”がテレビに出る?

2012年02月14日 | ムジナもんの部屋
2月16日(木)に、羽生のある食べ物がテレビに紹介される。
番組は、県民性や県独自のグルメなどを紹介するもの。
以前、“いがまんじゅう”が紹介されて、
羽生の店では行列ができたほどだった。

今回紹介されるグルメも、羽生ならではないかもしれないが、
ゆるキャラがいるのは大きな特徴だろう。
ムジナもんの妹の“ムジナあんびん”ちゃんだ。

あんびんちゃんは、あまり表に出ることはない。
だから、あんびんちゃんの存在を知らない人もわりといるかもしれない。
羽生市ホームページには、次のように紹介されている。

 ムジナもんの妹。普段はとてもかわいい妹だが、
 兄の行動をまねしたがり、できないとすぐすねてひねくれる。
 また、しょっぱいものが大好きで、なんでも塩味にしてしまう。

なんでも塩味にしてしまうという妹……
言葉も辛口なのだろうか。
いや、しょっぱいからこそ甘さが潜んでいるのかもしれない。

番組ではあんびんちゃんが紹介されるわけではないと思うが、
そのもとになったグルメは登場する。
ぜひチェックして食べてみよう。
ついでに、あんびんちゃんチェックも……


※最初の写真は“ムジナあんびん”(羽生市キャラクター)


羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html


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羽生の“里道”にパトカーは通れるのか? ―はにゅう萌え―

2012年02月13日 | はにゅう萌え
羽生第一高校の東の細い道で、
パトカーに追いかけられたことがある。

「追いかけられた」と言うと、語弊があるかもしれない。
夜、道をよぎったぼくを不審者と見て、
パトカーで追いかけてきたのだ。

無論、呼びかけられれば止まる。
職務質問も素直に受ける。
埋もれた城館巡りの途中で、職務質問を散々受けてきたから、
警官との対応は板についてきたつもりだ。

それにしても、その道は車1台通るのがやっとの広さである。
よく追いかけてきたと思う。
そんなにぼくが怪しく見えたのだろうか。

羽生第一高校は、南半分が田畑になっていて、
自然情緒のある学校だ。
それでいて、近くには国道が走り、工業団地の建物も見える。
旧と新が混合しているような場所なのである。

往時、学校周辺は見渡す限りの田園地帯だったのだろう。
学校が建っている場所も、かつては農地だったことが雰囲気でわかる。
いわば、パトカーが入ってきたのは農道である。
あとにも先にも、その道を通る車を見るのはそれが初めてだった。

ちなみに、田畑地帯であるがゆえに、
学校周辺のあちこちで里道を見ることができる。

4車線道路に、車がびゅんびゅん走る国道とは違い、
かなり静かである。
人が通るのもあまり見ないし、道を横切るのはネコの姿。
穏やかで、ほのぼのしていて心が優しくなれる。

ぼくが自転車で走るときも、なるべく大きな道路は使わない。
人気のない静かな道を積極的に選ぶ。
車が何台も隣を通られると、だんだんストレスがたまってくるのだ。

その手の道は、夜になると真っ暗だ。
外灯はあっても、冷やかし程度にポツリポツリと光っているだけ。
そんな夜闇の中を自転車で走る人影は、
怪しく目に映るかもしれない。
だから、わざわざ遠くから警官たちはパトカーで追いかけてきたのだろうか。

人影は怪しくても、実際に怪しいことをしているわけではないのだから、
職務質問は警官との立ち話みたいなものである。
「また君か」と言われたこともある。

そのときの警官は新しく配属されたばかりだったのだろうか。
ぼくを追いかけて里道に入ってきたはいいものの、
この道を行って出られるのか? と訊いた。

「出られますよ」と、ぼくは答える。
ただ、T字路を曲がれればね、と続けようとしたが口には出さなかった。
車で曲がれるのか、ぼく自身が知りたかったからである。
1度チャレンジしてほしい。
ぼくは無言の期待をこめて警官を見た。

かくして、職務質問を終えた警官はパトカーに乗り、前進。
車体はすでに道いっぱいに広がっていて、
いつ田んぼに落ちてもおかしくない。
ゆるゆると走り、やがてT字路にぶつかる。

赤いブレーキランプが夜闇に浮かび上がった。
「曲がれるのか?」
一旦止まったパトカーから、
そんな声が聞こえてきそうだった。

しかし、さすがは警官。
ハンドルを右に切り、悠々と曲がりきる。
こうしたおまわりさんたちによって、
町の治安は守られているらしい。
里道でも突っ込んできただけのことはある。

職務質問は、正直気分のいいものではないが、
警官も仕事なのだからと深く考えないようにする。
もしぼくが本物の不審者だったら、
あの警官たちはお手柄だっただろう。
ぼくは再び自転車に乗ると、
暗い里道の上を走った。


左は旧道。右は新道(埼玉県羽生市)


里道




里道を歩くネコ
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羽生の“逸品”を楽しみませんか? ―はにゅう萌え―

2012年02月12日 | はにゅう萌え
「はにゅう一店逸品2012」のカタログが、
第3弾として発行された。

カタログの裏面にも書かれているが、
逸品とは、“おすすめ商品”や“サービス”のこと。
各お店や企業が自信をもって提供するものだ。

カタログの中では、
24の逸品が紹介されている
飲食系、健康系、美容系、生活品系等々、
きっと初めて見聞きするものもあるだろう。
もし全部知っていたら、すでに逸品マスターかもしれない。

カタログには、店長や社長の顔写真も掲載されている。
中には知っている顔もある。
もしかしたら、身近な人もいるのではないだろうか。
町のお店や会社がどんどん元気になってほしい。

2月中には、逸品お店巡りツアーも計画されているようだ。
また、逸品にまつわるイベントも目白押しである。
「はにゅう一店逸品カタログ」を片手に、
羽生をじゃんじゃん楽しもう!
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館林城の“千貫門”に女子は通れなかった?

2012年02月11日 | 城・館の部屋
館林城は、徳川四天王“榊原康政”の城であり、
また将軍“徳川綱吉”を出したことでも知られる。

またの名を“尾曳城”と言い、
キツネが尾を曳いて、城の縄張りを示したとの伝説が残っている。
具体的な築城年は定かではないが、
戦国時代には赤井氏、広田氏、長尾氏の国衆の拠点であり、
上杉謙信や石田三成にも攻められた城である。

そんな歴史ある城だが、
遺構はほとんど残っていない。
土塁、城沼、曲輪の台地くらいだ。
土橋門が復元されているが、絢爛豪華な天守閣が残っているわけではないから、
「城」を実感できないかもしれない。

城跡には、市役所や文化会館、図書館等の公共施設が建ち、
住宅が林立している。
広大な城沼は残っているものの、往時に比べればその面積を減らし、
埋め立てられた場所は道路が造られ、人が住んでいる。
往古の城の景色を知る人であれば、「見る影もない」と言うだろう。

文化会館や図書館の建つ場所は、城の三の丸である。
ここに土橋門が復元されているが、
もう一つ門があった。
その名は“千貫門”。
門には楼が建ち、手前には千貫橋が架かっていた。

この橋の名は、橋を架ける費用が千貫文かかったとか、
千貫の重さがあることに由来するなどと言うが、定かではない。
しかし、ここには堂々たる門と水面に映える橋があり、
雄大な城の光景が見えたのだろう。

千貫門の楼には、東照大権現の像と、秋元泰朝の甲冑が置かれていた。
毎年1回、それらを人目に触れさせ、
藩候親拝の儀が執り行われていたのである。

ゆえに、格式ある門だったのだろう。
婦女子がこの門を出入りすることは禁じられ、
本郭の東に鎮座する八幡神社の祭りのときだけに、
通行が解禁になったという。

千貫橋は長さ15間、幅2間の橋だった。
門の両脇には、三の丸を取り囲む土塁があり、
高塀が連なっていた。
そこに穿たれていたのは、39の矢狭間と55の鉄砲狭間。
三の丸は城代や藩主の住む屋敷があり(時代によって異なる)、
城の中でも重要な一郭だったのである。

ところが、前述のとおり、いまは土塁や沼くらいしか遺構がない。
地面はアスファルトで舗装され、城の中を車が行き交っている。
千貫門があった場所は道路となり、堀も消滅している。

土塁の一部は残り、土橋門は復元されているものの、
千貫門は跡形もない。
押し寄せてくる時代の流れによって、
その姿を消したのだろう。
往古の雄姿を偲んだのか、
その跡地には、千貫門と橋を伝える碑がポツンと建っている。


千貫門址碑(群馬県館林市)
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2月8日の“だえもんがえし”は何を返す? ―1つ目小僧―

2012年02月10日 | 奇談・昔語りの部屋
風習というのは、見慣れた人には違和感はないが、
そうでない人には不思議な光景として映るだろう。

2月8日に行われる“だえもんがえし”。
竹竿の先に目籠をくくりつけ、
天に向かって高く立てるのである。
しかも、目籠の中には焼餅を入れる。

何も知らなければ、思わず首を傾げてしまうだろう。
“だえもんがえし”は、厄神除けの風習である。

一つ目小僧がやってきて、
目籠の目を数えても数えきれず、
やがて諦めて帰ってしまうという。

いつ、誰が始めたのだろう。
天からの授かりものを、
籠で受け取ろうとしたのだろうか。
あるいは、天に返そうとしたのか……

遊びでやっているわけではないことは確かだ。
一見妙な風習でも、
そこには深く「信仰」と結びついている。
それに目を向けることで、
日本人の精神世界を垣間見ることができるのだ。

ちなみに、「だえもん」とは「大眼」(だいまなこ)の転訛で、
だいまなくえもん→だえもん→だえもんを返す→だえもんがえし
となったという。

大眼といい、厄神除けといい、
ここには“一つ目小僧”の信仰があるようだ。
いまでこそ一つ目小僧と言うと、
子ども向けのお化け話に挿し絵付きで登場することが多い。
しかし、かつては神だったという説がある。

古代、この国では神さまの眷属にするべく、
祭日に人を殺す風習があったという。
そのとき、犠牲となる人の片目を潰し、足を一本折る。
そう、逃げ出さないように……

「犠牲」と書いたが、もしかすると神の眷属になれると、
喜んで命を差し出す人もいたのかもしれない。
かくして、神の祭日に血が流れた。
それは神への生け贄でもあったのだろう。

片目を潰され、殺された人は単に血を流したのではない。
命を差しだし、神の眷属となったのである。
ムラの人々はその者を尊び、
祈りを捧げたのだろうか。
おそらく聖人として、いつまでも語り継がれたのかもしれない。

そうした風習はやがて廃されていく。
ところが、片目を潰され、神の眷属になった者の記憶は、
時代を経るごとに変わっていった。
風習は過去のものとなり、片目だけが記憶に強く残る。
そして生まれたのが、一つ目小僧なのである。

いまでは「化け物」として周知されているが、
元は尊い存在だった。
一つ目という特殊な状態が誇張し、
やがて挿し絵に描かれるような化け物に変わったのだろう。

ゆえに、「だえもん返し」が一つ目小僧を避けているのも、
化け物という厄神と捉えているからだろう。
そして、目のたくさんある籠を高く掲げることで結界を張り、
家に入り込むことを防いでいるのである。

何気なく立っている竹竿と目籠。
その裏には、日本人の古い信仰と歴史が隠されているのがわかるだろう。

ところで、だえもん返しはなぜ2月8日に行われるのだろうか?
やはりそこにも日本人の古い信仰が根付いているのか?
あなたはそこに、どんな精神を捉えるだろう。
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弁当男子は“きのこペペロ牛丼”が苦手?

2012年02月09日 | グルメ部屋
弁当男子の後輩Mくんは、珍しく弁当を持ってこなかったらしく、
近くの牛丼屋さんへ行こうと声をかけてきた。

ぼくは前日も牛丼を食べたばかりで、
麺類を考えていたのだが、
彼がいつ弁当不持参になるかわからない。
牛丼屋さん行きを了解した。

Mくんは「甘い」の形容詞以外のものに線引きをする男子。
辛いものや、熱いもの、
苦いものや、酸味のきいたものはあまり食べないという。
なかなか天然系の男子である。
一人ではファミレスに入ることができず、
若い女子の前では緊張して赤面するらしい。

ぼくにとって連続しての牛丼だ。
飽きがないと言ったら嘘になる。
後輩はメニュー表の「きのこペペロンチーノ」を指さした。

「これなんかどうっすか?」
本気か嘘かわからないが、ぼくはそう勧められた気がした。
牛丼屋には一人で何度も来ているという彼。
ならば「きのこペペロンチーノ」はきっとおいしいに違いない。

ぼくはそれを注文。
Mくんはノーマルを頼もうとしたから、
「それでいいの?」と思わず訊いてしまう。
気を遣ったのかどうかわからないが、彼もきのこペペロを注文した。

箸をつけて、目から鱗が落ちた気がした。
斬新な味である。
これまで何度も牛丼を食べてきたが、
初めての味と香りだった。
箸が進む。
大盛りでもいいかもしれない。

いいものを紹介してくれた。
同じ止まり木に止まりやすいぼくは、
注文するものもおおよそ固定化しているのだ。
だから、彼に言われなければ、
きのこぺぺロは縁遠いままだっただろう。

Mくんは「熱い」を何度も口にしながら、
額に汗を拭っていた。
顔も赤い。
猫舌で、さすが熱いものが苦手なだけはある。
きのこペペロに苦戦して見えた。

彼とは、保育園から高校までが同じである。
同じ時期に学校に籍を置いたことはなく、
出会ったのもいまから遠くはない。
彼の兄貴の方がぼくが近いようだ。

ぼくより遅れてMくんはきのこペペロを完食。
「うまかったね」とぼくが言うと、彼は曖昧な返事をする。
あとから聞いた話によると、
「熱い」「辛い」の二拍子の揃ったきのこペペロは、
彼の舌には合わなかったらしい。

しかも、食べたのは初めてのこと。
きのこペペロを勧めて見えたのは、
ぼくの誤解だったようだ。
それでもきのこペペロに挑んだ彼は、健気というか、
優しいというか、不器用というか……。

Mくんを見ていて、ふと高校の同級生を思い出す。
仲が良くて一緒によく遊んでいたのに、
価値観や好みは違うという同級生だ。

Mくんは牡羊座のA型男子。
山羊座のB型男子のぼくとは相性はよくない方である。
情熱的な牡羊座に、山羊座がついていけないのだとか。

彼もそのタイプだろうか。
ただ、価値観や好みに苛立ちを覚えるのではなく、
むしろそれが好感に感じられるタイプ。
高校の同級生と雰囲気も少し似ている。
苗字や住む場所は全く違うが、
遡ればどこかで繋がっているかもしれない。

ちなみに、ぼくらは兄弟に見られたことがある。
体型も顔も似ていないものの、
出身校とは別の共通点があるのだろうか。

Mくんのきのこペペロの話をすると、
1日中思い出し笑いをしていたという人がいる。
ぼくらのあだ名が「ペペロ」になりそうな勢いである。
好みの違う兄弟が、きのこペペロを食べる絵が思い浮かんだだろうか。

その日を過ぎて、Mくんはいつも通り弁当を持ってくる。
ぼくは高い確率で牛丼屋さんへ行く。
一人カウンターに座ってメニュー表のきのこペペロを見るたび、
仄かに漂うにんにくの香りのごとく、
ぼくはクスクスと笑みがこぼれてしまうのだ。
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羽生の“藪浦橋”は何に関係している? ―はにゅう萌え―

2012年02月08日 | はにゅう萌え
羽生市立図書館・郷土資料館から一番近い川は、
葛西用水路だろう。
さらに一番近い橋はどこだろうか。
文化ホール裏の羽生インターに繋がる道の“南大橋”と答えたいところだが、
この橋は架けられてから歴史が浅い。

この南大橋よりも歴史が古くて一番近いと言えば、
“藪浦橋”である。
場所は、南大橋から下って一つ目の橋。
車が2台すれ違うことのできない狭い橋である。

この橋がいつ架けられたのかはわからないが、
万治3年(1660)以降、明治15年(1882)以下であることは間違いない。
藪浦橋は『武蔵国郡村誌』に次のように記されている。

 里道に属し葛西用水の上流に架す
 長五間幅四間土造

現在はコンクリートの橋だが、
往古は土橋だったことを伝えている。
長さは約9メートル。
この橋に属す細い道が「里道」であることも、この記述からわかる。

ところで、下羽生には何人かの同級生がいる。
この「里道」を共通とすれば、3人。
1人は転校生だが、2人は古くからこの地域に住む一族だろう。
興味深いのは、その2人の名字はいずれも“水”に関係することである。

下羽生は田んぼの広がる地域だが、かつては低湿地帯が広がっていた。
少しまとまった雨が降れば、水はなかなかひかない。
そこで下羽生村の“出井熊吉”は、三田ヶ谷堀という排水用の堀を私費で造り、
村に貢献している。

下羽生の小字を見ても、水に関係するものが多い。
三田ヶ谷、長浜、岸町がそれにあたり、
隣村の“北袋”もやはり沼や池に関係している。

「正保年中改定図」を見ると、
羽生城から下手子林まで届く大沼が広がっているのがわかる。
北袋村や下羽生村もその大沼に沿う村である。
長浜、岸町という地名も、この大沼に関係しているのかもしれない。
藪浦橋も、「浦」の字が示すようにやはり水に関係している。

地名や名前というのは、言葉の化石ゆえに面白い。
西○丁目や、改名されたオシャレな地名をときたま目にするが、
言葉の化石は地域の歴史を紐解くカギとなる。

二人の同級生は葛西用水路を境に、北と南に分かれている。
その名字が水に関係しているとはいえ、
下羽生を由来にしているとは限らない。
川の南に住む友人は、海の町から移ってきたと教えてくれたことがある。

藪浦橋は平成13年に改修されたばかりだ。
それ以前は車1台すら通れない小さな橋だったのを覚えている。
高校生の頃、その狭い橋を越えて、
川の北に住む友人のところへ遊びに行っていた。

北と南。
その南北を繋ぐ藪浦橋は境界さながらである。
何気なく、図書館に一番近い場所に架かっている橋は、
たゆたう水のごとくどことなく儚い。


藪浦橋から葛西用水路の上流を望む
最初の写真は藪浦橋(埼玉県羽生市)


里道


里道から文化ホール(右)と図書館・資料館(左)を望む
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ムジナもんと遊びませんか? ―ゆるキャラ日曜工作―

2012年02月07日 | ムジナもんの部屋
羽生市役所で見付けた“ムジナもん”。
井泉公民館で見たものと造りが似ているから、
きっと作者が同じなのだろう。

とても温かみがあっていい。
机や車の中に置いたら、
きっと日常にちょっとした遊び心が出るだろうな。

おそらく自主制作だ。
注文があって作ったわけではないと思う。
羽生のゆるキャラが愛されていることを端的に示しているだろう。

あなたも特技を活かして、
オリジナルムジナもんを作ってみてはいかがだろうか。
藍の町羽生で、ゆるキャラの愛の輪も、
どんどん広がっていくに違いない。


ムジナモもん(埼玉県羽生市)




いたっち(井泉公民館にて)


羽生市ホームページ
http://www.city.hanyu.lg.jp/index.html
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語学が苦手なのに無謀な“翻訳”に挑戦したお死者さんは?

2012年02月06日 | ふるさと人物部屋
ぼくが英語の勉強に夢中になったのは、
英語教師が好きだったからというややもすると不純な動機だったが、
必要に迫られた人の語学に対するエネルギーはすさまじい。

その人物とは“杉田玄白”。
歴史の教科書でおなじみの蘭方医である。

玄白は藩医の子として生まれ、
幼い頃より医術は身近なものだった。
元より志のある人だったらしい。
青年時代に、外科に新しい領域を見出そうと決意。

しばらくしてオランダ医学に出会い、
江戸に宿泊するオランダ人たちを訪ね、熱心に話を聞いた。
やがて玄白が手にしたのは『ターヘル・アナトミア』という外科の原書だった。
ページを広げてみると、緻密な図版が掲載されている。
そしてズラズラ並ぶオランダ語の文字。

ある日、刑死体の解剖が千手骨ヶ原で実施され、
玄白はそれを見に行く。
そして、肌身離さず読んでいた外科原書の正確さを、
目の当たりにするのである。

とはいえ、玄白はオランダ語ができたわけではない。
図版の正確さを目の当たりにし、原書を翻訳を決意する。
翻訳して日本人にも読めるようになれば、
医術界に大きな影響を及ぼすだろう。

この原書の翻刻作業には、
玄白のほかに“前野良沢”と“中川淳庵”が加わる。
オランダ人女性に惚れていたわけではない。
純粋な向学心と日本のためを思って翻訳に打ち込むのである。

講師がわかりやすく書いた参考書もなければ、
インターネットもない時代である。
「無謀」とも呼べる挑戦だったかもしれない。
玄白自身、櫓も舵もない船で大海原へ乗り出していったようなものだと、
後年『蘭学事始』で述懐している。

しかし、人間やると決めたら、実際に行動する人の方が強い。
後込みして一歩進まなければ、何も始まらないのだ。
「所詮は無理」と言われようと、
人からの批判を恐れず行動した人が“勝ち”なのだ。
玄白も同書で、のちのそしりを恐れているようでは、
何もできぬと述べている。

かくして、翻訳を決意してから3年後に
『ターヘル・アナトミア』の訳書『解体新書』が完成するのである。
三人が額を寄せ、頭を悩まし、苦心して完成させた日本人による翻訳だ。
玄白たちの喜びは一入だっただろう。
また、日本における「翻訳」に大きな影響を及ぼすことになった。

玄白先生が教えるところは、「後込みせずにやれ」ということだろう。
動機はなんでもいい。
世界の入口は、人の数だけある。
ただ、そのあと継続し、高い壁が立ちふさがっても、
「無理」と自ら退かずに挑戦する人はどれほどいるだろう。

文化の歴史で名を刻んでいる人の多くは、
「初めて」を成し遂げた人である。
人は常識を越えたものに遭遇すると、
後込みをするし、ときには批判をする。

「常識」を絶対の基準にすると、
事なかれであっても、新しい創造を成し遂げることはない。
「常識」の先に新しさがある。

杉田玄白が外科原書の翻訳を決意したのは39歳のとき。
決して若くはない。
しかし、後込みせずに、羅針盤も持たないままに挑戦した。
そのエネルギーは、新しい時代の到来を予感した日本人の
エネルギーそのものだっただろうか。

無謀な挑戦をしたゆえに現在の「杉田玄白」がある。
もし後込みして行動に移さなかったら、
教科書に載ることはなかっただろう。
その名はとっくに死んでいたに違いない。
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羽生へ向かうには“通運丸”に乗って行く?

2012年02月05日 | 近現代の歴史部屋
例えば、埼玉県羽生市へ行くとする。
理由はなんでもいい。
羽生城の史跡を訪ねる、ゆるキャラの“ムジナもん”に会いに行く、
キヤッセ羽生へ遊びに出掛ける、いがまんじゅうを食べる……

電車なら4つの駅がある。
羽生駅、南羽生駅、西羽生駅、新郷駅である。
前者2つが東武鉄道で、後者2つが秩父鉄道。
いやいや、車かバイクで行きますと言えば、
高速道路に乗って羽生インターチェンジで下りればいい。

もしかしたら、ヘリや飛行船、グライダーで来る人もいるかもしれない。
自転車を走らせて向かう人もいるだろう。
長距離ランナーだったら走ってくるだろうか。

「いいや、私は船で行きます」と言う人がいたとする。
利根川か葛西用水路を上ってくれば、やがては羽生だ。
どんな船で来るだろう。
高瀬船? モーターボート? 豪家客船?

実は、100数年前まで、交通と言えば船が賑わっていた。
年貢等を江戸に運ぶのに、船の方が断然能率がよかったからだ。
しかし、明治時代に入って“鉄道”が興ってくると、
舟運交通は衰退の一途を辿っていく。

しかし、急激に姿を消したわけではない。
水上と陸上の両交通が併存していた時期もあった。
江戸幕府が倒れ、明治の新しい時代が幕を開けると、
文明開化の音は舟運交通にも響くようになる。

利根川を行き交きする船は、それまで高瀬舟や平田船が主流だったが、
“蒸気船”が登場するのである。
利根川に初めて蒸気船が走ったのは、明治4年のこと。
44トンの大型蒸気船で、
“西村七右衛門”が英国から購入したものだった。
深川万年橋より中田河岸まで運航。
この船は“利根川丸”と呼ばれている。

明治10年、日本国内で初めて作られた蒸気船が浮かぶ。
この船の名は“通運丸”。
“内国通運社”が旅客運送営業を企画し、
前年から利根川や江戸川の水深測量や浚渫を実施していたのだ。

そして、明治10年2月18日に通運丸の試運転を実施。
同年5月2日に深川扇橋から栃木県生井村間を航行し、
本格的な営業が開始されるのである。

この通運丸は、往時の人たちから人気を博す船となった。
通運丸が通れば、橋の上は人でごった返す。
錦絵にもなり、かなり売れたらしい。
通運丸が川を滑る姿は、文明開化そのものだっただろう。

この通運丸は羽生の長宮河岸にも止まっている。
現在の埼玉県羽生市本川俣である。
明治9年に発足した民権結社“通見社”は羽生の松月亭を事務所とし、
埼玉県下では最大の力を誇っていた。

明治14年6月1日、“末廣重恭”は羽生町で開催される政談演説会に参加する。
このとき、羽生町に鉄道は敷かれていなかった。
末廣重恭は、堀口昇と共に東京を発つのだが、
彼らが交通手段として使ったのが通運丸だった。

通運丸は、東京から羽生までは約10時間である。
現代の感覚からするとだいぶ遅く感じられるだろう。
それに、通運丸は現代で言う豪華客船に似た感覚かもしれない。
客室には畳付きの特等客室があり、一般の普通室があった。
船内では2回のお茶サービス有り。

5月31日夕方に東京を出た末廣らは約10時間かけて、
6月1日早朝に長宮河岸に到着したのである。
このとき、政談演説会の発起人である掘越寛介が2人を迎えに来ている。
ちなみに、かの“田中正造”も通運丸を借り切って乗り、
直訴に東京へ向かっている。

人気を博した通運丸は次々に作られる。
第8号まで作られ、その雄姿は川の上を滑っていった。
しかし、前述のとおり、鉄道交通が各地で盛んになり、
通運丸に暗い影が忍び寄る。
明治44年に航路を整備したが、盛り返すことはなかった。
内理国通運社は、大正8年12月17日に
全ての通運社を東京通船株式会社に譲渡したのだった。

通運丸は時代の流れによって生まれ、
その短い命を終えたと言える。
通運丸の姿を消し去ったのもまた、時代である。
しかし、誕生したばかりの頃は人々の目を奪う華やかな船だった。

「華やか」と言うと、現代の豪華客船を思い浮かべそうだが、
振動もすごく、音もうるさかったそうだ。
しかし、だからこそ文明開化の音、
その音に胸を震わせた人も多かったに違いない。

無論、いまは利根川へ行っても通運丸は走ってしない。
その面影を偲ぶことは皆無だ。
利根川も、ダムや堰、土手の建設でその姿を変えている。
いまは飲み水や農業水として使われているだけかもしれない。
しかし、交通の大動脈だった時代もあったのだ。

羽生へ出掛けるとき(別に羽生でなくともいいのだが)、
交通手段の一つに“通運丸”を思い浮かべてみると、
時代の流れと利根川の歴史的深さを感じることができるだろう。
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昭和のはじめ、羽生の旭町に“シンボル”が登場した?

2012年02月04日 | 近現代の歴史部屋
かつて、羽生一の高さを誇るものが旭町に存在していた。
それは“火の見櫓”。
鉄骨造りで昭和初期に作られた。

現在は跡形もないが、
旭町大通り沿いに立っていた。
場所は、元お寿司屋さんの駐車場。
近くにはラーメン屋さんやそろばん塾がある。

昭和30年代を舞台にした映画「ALWEAYS」ではないが、
この火の見櫓を見上げた人はたくさんいただろう。
遠くからでもその雄姿を望むことができたのかもしれない。
それは旭町のシンボルだった。

しかし、この火の見櫓は短命だった。
太平洋戦争の最中、物資不足を補うため、
軍は全国から金属類を回収。
お寺の梵鐘などが供出されたが、
旭町の火の見櫓もその災から免れなかった。

昭和18年に撤去。
火の見櫓は旭町から姿を消した。
それが何に変わったのかはわからない。

前述のとおり、その火の見櫓跡は元お寿司屋さんの駐車場である。
お寿司屋さんもすでに営業していないらしく、
とても静かだ。
かつての雄姿をいまに留めることなく、
時を重ねている。

※最初の写真は旭町の火の見櫓跡(埼玉県羽生市)
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“ムジナもん”と遊びませんか? ―アメ―

2012年02月03日 | ムジナもんの部屋
2011年の“ゆるキャラさみっとinはにゅう”でもらったアメ。
アメの中にあるのは、
ムジナもん(左)といがまんちゃん(右)の顔である。

子どもに見せたら興味津々。
ぼくの分までとられてしまった。
どんな味がするのだろう。
よーく舐めると、
ムジナもんといがまんちゃんの味がするかもしれない!?
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