国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

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「ヒップホップ」という場に集ったプレイヤーたち

2012年01月30日 | ヒップホップについて
長谷川町蔵氏は始めに言った。
「日和ってマッド・リブはかけたりしません。今日はヒットしたものをかけます」
この一言がすべてを象徴しているような気がする。
この言葉の裏を読めば、
マッド・リブがまずあまり売れていないという現状を感じることができる。
少なくともヒットをしているという感じでは無いことが分かるだろう。

長谷川氏と大和田氏の両名の掛け合いで、
ヒップホップの創世から現在までの流れを音原を聴きながら進んだ。
だが如何せんその歴史は来年で30周年とは決して長くないとはいえ、
それでも変容をし続けるヒップホップ史を丹念に追いかけるのは少々大変だ。
そこで6つのセクションを30分という時間配分で話し、
加えて音源もすべてを聴くわけではなく、頭の部分などを数分聴くという形で進んだ。

6つのセクションとは
「ヒップホップの誕生」・「イーストコースト」・「ウエストコースト」
「ヒップホップ・ソウル~ティンバランドのサウンド革命」・「サウス」
そして「ヒップホップの現在」である。
おおむね『文化系のためのヒップホップ入門』と同じ流れで進んでいるため
詳しいことはやはり本を読むべきだろう。

さて、僕自身のことについて少し書こう。
ヒップホップについて分からない状況があったのだが、
この本を読んでからある方法でヒップホップについて迫ろうと考えた。
それは、
「できるだけ歴史上まんべんなく音を聴く」ということである。
これはジャズの時もそうだったのだが、
音楽にはそれなりの歴史がある。それぞれのジャンルにも当然歴史が生まれている。
確かに自分の好きなものを聴けばそれなりに楽しめるのであろうが、
そもそもジャンルについて何も知らない人が、
どうやって「面白い」ものを見つけられるであろう。
大和田氏が講演始めに
『いーぐる』のマスター、後藤氏の『ジャズ・オブ・パラダイス』に書かれた
「100枚を聴くまで好き嫌いを言うな」という言葉に従って、
ジャズを勉強していた旨の話をしたが、
結局これはヒップホップにも同じことが言えると思う。

そしてヒップホップの歴史を追うようにまんべんなく音を聴いていくと、
結局はヒップホップの求めているものが少しずつ見えてくる。
そう、ヒップホップは結果として売れたものが歴史に残っていくのだ。

長谷川氏は何度も繰り返し述べていたが、
ヒップホップは音楽ではなく、「ゲーム」(競技)であるととらえるのがよいという。
つまりいかに人よりも優れた技術を持ち、
それを世間にアピールできた方が勝ちで価値のあることだ。
ということを競い合っているように考えるのだ。
では、世間の声はどう聞くのかというと「売り上げ」は1つの視点と成り得る。
売れれば売れた分、世間の人はそれに「ノって」いると言えるだろう。
もちろんそれだけではないのだが、
ヒップホップほど売り上げに対して貪欲で
かつ売れたことを心底喜ぶミュージシャン(ラッパーやDJ)はいないだろう。
何せラップでは「金」・「車」・「女」を高々としゃべっているのだから。
彼らは自分の欲望に忠実であり(実はここもミソなのだが、後日再び取り上げる)、
欲望をしゃべって、金を儲けるのが当然のことと考えているわけだ。
そのためには「場」で一番力をもつプレイヤーに成らなくてはいけないわけだ。

もちろん初めからそうではなかった。
そこには公民権運動など複雑なアメリカ情勢もあり、
ラップが批評性を持っていた時もある。
だが、ヒップホップが「ゲーム」性の高い音楽であることは
その誕生期から変わらないことを頭に置いておく必要がある。

ここら辺でだんだんヒップホップが気になってきた人は、明日本屋に走るべきだ。
そしてぜひ『文化系のためのヒップホップ入門』を読んでみてほしい。
絶対にヒップホップに興味が出てくるはずだ。

いよいよ明日からは実際の講演の内容に入っていきたいと思う。
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ここら辺でちょっとヒップホップについてまとめてみよう

2012年01月29日 | ヒップホップについて
1月28日の土曜日に、ジャズ喫茶『いーぐる』で
『文化系のためのヒップホップ入門』(アルテスパブリッシング)の著者である
長谷川町蔵氏と大和田俊之氏の講演会があった。

ジャズ喫茶でヒップホップがかかるといういわば異種格闘技戦のような感じだが、
そもそもの発端は音楽評論家の中山康樹氏が
「ジャズのもっとも優れた部分が、今ヒップホップに継承されている」的な発言を
『Jazz JAPAN』誌でしたことから始まる。
(この発言はかなり注意して扱う必要があるため「的」と表現をする)
この件に関しては、今まで何度かブログでも取り上げているし、
『いーぐる』のマスターである後藤雅洋氏も興味を持っているため
何度かヒップホップ関連の連続講演を行っている。

まぁ、正直言って僕はこの中山氏の発言がなければ
一生ヒップホップを聴かなかったかもしれないほど、聴いたことがない。
イメージとして持っているのは野球帽にズボンを腰まで下げ、
ズリズリと歩くスニーカー姿のちょっと近づきたくない不良なお兄ちゃんであった。
実際に友だちとヒップホップについて話した時もこのイメージが出てきた。
つまりは全くジャンルとして意識がしたことも無いほど知らないということだ。

まず、『いーぐる』で「ヒップホップ学習会」という名で
中山氏が昨年5回の講演をゲストと共に行った。(僕は5回中4回出席)
ここで紹介されたアルバムをできる限り購入して聴いてみたのだが、
どうも一向にピンとこない。
何故かと今振り返って考えてみると、
やはり中山氏の言葉に引きずられて聴いていたため、
知らぬうちに「ジャズ→ヒップホップ」と「ジャズ≒ヒップホップ」の印象を
追い求めていたようである。

加えて中山氏は自身のストーリー上の重要な人物として
マッド・リブをヒップホップ側から出していた。
これは後藤氏も言っているのだが、マッド・リブが「あまり面白くない」のだ。
何が面白くないかというと、「頭で考えたような音楽」であると評している。
これには同感で、色々とマッド・リブの音楽を聴いてみたが、
最後まで聴けたのは『シェイズ・オブ・ブルー』ぐらいしかない。
日常的に取り出して聴こうともあまり思わない。
これはマッド・リブが駄目であるということではなく、
果たしてこれがヒップホップであるのならば、
ジャズを聴いていた方がよっぽど面白いと思ってしまうのだ。
つまりはわざわざジャズの音源をサンプリングしても、
元の作品を聴いた方が面白いということである。

ところがである。
実は僕が行けなかった回にゲストで音楽ジャーナリストの原雅明氏が来た時、
その時の音源がかなり「ピン」と来た人が多かったそうだ。
その後もう一度、原雅明氏は『いーぐる』で講演をしている。(残念ながら僕は欠席)
セットリストを見るとそれまでの流れとちょっと違うものがかけられていた。

僕自身も興味があることなのでそれなりにヒップホップを聴いてみたのが、
どうにもよく分からない。
アルバムガイドを買おうかとも思ったのだが、どうも気が進まない。
理由は連続講演で紹介されたものとかなり違うものが紹介されいるのだ。
ウィキさんで「ヒップホップ」と調べてもよく分からない。
何せ「ヒップホップにおいて、ラップ、DJ、ブレイクダンス、グラフィティは
四大要素と呼ばれている」から始まる文章は、ちょっと難しすぎる。
大体グラフィティって何?状態だ。

そんな時である。時代は呼応しているのか、
『文化系のためのヒップホップ入門』が発刊されることになる。
気付くのに遅かったが、ヒップホップ系の本というのは意外に少ない。
まして「入門」と付くものは初めてではないか?
何度も読み直し、そしてついにその著者である2人の話を
直接聴ける機会がやってきたのである。

今日からしばらくヒップホップについて続く。
そして中山氏が言わんとしていたことがどのようなことなのか
自分なりに考えてみた。
様々な部分で足りないことや間違った部分もあるかと思うが、
文責はもちろんすべてこちらにある。
あくまで僕個人のヒップホップについての考えをまとめてみよう。
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変化に対応するには少々の時間がかかる

2012年01月27日 | マスターの独り言(ジャズ以外音楽)
一度聴いただけではなかなか分からないアルバムというのがある。
そうした時の人の行動は3パターン考えられる。
1つ目は聴くのを止めて、倉庫に眠らせておく。
2つ目はすぐさま売りに行って新しいアルバムを買う資金にする。
この2つのパターンは1で置いてあったのが邪魔になって、
売りに行くなどの応用パターンも考えられるが、
まぁ、要するに聴くのを止めるというパターンだ。

3つ目は我慢をするかどうかは人それぞれだが、
ことある事に取り出して聴いてみる。
その時のCD置き場と相談ということもあるだろうが、
果たしてどれが良いのかはその人の音楽人生によって変わる。

デレク・トラックスにはまった時、ほとんどのアルバムを一斉に買い集めた。
そして最新作が奥さんのスーザン・テデスキと組んだ新バンドで、
テデスキ・トラックス・バンドであることを知り、少々の違和感を覚えた。
「あれだけスゴイギタリストが、奥さんにすべて持っていかれてる!」
『レヴェレイター』と題されたアルバムは、そう感じずにはいられない。

「あぁ、2人で公私合わせて協力するのだな」と好意的にとらえようとしても
デレク・トラックスのそれまでのアルバムの持つ超絶的ギターテクと
その選曲センスを思い出してしまい、「う~ん」とならざるえない。
まして、『レヴェレイター』がアップテンポの曲が無く(全曲夫婦のオリジナル曲)、
ほぼ全曲に近いぐらいスーザン・テデスキの歌が入っている。
インストルメンタルでギターの凄みを味わっていただけに、
「何もそんなに歌わなくても…」と思ってしまったりもする。
(まぁ、それまでにも歌付きのものはあったのだが…)

ところがだ。
それでもデレク・トラックスが入っていると思いながら、
何度か聴いてみると、これはこれで良いように感じられてきた。
何もスーザン・テデスキが悪いわけではない。
その変化に僕が対応しきっていなかっただけなのだ。
歌の後ろでデレクはしっかりとギターを披露しているし、
全体として曲調は、コッテリ感のあるブルース風味である。
何がきっかけになったのかは分からないのだが、ある時突然にそう思った。
きっと耳のチューニングがふとした拍子に合ってしまったのだろう。

そんなわけで今日も『レヴェレイター』を聴くのだ。
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アルバムが奏でる黄色い音

2012年01月26日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
音からも色が「見える」時がある。
ものの例えでエリントンの楽団は「色々な色を混ぜたような」などと
表されたりもするが、音やアルバムにはそれ特有の色を備えたものもあるのだ。

今日の1枚、チャールズ・ロイドの『フォレスト・フラワー』からは
どんな色をあなたは想像するだろう。
僕はもう言わずもがな「黄色」である。
何故そう思うのか?

察しの良い方ならばすぐにジャケットの色に気付くだろう。
タイトル部分が黄色く染まっている。
加えて曲のタイトルである。
A面が「フォレスト・フラワー-サンライズ」と「フォレスト・フラワー-サンセット」
というようにどちらも太陽に関係のあるタイトルになっている。
僕はどうしてもこのタイトルから「向日葵」を想像してしまう。

このアルバムはリーダーはチャールズ・ロイドであるが、
それ以上にサイドが有名人で固められている。
ピアノがキース・ジャレット、ベースがセシル・マクビー、
そしてドラムがジャック・デジョネットと今ではそれぞれが大御所のメンバーだ。

冒頭に頼りなさそうなふわぁんとしたロイドのテナーが鳴る。
そこにキース・ジャレットのコッテリとした明るく南国風のピアノが入り込んでくる。
どうしてもキースはソロやトリオのイメージが強いのだが、
実際のところキースはかなり粘りの強い、腰のあるピアノを弾いていた時期があるのだ。
2人の対照的な演奏は螺旋を描くように宙に登りつめ、
やがては静かに終わっていく。
ロイドのブローは熱くなっていくのだが、聴いている印象はどことなくクールだ。
背後でバッキングをするキースの音はどこまでも陽気だ。
演奏がゆっくりと燃え上がり、温かな空気が広がっていく。
そう、様々な顔を見せ、人間に恩寵と苦難を与える太陽のように…
なーんて言ったらできすぎか?

録音された1966年ごろには「フラワー・ムーブメント」がアメリカで起こり始め、
ロック界にはその影響が出てくる。
一面に広がり続ける花の野は一体どのような光景であったのかは
僕には残念ながらその世代ではないため分からない。
しかし、ジャケットのチャールズ・ロイドのサングラスには
モントルーに集まった人々が映る。
その光景はまた、たくさん花が咲き誇るかのように希望と期待で広がっていたのだろう。
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「知らぬが仏」 僕はラップの意味が分からない。(あ、でも「あえぎ声」は分かります)

2012年01月25日 | 休業のお知らせ
週の半ばになり、何故だかもの凄く疲れた。
テレビを寝ながら爆睡をしてしまい、
浴槽に浸かりながらこれまたうたた寝をしてしまい、
パソコンの前に座って深くため息をついてしまう。

まぁ、ちょうど週も折り返しだから今週ももう少しで終わるということだ。
そう考えると「あと一息!」という思いも出てくるのだが、
そのためにはエネルギーが必要である。
あれやこれやとジャズのアルバムを漁ってみるも気持ちとフィットしたものがない。
どうやら今日の気分は別ジャンルを求めているようだ。
と、ドクター・ドレーの『ザ・クロニック』を取り出してみた。

ヒップホップは相変わらずの勉強中である。
色々と本も読んでみてヒップホップ誕生の背景なども調べてはいるのだが、
結果として音源を聴いてみるしかないだろう。

「ヒップホップとジャズの親和性」というテーマから聴き始めたが、
正直、難しいことはあまり考えない方がいいかもしれない。
単純に音に馴染み、リズムを身体に染み渡らせることで、
ヒップホップのカッコよさをつかまえることができるのかもしれない、
と最近になって思うようになってきた。

よくギャングスタ・ラップが苦手という人がいるようだが、
僕は一向に気にならない。
そもそも英語の意味が分からないのだ。
加えて身体に音を染み込ませるということは、ラップもただの音になってしまう。
かなりの問題発言でも音として受け入れてしまえば大して問題ではない。

疲れていると身体は自然の状態に近くなる。
妙な緊張感もなく、耳に自然と入ってくる音がただ心地よい。
もう何度繰り返しただろうか?
それさえも忘れてしまうほどに気持ちのよさしか感じない。

え、寝てるから気持ちいいんじゃないかって?
寝てませんよ。取りあえずはこうやって駄文を打っているのだから…
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