ある程度毎日ブログを書いていると、書くネタに困ることがある。
聴くべきジャズなどは山のようにあるのだが、
人間、脳は1つに耳は2つだ。
仕事終わりから限られた時間の中で聴くものは、自ずから限られてしまう。
プラス、いつでも音楽が聴きたいかといえば、そうでもなかったりすることがある。
そういうときは益々ネタに困ったりするわけだ。
逆に「ピン」と鬼太郎の妖怪アンテナのように髪が立ちそうになるときがある。
「今日は○○○が聴きたいなぁ」というときだ。
だが、収納スペースの都合から簡単に聴きたいものが見つからないこともある。
「あれ? あったはずなのになぁ」とあちこち探しても
何故か捜し物をしているときほど見つからない。
結局あきらめて別な物を聴いてしまうと、すっかり出鼻を挫かれたような気分で
どうにもスキッとしない。
「今日はアーマッド・ジャマルかな?」と
日常全く意識をしないピアニストの名前が出てきたのは宿命だろう。
漁っているとなぜだかすぐにCDがポロッと出てきた。
アーマッド・ジャマルの『バット・ノット・フォー・ミー』である。
アーマッドと言えば『バット・ノット・フォー・ミー』であり、
『バット・ノット・フォー・ミー』と言えばアーマッドであると言えるほど
彼の代表作である。
何がそれほどまで有名にしたのかというとアーマッド・ジャマルは、
マイルス・デイヴィスにとって新たなスタンスを築く際に
影響を与えたピアニストなのだ。
アーマッドの弾きすぎないのにスイングする感覚がマイルスに影響を与え、
それが空間を生かした演奏へとつながる。
ミュージシャンというのは音が止まることが最も怖いわけだ。
特にライブに一瞬の静寂が訪れるというのは、なかなか勇気がいる。
だから音を重ねたくなるのだが、逆に音数を減らし、止まるか止まらないかという
ギリギリの空間を作り出すことで、想像の余地を残すことができる。
タイトル曲も良いのだが、6曲目の「ポインシアナ」の演奏もゆるゆるとしていていい。
昔やったコーエーの『水滸伝Ⅱ』で聴いたことのあるような音楽なのだが、
ドラムのバーネル・フォーニアのピリッと利いたドラミングが
爽やかな雨後のような印象を与えてくれる。
出てきて満足、さらに聴いて満足の1枚だったのだ。
聴くべきジャズなどは山のようにあるのだが、
人間、脳は1つに耳は2つだ。
仕事終わりから限られた時間の中で聴くものは、自ずから限られてしまう。
プラス、いつでも音楽が聴きたいかといえば、そうでもなかったりすることがある。
そういうときは益々ネタに困ったりするわけだ。
逆に「ピン」と鬼太郎の妖怪アンテナのように髪が立ちそうになるときがある。
「今日は○○○が聴きたいなぁ」というときだ。
だが、収納スペースの都合から簡単に聴きたいものが見つからないこともある。
「あれ? あったはずなのになぁ」とあちこち探しても
何故か捜し物をしているときほど見つからない。
結局あきらめて別な物を聴いてしまうと、すっかり出鼻を挫かれたような気分で
どうにもスキッとしない。
「今日はアーマッド・ジャマルかな?」と
日常全く意識をしないピアニストの名前が出てきたのは宿命だろう。
漁っているとなぜだかすぐにCDがポロッと出てきた。
アーマッド・ジャマルの『バット・ノット・フォー・ミー』である。
アーマッドと言えば『バット・ノット・フォー・ミー』であり、
『バット・ノット・フォー・ミー』と言えばアーマッドであると言えるほど
彼の代表作である。
何がそれほどまで有名にしたのかというとアーマッド・ジャマルは、
マイルス・デイヴィスにとって新たなスタンスを築く際に
影響を与えたピアニストなのだ。
アーマッドの弾きすぎないのにスイングする感覚がマイルスに影響を与え、
それが空間を生かした演奏へとつながる。
ミュージシャンというのは音が止まることが最も怖いわけだ。
特にライブに一瞬の静寂が訪れるというのは、なかなか勇気がいる。
だから音を重ねたくなるのだが、逆に音数を減らし、止まるか止まらないかという
ギリギリの空間を作り出すことで、想像の余地を残すことができる。
タイトル曲も良いのだが、6曲目の「ポインシアナ」の演奏もゆるゆるとしていていい。
昔やったコーエーの『水滸伝Ⅱ』で聴いたことのあるような音楽なのだが、
ドラムのバーネル・フォーニアのピリッと利いたドラミングが
爽やかな雨後のような印象を与えてくれる。
出てきて満足、さらに聴いて満足の1枚だったのだ。