国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

ちょっと一休み

2012年02月28日 | 休業のお知らせ
ちょっと最近文章を書くのが億劫だ。
理由があるわけではないのだが、
同じアルバムばかりを繰り返し聴いているため、
おそらく今は「何かを伝えよう」という感覚よりも
「何かを感じ取ろう」という感覚が先行しているのだと思う。

CDも新しいものを買うよりも高音質CDへの変換を中心にしているし、
むしろ今風の物よりも名盤を聴き潰すほどに、
繰り返しているのは音や音楽の見直し時期に来ているのだろう。

一つ事に集中をしていると、いつかフッと気持ちが切れることがある。
適切な距離感をはかり、適切な場所に立つことで
音楽から(何でもそうだが)エッセンスを十分に吸い取ることができる。

そんなわけでここしばらくはおそらく気の向いた時の更新が中心になるだろう。
むしろそういう時はTwitterの方が向いているのかもしれない。

開いていたらラッキーだと思っていただいて、
でも、毎日何かしらの動きはあると思う。
だって、それが人間だから。

ジャズ界のレジェンド、『いーぐる』に現る!

2012年02月26日 | 他店訪問
最近いろいろなことがあったり、心境の変化もあり、
ブログの更新がつぶやきでのみ更新される日々が続いた。
僕は確かにジャズを中心とした音楽生活を送っているのだが、
もちろん全てがジャズ漬けというわけではない。
追求を続けていけば、必ず壁に当たる時があるし、
多ジャンルに目を向けることでジャズに対する多面的な見方も生まれてくると思う。
実はそれというのはマイルスとコルトレーンの相対する生き方にも見えてくると思う。

昨日、『いーぐる』で文藝別冊の『ジョン・コルトレーン』出版記念講演があった。
そこに登場したのが今は無き伝説のジャズ喫茶『DIG』のマスター、中平穂積さんと
新宿にある『PIT-INN』で司会を務めていた
音楽評論家の相倉久人さんである。

まず『Dig』のマスターと会うことができるというのが何よりもスゴイ。
中平さんは多くのジャズ・ミュージシャンと出会い、その姿をカメラに残している。
1966年7月2日のニューポート・ジャズ・フェスティバルに
コルトレーンが参加をしているのだが、
その8mmで撮影をしているのが中平さんである。
おそらくカラーで動くコルトレーンの映像はこれ一本だけだと言われている。
知っている人は知っていると思うが1966年7月にコルトレーンは
最初で最後の来日を果たし、その後対外ツアーには出ていない。
加えて言うなら1967年7月に40歳でこの世を去ってしまった。
つまり最後の演奏の貴重な記録なのだ。

音楽がかかったわけではない。
だが、中平さんと相倉さんの話は、まさにその時の空気を吸った人にしか語れない
いわゆるジャズ黄金時代の重みがあった。
来日公演の際に相倉さんは司会を務めている。
それまでのコルトレーンの演奏からファラオ・サンダースが加わったことで
急激に演奏は変化をした。
そのことを当時の日本人たちはまだ知らなかった。
どう感じたのか相倉さんは語らなかったが、
意外にコルトレーンとはしゃべらなかったと言っている。
これは中平さんもニューポートでコルトレーンに話さず、
写真も演奏時以外には取らなかったエピソードを語っていた。
それはピアニストでコルトレーンの奥さんでもあった
アリス・コルトレーンに寄りそうコルトレーンを見ていたら話せなかったという。

2人とも映像に残そうとしたり、司会をしたりと仕事のような感じで
演奏の印象はないという。
それはそうかもしれないと思った。
何せ一瞬で音は燃え尽きていってしまうのだ。
それを再構築できるのは記録媒体があるからであって、
きっとその場ではどんな演奏だったかなんて誰も語り尽くせないだろう。
だが、コルトレーンの印象はやはり演奏の凄みを感じたという。
映像でも大きなテナーサックスを上下に大きく揺すり、汗を垂らしている姿を見ると
どれほど懸命に音を出していたのか分かる。

まさにお二人はジャズ界のレジェンドである。
今でこそジャズはオシャレなジャンルになってしまっているが、
そう思っている人ほどコルトレーンを聴いてみて欲しい。
そこには燃え尽きようとする巨星の演奏があり、
それに陶酔していった数多くのジャズファンがいて、
ジャズ喫茶があったという歴史が隠されているのだ。

コルトレーンが奏でる極上の演奏とは

2012年02月22日 | 喫茶店に置いてある本
河出書房新社から出た『文藝別冊 ジョン・コルトレーン』を買った。
ジャズ喫茶『いーぐる』の後藤雅洋氏が責任編集ということもあるのだが、
僕にとってジョン・コルトレーンという人はかなり興味を持てる人である。

僕がコルトレーンを聴いたのはマイルスやキャノンボール・アダレイと
一緒にやっているアルバムが最初であり、
コルトレーン名義のアルバムを購入したのは意外に遅かった。
最初は中古屋で売っていた600円のボロボロの『ソウル・トレイン』だった。
そこから二の次へ行かない。
理由としては、コルトレーンが「難解の人」という印象が強かったためである。
ジャズの入門本を読めば必ず出てくるコルトレーンであるが、
「私は聖者になりたい」といった発言は、
音楽をただやっているというより、何か思想的な硬さを持って感じられる。
だからコルトレーンのリアルタイム体験がない僕にとって
それは結局遠ざかる理由になってしまうのだ。

次に買ったのが『セルフネス』である。これも中古でケースにヒビが入っていた。
ここが転換期になったと思う。
『セルフネス』で聴くことのできる「マイ・フェイバリット・シングス」が
とてつもなくカッコ良かった。
コルトレーンのやる「マイ・フェイバリット・シングス」を聴きたいと思い、
『ライブ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』を聴き、
とにかく「なんじゃこりゃー」となった。
まさに当人は大真面目だろうが、こちらは苦笑である。

そこから『至上の愛』や『クレッセント』に進む頃になると
コルトレーンの目指している音楽が見えてきた。
そしてそれが今まで聴いてきたアルバムにも感じられると
コルトレーンへの見方や聴き方が変わってくる。

本はまだ途中までしか読んでいないのだが、
コルトレーンはなかなか解き明かせない謎のような人である。
だが、その謎に巻き込まれ、コルトレーンのマジックにかかってしまった人は多い。

僕は今『バラード』を聴きながらこれを書いている。
澄んだテナーは天上の立ち上る清浄の響きなり。

物語の主人公が口笛で奏でるメロディーは?

2012年02月21日 | マスターの独り言(ジャズ以外音楽)
高校時代に毎日のように本屋に通っていた。
ちょうど『少年マガジン』で「金田一少年の事件簿」を連載している時であり、
それに見事にはまってしまったのだ。
そこで終われば「ただのマンガ好き」なのだが、
名台詞「ジッチャンの名にかけて」の「ジッチャン」が気になってきた。
そのため角川文庫から出版されていた「金田一耕助シリーズ」を
毎日のように買い漁ったのだ。

時はちょうど本格ミステリーブームでもあり、
推理小説の虜になってしまった僕はある程度「金田一耕助シリーズ」を読み終わると
島田荘司、綾辻行人、京極夏彦などなど、とりあえず毎日読み続けたのだ。

その中で異彩を放っていたのが笠井潔の「矢吹駆シリーズ」である。
読んでみるも普通の推理小説と違って重々しい。
加えて推理の楽しみを味わうと言うよりも思想的な対決場面が多い。
主人公の矢吹駆は魅力的であるが、どこかニヒリズムも漂っている。
正直、書かれている内容がちゃんと理解できるようになったのは、
ここ数年前のことである。

さて、その主人公、矢吹駆は犯人と最後に対決する時に必ず出るテーマがある。
マーラーの交響曲『大地の歌』の第1楽章である。
「現世の寂寥を詠える酒宴の歌」という副題が付いているのだが、
これは中国の詩人である李白の詩から始まっている。
中国の詩がドイツ語となり、テナーが押しては寄せる波のようなメロディーにのる。

本を読んでから長らく忘れていたのだが、ふと思い出して買ってみたのだ。
矢吹駆はこの歌の中で何度も使われている
「生は暗く、死も暗い」という言葉をつぶやき、そのメロディーを口笛で吹く。
一体どんな曲なのかと思っていたのだが、
冷え冷えとした秋風が吹き、やがて冬の冷たさが襲ってきそうな夕刻に
たまらないほどの悲しみを覚えるような情景である。

こうした悲しみというのは唐突に襲ってくるものだ。
孤独の淵に立ち、先に進むことも苦しみに変わってしまう。
やがて待ち受けるは全ての人に訪れる死という当然の結果。

悲しいことは悲しいのだが、まぁ、そこに浸りきるわけにはいかないのが実状だ。
それでも時にこのアルバムを矢吹駆という主人公と共に思い出す。

僕は他にも持っているのだが、
このワルター盤はやっぱり心を打たれる悲しみがある。

今日も僕は音楽を聴く。

2012年02月20日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
最近聴こうとする音楽がジャズだけに限らなくなってきているのは
先刻承知だと思う。
突然にバッハの『マタイ受難曲』が聴きたくなったり、
アイス・キューブの『デス・サーティフィケイト』を聴きたくなったりと
かなりの雑食である。

よくジャズを聴く人は、「ジャズが一番」という思いを持っていたり、
クラシックを聴く人は、その音楽がやっぱり「素晴らしい」と思っていたり、
なかなかジャンルを越えて、「音楽として良いものだ」と思うのは難しい部分もある。
どのジャンルでも聴いていると、「良い部分」というのはある。
それをつかまえられるようになってくると、
本当の意味で「音を楽しむ」ということが分かってくるのかもしれない。

何の因果か、ジャズを聴いている内に、
「文章で気持ちを表現したい」と思うようになり、このブログが始まった。
それからまさかこれほどまでに音楽の世界が広がるとは
自分でも予想をしなかった。

今日も僕は音楽を聴く。
それは音への考察であり、それはちょっとしたスパイスであり、
そしてそれはただの楽しみのためである。