国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

スタジオはお宝の宝庫なのか?

2010年10月31日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
毎年夏頃になるとマイルス・デイヴィスのボックスセットが出るのが
ここのところの流れになっている。
今年は『ビッチェズ・ブリュー』の40周年記念ということもあり、
『ビッチェズ・ブリュー 40周年アニバーサリーボックス』が出た。

マイルスは、60年代の後半から自由にスタジオを利用できる権利を持ち、
その結果発売される予定もないセッションを数多くこなしている。
そこにプロデューサーのテオ・マセロが手を加えて、
アルバムとしてまとめられ、多くの作品が生まれることになった。
そのため「コンプリートボックス」のような類が作れるのだ。
(その善し悪しは個々によって異なるだろう)

僕としてはかなり悩んだのだが、
「まぁ、『ビッチェズ・ブリュー』だから…」という
他の人には全く理解できない理由で購入を決意。
未だに未開封に近い状態で眠っている。

『ビッチェズ・ブリュー』に関しては、何度かこのブログでも取り上げている。
「世紀の大傑作」という人もいれば、「最大の駄作」と罵る人もいる。
ジャズ入門書でこのアルバムをまず薦めているものはないだろう。
僕もジャズ入門期には本を読んだが、
『ビッチェズ・ブリュー』に関しては、いくつかの本にようやく
「難しい」ないし「初めから聴く必要なし」を見つけるのみだった。
(大半はこのアルバムの存在にさえ触れていなかったのだが…)

だが、ジャズ聴き始め半年で何を血迷ったのか購入。
そして即後悔である。
「なんでもっと早く聴かなかったのか!」
ジャズ本に踊る「難しい」という言葉とは反して、
「案外聴けるじゃん」というものであった。

もちろん本当に細部まで聴いていたわけではない。
このアルバムに関していえば聴けば聴くほど、恐ろしく手が込んでいることが分かる。
前に『カインド・オブ・ブルー』『イン・ザ・サイレント・ウェイ』
『オン・ザ・コーナー』を「マイルスの離れ小島3枚」としたが、
この『ビッチェズ・ブリュー』に関しては、
マイルスの音楽上の流れにありながらも、独特な世界を形成していると僕は思う。

それは「ジャズ」という分野のくびきからまだ完全に解き放たれず、
しかし「ジャズ」ではない音楽へと進もうとする
マイルスのほんの一瞬のバランスの上に成り立ったアルバムなのだ。

レスターは軽やかに飛び跳ねる

2010年10月27日 | マスターの独り言(曲のこと)
レスター・ヤングといえば、ジャズにおけるビックネームの1人である。
だが、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーなどビ・バップ組の
さらに一世代上なわけだから、かなり録音時代も古い。
今日取り上げる『レスター・リープス・イン』も1936年を最も古くし、
1939年、40年と今から60年以上前の録音である。
そのころからこんな音楽が存在していたこと自体が不思議なことのようにも思え、
またそれを2010年の時点で聴いているというのは、
時間を超越した何かがあるかのように思える。

さて、タイトル曲の「レスター・リープス・イン」を僕が知ったのは、
チャーリー・パーカーの『ライブ・アット・ロックランド・パレス』がきっかけである。
こちらの演奏は凄まじすぎる。
録音されたのが1952年とパーカー晩年の録音であるが、
火を噴くようなパーカーのアルトサックスは、
エネルギーに満ちあふれて、来るもの全てをなぎ倒そうとする
高速で回転する竜巻のような演奏である。

一方で曲の冠になってもいるレスター・ヤングの演奏はどうか?
このアルバムはカウント・べイシー楽団との演奏で、
レスター・ヤングがフューチャーされたものである。
パーカーと比べてしまえば一聴両端なのだが、
非常にゆったりとしたリズムに、軽くテナーがのる。
テナーはアルトよりも音が低く、空間的な広がりがある。
録音状態の悪い中でもレスターのテナーは生き生きと跳ねるようなリズムを作り出す。

どちらがいいかなどを比べるのは愚の骨頂であろう。
パーカーをカミソリのような鋭い演奏とするのであれば、
レスターは鈍く光るような短刀の如き軽やかな演奏である。
それこそ「リープス・イン」の「飛び跳ねる」や「飛びつく」の意味に相応しい。
豊かな含みのあるテナーの音は、今の世にも健在なのだ。

千里のジャズも一聴きから

2010年10月26日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
最近職場での合い言葉が「死なない程度に」となってきた。
人はいつぽっくりと逝ってしまうか分からないが、
その前に「人生楽しめる所ぐらいは楽しもうぜ!」といった風の具合から
生まれた合い言葉である。

そんな言葉が生まれるからかどうかは分からないが最近妙に眠い。
電車で座ってものの五秒で意識がない。
気が付いて自分の降りる駅ならまだしも
「寝過ごした!」などという悲惨な状況もある。

それでもIpodでジャズを聴くことは忘れない。
最近では入れてあるブルーノートアルバム集が5周ぐらいしたこともあり、
徐々に誰のどの曲かが分かるようになってきた。
ふっと「あれ、これはアート・ブレイキーだ」ってなことも
感じ取れるようになってきた。
(異様にテンションが高いシンバル音と絶妙に空く間が特徴的なのだ)

今日もボンヤリと流しているとふいに呼び止めるような音に会った。
曲は『スピーク・ノー・イーヴル』の「ウイッチ・ハント」である。
ウエイン・ショーターのテナーとハービー・ハンコックのピアノが怪しく混じり合い、
かつフレディー・ハバード、ロン・カーター・エルヴィン・ジョーンズと
豪華な組み合わせはまさしく新しい(当時の話であるが)ジャズの波である。

今までは面白いと思いながらこのアルバムを聴いたことは無かった。
だが、今日は今まで耳で止まらなかった音が急に止まるようになり、
曲の形やメロディーの流れが描けるようになってきたのだ。
ウエイン・ショーターといえば独特の節回しが特徴であるが、
このアルバムでのショーターはどことなく大人しい。
ギュッと来るようなショーターが聞こえてこなかったことが
このアルバムの魅力につながっていなかったのだが、
それも今日からは違う。

こんなことを日々繰り返しながらジャズの耳を鍛えていくのだ。

えっ、結局は妄想?

2010年10月24日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
僕がジャズヴォーカルをあまり聴かないのは、
通常のジャズと違って聴き所が難しいからだ。
ポップスやロックは歌ありきで聴いているから、歌は邪魔にならない。
だが、ジャズはインストゥルメンタル基本であるから、
ヴォーカルが乗っかってくると、
果たして歌を聴くべきか、演奏を聴くべきかと悩んでしまう(ちっちゃい悩みだ)。
耳が慣れれば、演奏を聴きながら歌声を楽しむという技が身にも付くのだろうが、
そこまでの道のりは遠い。
結局ジャズヴォーカルアルバムは後回しになっていってしまう。

だが「これだ!」と思わせるような直感がビビビッと走り、
ついつい手に取ってしまうアルバムがある。
まぁ、とどのつまりは「ジャケ写買い」になるのだが、
ジャケットが見せる魅力が、中の歌声を想像させてくれる。

今日のアルバムは、アン・フィリップスの『ボーン・トゥ・ビー・ブルー』。
手前にロングコートを着た女性が、川沿いの堤防に腰を下ろしている。
伏し目がちなその愁いに満ちた表情の背後には、おそらくニューヨークだろう。
高々と建ち並ぶビル群。中には工事中で骨組みのみのビルもある。
街の喧噪は遙か遠くだ。女性は一体何を思い、腰を下ろしているのか?

初めてこのアルバムジャケットを見たとき、ビビビッと来た。
アン・フィリップスなるヴォーカリストがどのような人なのかは全く知らない。
(無知で無邪気なマスターなのだ)
でも、このようなジャケットから伝わってくるのは何故か「恋」なのだ。
おそらく歌もそんな歌が多いのだろう(ここで英語ができないことが悔やまれる)。
しっとりとというと絵に描いたような表現だが、
喉の奥から絡みつくようなアンの声がジャズヴォーカルの味を教えてくれる。

霧立ちこめるようなニューヨークの街。
そんな街にはこんな女性がいるのだろうか…