国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

レーベルもまたミュージシャンを生かすのだ!

2009年07月31日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
ECMというジャズレーベルがある。
ドイツで発足されたレーベルであり、
プロデューサーはマンフレート・アイヒャーである。
ブルーノートのプロデューサー、アルフレッド・ライオンと同じドイツ人である。
アメリカで生まれのジャズが、
ドイツ人プロデューサーによって広がったというのは面白い。

ライオンは、コテコテのどっしりとしたジャズを好み、
その大部分は黒人のミュージシャンによるものであった。
アイヒャーの作るアルバムは、発足された時期(1970年)もあるが、
クラシカル的で、現代音楽風の音楽であった。
それまでのジャズとは大きく違った音を
ECMというレーベル自体が持っていたということを
誰もが感じるところであろう。

今日の1枚は、スティーブ・キューンの『トランス』である。
よくECMのアルバムをかけると、空気まで変わったような気がすると言われる。
音が出るまでの時間、まるで掃き清められ、
チリ1つ落ちていない神社の参道のような静けさがある。

1曲目「トランス」では、数秒の静寂の後、
それを打ち破るかのように一斉に楽器が鳴り始める。
やがてキューンの上品で澄み切ったソロとなる。
ソロを引き立てるのがベースとドラムの正確で乱れのないリズムである。
やがてキューンのピアノは絶頂を迎え、
その頃にはいつしか幻想的な世界に迷い込んでいる。

2曲目の「ア・チェンジ・オブ・フェイス」は、
タイトル通り、エレピに変わったキューンが、アップスピードで疾走する。
ジャック・デイジョネットのドラムミングにはどこか南米ぽい響きもあり、
またしても不思議な感覚にとらわれる。

アコーステッィクとエレキの2つを使い分け、
優美さを甘美さを持ち合わせたキューンのアルバム。
そこにはECMというレーベルの特色も十分に生かされている。

ただのお客じゃありません!

2009年07月30日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
この人のアルバムを見ると黙って手が伸びてしまう。
それが名演であろうと駄演であろうと関係ない。
惚れた弱みというものもあるが、
期待を裏切らない演奏がそこにあるからだ。

そんな僕のお気に入りのトランペッター、
ウディ・ショウのアルバムから今日の1枚。
『ウディ・ショウ・ウィズ・トーン・ヤンシャ・カルテット』である。

最近ウディ・ショウが、70,80年代のジャズ変革期に
結構重要な役割を果たしてことが語られるようになってきた。
先日の「いーぐる」の講演でも
「ステッピン・ストーン」が取り上げられ、
一聴何でもないジャズのように聞こえるが、
そこには創意と工夫が施されていることを村井氏が述べていた。

今日のアルバムは1985年に
オランダのトーン・ヤンシャのカルテットに客員として呼ばれ、
吹き込んだものである。
トーン・ヤンシャという人については全然分からないが、
サックスにフルートと管楽器を使い、
また全曲提供していることから有能であるのだろう。
その上、彼の演奏も一級品なのだ。

ヨーロッパの録音ということもあり、
どことなく気品に満ちた雰囲気が全体にあり、その中に緊迫感がある。
本場のジャズメンを迎え、
自然と空気がピリッと引き締まってくるのが目に浮かんでくる。
だが、ショウは、むしろリラックスをした様子で演奏をしている。
柔らかく、それに軽やかにメロディーをなぞるショウは、
ヤンシャのカルテット共に自分の新しい響きを求めて高々と飛翔していく。

ここでエリック・ドルフィーとの共通点を感じてしまう。
ドルフィーもヨーロッパで何度も吹き込みをしている。
ショウは昔にドルフィーと共演をしたこともあるのだ。
ショウも閉塞していくジャズに新たな光を求めてヨーロッパへ…
な~んてこともあったかもしれない。

「昔はよかった…」って誰もがついつい言っちゃうね

2009年07月29日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
なんだかんだと古き良き時代を懐かしんでしまうことが多い。
「あぁ、あの時はよかったなぁ」と
ついつい過去を振り返ってしまうのは、今の状況があまり芳しくないからだろう。

ジャズにもそういう時があった。…ようである。
これもリアルタイムで体験したわけではないが、
1970年ごろからエレキのジャズが広がりを見せ、
それはやがて「フュージョン」となっていく。

「フュージョン」に対して、過去を懐かしがる人がいるのは自然の理だ。
1970年代に揺り戻しのように、「ハード・バップ・リバイバル」が起こる。
職を失いアメリカを出たジャズミュージシャンたちが、
ヨーロッパでアルバムの振り込みを始める。
それが慈雨のごとく「フュージョン」席巻の世に降り注ぐ。

今日のソニー・スティットの『チューン・アップ!』もそんな流れの1枚だ。
内容は正統的なハード・バップであり、
メンバーもソニー・スティットをはじめ、
バリー・ハリスにサム・ジョーンズとこれまたオーソドックス。
スティットはアルトとテナーを使い分け、ノリノリの様子で吹きまくる。
「俺たちの演奏を聴きやがれ」的な演奏で、
他のメンバーも力を入れて、一丸となり迫ってくる。
それはタイトル通り、まさに息のあった『チューン・アップ!』だ。
(このびっくりマークに力強さを感じてしまうのは僕だけではないはずだ!)

「エレキなんかにゃ負けないぜ!」と思ったかどうかは分からないが、
「ハード・バップ・リバイバル」でのジャズメンの演奏は、
どれも枯れを感じさせない。
むしろ肩の力の抜けたいい演奏やアルバムが多い。
ヨーロッパでの録音が多いということも、新しい響きを吹き込んでいる。

また、ジャズが拡散していき、聴き手も様々な音楽を求めるようになった。
そんな時代を象徴している1枚でもある。

どーも「モード」は難しい

2009年07月28日 | 他店訪問
先週の土曜日に「いーぐる」で連続講演会があった。
村井康司氏による「(拡張された)モード・ジャズ名曲選」
というタイトルでの講演である。
よく「いーぐる」の連続講演会にお邪魔をするのだが、
とにかくタメになる。
というよりも、自分の知らないことを教えてもらう喜びを
大学を出て○年だが改めて感じる。
しかも「いーぐる」の講演会では、
必ずそれを裏付ける音源が用意されている。
「いーぐる」で納得いく説明を受け、
そのままそのCDを集めたことも度々だ。

今回は特に村井さんによる「モード・ジャズ」についての話。
そもそも「モード・ジャズ」となると、
本などでその言葉はよく見かけ知っている。
でも僕自身がどれほどその内容まで理解をしているのかは怪しい。
これは僕に限らず多いのではないだろうか?
最近になってようやく「コード進行」についてなんとな~く分かってきたため、
ここで一緒に「モード」も勉強してしまおうってな気持ちで参加をした。

まずは「モード」代表のマイルスの『カインド・オブ・ブルー』から
「ソー・ホワット」から聴く。



僕はこの曲は聴くたびに思うのだが、それほど盛り上がりもなく
全体が抑えて演奏されていることを感じる。
つまり面白味がないのだ。
もちろん聴き所はあるが、それでも熱狂とはほど遠い。

村井さんは言う。
「モード」とは、音階のつながりであると。
ここまでは本にもよく書いてあることだし、「???」である。

従来ここまでの音楽は西洋音楽が主流であり、
マイルスは西洋音楽の呪縛から離れようとしていたのだと。
西洋音楽の代表表現が「コード」でドラマチック的である。
確かにパーカーなども「コード進行」に則ってアドリブを吹いている。
一方で西洋音楽ではないものもたくさんある。
日本の雅楽やアフリカの音楽、東欧やインドなどの音楽など。
それらは元々「コード」で縛られていたわけではない。
マイルスは「コード」ではなく、そうしたイスラム圏や東欧の響きを求め、
和声の響きから脱却しようとした。
それが「モード」なのだ。と、いうことだそうだ。

まぁ、考えてみると僕たちは、
「音楽」という授業で知らぬうちに西洋音楽を基本的に学んでいる。
譜面にも「コード」があり、学校の先生も「コード」で伴奏をつける。
つまり自然と西洋音楽的なものを耳に覚えてしまっているわけだ。
「モード」は、そうした和声の響きから、
もっと自由にメロディーラインを創り出そうとしたものだ。
と、僕は受け取ったのだが……

その後、アフリカのサムピアノの演奏やパキスタンの宗教曲、
ブルガリアの合唱を通して、
「モード」がいかに他文化を吸収していったのかを聴いた。
ウエイン・ショーターやハービー・ハンコック、チック・コリアたちが、
その「モード」をより発展させ、
「モード」と「コード」を組み合わせてさらなるジャズに取り組んでいった。
それが日本では「新主流派」と呼ばれるようになっていったわけだ。

「モード」というと方法のように感じていたが、
そこには他文化への憧憬があり、
またより自由な響きを求めていったということだろうか?
あくまで村井さんの話を僕が受け止めたものであるため、
ご本人の意図とはずれているかもしれないが、
少しだけ「モード」の輪郭線が見えてきたような気がする。

帰りにI-Podからジョーヘンの「アワ・シング」が流れてきた。
確かにその響きは、それまでとは違うジャズの響きを持っていた。
……ように感じた。

ちなみに「モード」についてもっと正しく知りたいなら
村井康司氏の『ジャズの明日へ』(河出書房新書)を一読することをお薦めする。

暴走列車が止まらない!

2009年07月27日 | マスターの独り言(ライブのこと)
音楽評論家の原田和典氏は、
よくジャズメンの身長と頭の形について語る。
「あの人は身長、高いですよねぇ」とか
「あの人の頭の形はいいんですよねぇ」とか…
初めはただのジョークだと思っていたのだが、
実はこれが意味のあることのようだ。
テナーサックスは吹きこなすのが難しい楽器のようで、
特に良い響きを出すためにはブローも大切だが、
頭蓋骨の形などで響き方が微妙に変わってくるような話だ。
また身長もその響き方に関係してくるとかこないとか……
まぁ、それこそ冗談のようでもあるが、でも妙に納得させられてしまう。

だから僕も出てきたジェイムス・カーターの頭の形に
目を向けてしまったのはそのことがあったからである。
身長に関してはもう言う必要もない。
頭の形も……帽子を被った状態だからよく分からない。
ただ、とにかく凄まじくエネルギッシュな演奏を聴かせてくれそうな雰囲気だ。

そのカーターがフルートを最初に手に取った時には少々がっかりした。
フルートというとついつい上品な音色を考えがちである。
ジャズにおけるフルートは、
エリック・ドルフィーの破天荒な演奏を聴いてもらうとして
あのカーターの体躯に、フルートという細身な楽器は似合わない感じだ。
だが、演奏が始まるとそんなことは気にならなくなる。
コーリー・ウイルクスがトランペットを吹いている間に
ソプラノサックスに持ち替え、薄く伸ばしたような音を
勢いのあるブローで吹き出す。
しかも全身を揺すり、全身でリズムに乗るカーターは、
線路を外れた暴走列車だ。
その上リズムセッションが何とも言えないほどの陽気さで、
カーターらホーンの2人を煽り立てる。
特にベースのラルフ・アームストロングはうなり声を上げたり、
ドラムのレオナード・キングと目配せしてスピードを上げたりと
とにかく盛り上げまくる。

2曲目でようやく待ちに待ったテナーサックスの出番である。
カーターが吹くと、全身にぶるりと震えが走った。
それほど力強く、クリアな音色だった。
無理なく捻り出されるテナーの音色は、その場にいる誰もを黙らせる力があった。

カーターのソロの途中でピアノのジェラルド・ギブスが、
欠伸をしたり、眠そうに目を擦っていたのを見て、
「あぁ、生ライブだ」と感じがした。
ジェラルドは、1人気のないような感じで、
曲の途中で次の曲の確認をしたり、ピアノに肘をついたりしていた。
それでも自分のソロになると途端に生き生きと
しかも強烈に鍵盤を叩く。
そのはちゃめちゃ感がライブなのだ。

ファーストセット最後で、とにかく全員が燃え上がりまくった。
カーターは巨漢を踊らせ、ひたすらブローしまくり、
一丸となってノリまくった。
机とかがなければ、全員が踊り出してもおかしくない状況になるほどの
燃え上がりである。
とにかく全員が凄まじかったのだ。

と、時計を見てみると9時。
ファーストセットが一時間半となると、
セカンドセットも同様ぐらいにかかる。しかもアンコール等が入るだろう。
「最終に間に合わない…」
東京の岩本町から埼玉の片田舎までの列車時間を計算してみると、
帰れない状況であることが判明。
泊まる準備も用意をしていないため、
迷いに迷ったがセカンドセットは泣く泣く断念をした。
ファーストの盛り上がり方を考えると、セカンドは更に燃えただろう。
それを思うだけでも残念である。

「疾風怒濤のパフォーマンス」の名を簡単に凌駕し、
まさにその場を激しい熱で包み込んだジェイムス・カーター。
その凄さはやっぱりライブを実際に体感しないと分からないだろう。
次にその名を見つけたら、ぜひ行くことをお薦めする。