国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

手札は「フル・ハウス」! これで勝負だ!

2009年06月30日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
僕がジャズを聴き始めた頃、
「分かりやす」かったアルバムが2枚あった。
1枚はキャノンボール・アダレイの『イン・シカゴ』であり、
もう1枚がウエス・モンゴメリーの『フル・ハウス』である。
どちらもノリの良い部分では共通しているように思う。
ジャズというと、夜の大人の音楽的イメージがあるが、
この2枚はどことなくはっちゃけたトッチャンボウヤ的ノリがあり、
聴いていて自然と気分が高揚してくるのだから、
スタミナドリンクにも負けちゃいない。

ジャズ聴き始め時期に混乱しやすいのが、
テナーとアルトサックスの音色の違いである。
キャノンボールとコルトレーンの音色に
集中するとそちらに気がいってしまい、ちょっと楽しみも半減だろう。

それに比べて、『フル・ハウス』は、
リズムセッションは同じなれど、
ギターとテナーという絶対に間違えようのない音色である。
しかもテナーはコテコテ派のジョニー・グリフィン!
これは間違えなく盛り上がりまくりである。
ライブ音源でもあり、会場もかなりの盛り上がりがあったことが聴いて取れる。

今日は、4曲目の「キャリバ」から聴いてみた。
いつも1曲目から素直に聴くのは、これまたジャズの楽しみに反する。
レコードでいうB面に耳を向けてみるのもいいもんだ。
グルーブするウエスのギターに、グリフィンのテナーが勢いよく突っ込む。
ウエスのギターは、どこまでも優しく、ほんわりとした感じがある。
リズムセッションもウイントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブと
当時の最強リズムセッションであるから、文句のつけようがない。
これでノレないなら、不感症もいいところだろう。

しかし、やっぱりタイトル曲である「フル・ハウス」も恋しくなる。
それだけこのアルバムは、名演と名曲が収められている名盤なのだ。

彼はピアノを弾くことを楽しむ

2009年06月29日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
たまにゴツゴツとしたピアノが欲しくなる。
これだと何だかがっちり聴いたという
これまた自己満足な思いが得られるからだ。
いつもいつも情緒的なピアノの音ばかりではおもしろくないものだ。

『バト・パウエル・イン・パリ』
当然ながらバド・パウエルの作品である。
パウエルは前期と後期によく分けられ、
前期はニューヨークなどアメリカでの録音で、
それこそ“天才”と言うに相応しいスピードとアドリブを持った
演奏を多々残している。
後期はヨーロッパに移ってからの作品が多い。
元々の情緒不安定で、精神の安定を図るためヨーロッパに移り住み、
そこでも演奏を続けている。

マイルスの自叙伝では、パリでパウエルとの再会を喜ぶシーンがあるが、
パウエルの演奏が衰えているのを知り、
マイルスが残念がっている。
パウエルの演奏は、「その日の気分」が付きものなので、
アルバムの出来不出来があるのだ。

『バド・パウエル・イン・パリ』は、
後期の中でも聴きやすく、また演奏もかなりの出来である。
パウエルがピアノを演奏すれば、そこは間違いなく灰色となり、
ゴリゴリとした響きにノックダウンさせられてしまう。
ピアノの音は、まさにパウエルの心の響きでもあるのだ。
それでいながら、どことなくユーモラス。

2曲目の「ディア・オールド・ストックホルム」を聴いてみてほしい。
秋の枯れ野に立ちつくし秋風が厳しい様が浮かんでくる。
どことなく懐かしく、どことなくもの悲しい。
それでありながらも心に残るのは、
パウエルが決して深刻に悩んで弾いているからではないからだ。
パウエルはピアノを弾くことを心底楽しみ、自分のメロディーに酔いしれる。

確かに楽しいことばかりではなかったのだろう。
でもピアノの前に座れば、パウエルは弾くこと以外は考えないのだ。

孤独の境地を越えて

2009年06月28日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
マイケル・ジャクソンが死んだ。
そのニュースは唐突だった。
ちょうど仕事中で、その話を聞いた時、
「まさか!」という思いだった。
何せ今年には大々的な復活コンサートを予定していた人である。
死ぬ、という言葉は似合わない。
出張先でようやくテレビを見て、
そのニュースがガセではなく、真実であることを知った。

僕はマイケル世代ではないし、マイケルファンでもない。
でも、見られるわけではない復活ライブは楽しみにしていた。
「スリラー」の物真似ではなく、
スキャンダラスなネタでもなく、
マイケル・ジャクソンの音楽にふれることができるからだ。

今、世界中で流れているマイケルの過去の映像を見て、
本当のファン達には悪いが、
僕もしばらくにわかファンになりそうだ。

「スリラー」の映像を見た時の、ダンスのキレ、映像の統一感、
ライブの盛り上げ方、歌唱力……
マイケル・ジャクソンは、やはりマイケル・ジャクソンなのだ。
スゴイ人だったのだ。

確かマイルス・デイヴィスの自叙伝にも
ジャクソン・ファイブのことが出てきていたような気がする。
あの帝王に意識をさせているのだ。
そういえば、マイルスものし上がり、
音楽活動の休止と復活を繰り返してきた。
どことなくマイケルと似ているか?

マイルス、2度目の復活
『ウィ・ウォント・マイルス』
1曲目の「ジャン・ピエール」で、
マイルスは衰えを見せないどころか、更に向上しようとする姿を見せてくれる。
帝王は登りつめても、先へと進もうとした。

登った先は「孤独」かもしれない。
だが、その一言では語り尽くせないのだろう。
何よりもその高みを見た人は、そういないのだから。

「ウィ・ウォント・マイケル」
世界が望んでいた人は、もういない…
ただ、その音楽が永遠に残る。

もう気温は夏なのだ!

2009年06月27日 | マスターの独り言(曲のこと)
今日は急激な暑さが関東地方に到来したようだ。
出張先だった福島県もかなりの暑さで
すっかり疲れ気味である。
念のためと言っては、何なのだが
仕事先にI-podを持っていっておいたのだが、
結局は聴いている時間もなく、
ほぼ1日ジャズに浸らない状態だった。
夕刻、家に帰ってきて
まずやったのがジャズをかけることだから、
かなりジャズに飢えていたのだろう。

ふと、目に付いたのが先日購入したばかりの
ウディ・ショウの『ロータス・フラワー』である。
モネの「睡蓮」の連作のごとく、
ジャケット一面に白く小さな花が咲き広がる湖は、
夏の訪れを匂わせる。

編成はトランペットとトロンボーンの2管で、
A面がこの時のバンドメンバーの曲で、
B面がウディ・ショウの曲になっている。
ともすれば有名でないため見逃されがちであるが、
その実力のほどは伝統的なジャズスタイルをでありながらも
新しい響きを持っている。

タイトル曲「ロータス・フラワー」の最初は、
まるで睡蓮の花がぽつぽつと開くようにベースの音で始まり、
さぁっと湖に光が差し込むように力強いピアノ音がかぶさる。
そこにトランペットとトロンボーンの抑制された音が重なってくることで
幻想的な湖の姿が、脳裏に描かれていくのだ。

静かにトランペットを吹くショウは、
ただの早吹きが得意のトランペッターというだけではなく、
湖面全体に吹き付けるさわやかな風のような感じである。
バックのピアノとドラムは、まさに80年代、
伝統を踏襲しながらも、新しい響きを求めてしっかりと曲全体を支えている。

聴き終わる頃には、
心地よい湖畔の風にその身を揺らしている睡蓮の花が
印象的にまぶたに残ることだろう。

なに?蚊にあちこち刺された?
まぁ、それもこれも含めてもう夏なのだ。