国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

ジャズピアニストは「モンク」に憧れる?

2009年08月31日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
名脇役として名高いトミー・フラナガンのリーダー作も決して多い方ではない。
だいたい有名人のアルバムには、その名前が刻まれているフラナガン。
ソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』から
ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップ』まで
そのリーダーの作品に合わせて、弾き合わせることのできる才能は
とても重宝されていたようだ。

一方で自分のリーダー作という話はあまりない。
70年代になってようやく「パブロ」や「エンヤ」レーベルから
数多くの作品を出している。
老練の時期に入り、
ようやくフラナガンにスポットが当たるようになったのか?
もともと誰に合わせても演奏をこなしてしまうわけだから、
自分がリーダーになっても躊躇はない。
残された作品の多くは良作である。

そんな中にセロニアス・モンクの曲を取り上げた
『セロニカ』というアルバムがある。
モンクというと、あの奇抜な演奏を思い浮かべてしまうが、
ここではフラナガンが丁寧に演奏している。
音は柔らかく同時にジーンと響くような芯のある品のあるものだ。

ジョージ・ムラーツのベースも力強く、
ドラムのアート・テイラーはベテランらしく、
フラナガンの邪魔をせずに心地よく演奏を盛り上げている。

残念ながら僕の持っているCDは、元の物とは演奏順が変わっている。
本来なら一曲目にフラナガンのソロの「セロニカ」がきて、
最後も同じ「セロニカ」で終わることになっている。
ペダルを十分に使い、間を取りながら進むその演奏は、
流れる美しさがありながらも、どっしりとした音色もある。

とはいえ、6曲目には僕の好きな「セロニアス」があり、
そこから9曲目の「セロニカ」まではモンクの名曲を味わえると同時に、
フラナガンの演奏も味わえるというまさに一石二鳥のアルバムなのだ。

僕たちの好きなピアノトリオについて考えてみよう

2009年08月30日 | マスターの独り言(日々色々なこと)
今月の「ジャズ批評」の記事の内容が、
トミー・フラナガンとデューク・ジョーダンである。
日本人はよくピアノトリオを好むというが、
ジャズ本場のアメリカではピアノトリオの扱いは大きくなかった。

元々ピアノ、ベース、ドラムは、
「リズムセッション」と名付けられるぐらいであるから、
そこだけ取り出してもピンとこないのだろう。
有名なビル・エヴァンスのヴィレッジバンガードのライブでは、
しゃべり声や笑い声などとても真剣に聴いている様子は感じられない。
前に紹介したソニー・クラークにしても
本場では知っている人があまりいないという状況らしい。

では、何故日本ではピアノトリオが受け入れられているのか。
まずはピアノが身近な楽器であることが原因のようだ。
小学校にオルガンが在ったように、ピアノに合わせて歌を歌ったように、
日本の音楽教育は西洋音楽の代表格であるピアノが中心に進められている。
そのためジャズでも耳慣れたピアノ音がとらえやすいのだろう。

ピアノは音に表情をつけることはできるが、
決められた鍵盤を叩くことで音が出るため、
微妙で多彩な色を出すことはちょっと難しい。
一方で管楽器は、人間の息によって音を出すため
時に生々しさを出すこともできる。表情が非常に多彩になってくる。
ジャズの生々しさを好むアメリカ人と
優美で端正なメロディーを好む日本人とのジャズ好みの違いかもしれない。

もう一つ有名なのが日本の住宅事情である。
狭い日本、自宅で大きな音を出すことができない日本では
ジャズを楽しむのに自然と音が小さくてもメロディーラインが楽しめる
ピアノトリオが流行したのだという考え方もある。

と、本当はトミー・フラナガンの作品を紹介する予定だったのが、
ピアノについての話になってしまった…
続きは明日にしよう。

寂しいのは写楽だけか?

2009年08月29日 | マスターの紀行文
8月もいよいよ終わりが近づくと
何やら物悲しい気持ちになってきたりもする。
おそらく夏休みが終わり、
また学校へ行く小学生のような気持ちになるからだろう。

てなわけで朝からどうも調子が悪い。
気持ちが落ち込むとせっかくの休みに予定していたことも
実行したくなくなるから不思議なもんである。
当初は「いーぐる」で連続講演を聞こうと思っていたのだが、
今日は予定を変更して江戸東京博物館に「幻の写楽」を見に行ってきた。

前にブログで『寂しい写楽』を取り上げたが、
写楽は、江戸時代の謎の浮世絵師として有名である。
正体は随分解明されてきているが、
それでも謎の絵師であることは今も変わらない。

展示されていたのは、
写楽肉筆画の「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」である。
これは「仮名手本忠臣蔵」の一幕を描いた物であるが、
その絵は上手であるとは感じなかった。
そう思ったポイントが3点。
①四代目松本幸四郎の首と身体のバランス。
②同じく幸四郎の右小指。
③松本米三郎の視線である。
有名画家の絵が必ず上手であるという式は成り立たないのだ。

写楽が姿を消してから4ヶ月後に描かれたものらしいが、
その割に身体と首とのバランスの悪さ。
相手方との視線の交わりの無さ。
といったプロとはなかなか言えない感じの物である。
浮世絵師は結構手や指を描くのが苦手という人もいるので、
指がおかしいのはよしとしても、
それでも人物の心の内まで表情で表現したと評される
写楽の絵としてはあまりにも杜撰である。
加えて「四代目」を「五代目」と間違っているなど
ちょっとプロとは思えない。
実は写楽第三期になると同様の役者名間違えが何枚かある。
ところがあの世界的に有名な第一期の大首絵には、
それを見るだけで心に響いてくるような力強さと圧倒感がある。

まぁ、これが写楽多数人説につながってくるのだが、
じゃあ、ヘタだと言って、それが写楽じゃないかというとやっぱり写楽なのだ。
この1枚の肉筆画は、
写楽という謎の絵師を解明するのにかなり役立ってくるかもしれない。

え? 何でこんなに熱く写楽を語るのかって?
そりゃあ、ちょっと僕は浮世絵と関係が浅くないのだ。
「幻の肉筆画」を見に行くことが目的だったから、
他の絵はほとんど覚えていない。

その後、神保町の「BIG BOY」に足を伸ばす。
マスターに「8月にも一回ぐらい来ます」と言っていたので、
ちょっと遅まきながらの訪問であった。
でも、やっぱり巨大なJBLの4343で聴くジャズは迫力がある。
ジャズ喫茶のベース音は、いつも地を這うがごとく
足下から身体に響いてくるのだ。

まぁ、そんなこんなでもう8月も終わりである。

関連記事
 「足下には、ほら、自分の国の文化がある」
http://blog.goo.ne.jp/toyokoba1030/e/918d9cae4b280c6e8ea9bf2c299d5965

ハリー・ポッターではありません!!

2009年08月28日 | マスターの独り言(アルバムのこと)
CDを回すと、すぐ小気味よい音が聞こえてくる。
それは小刻みに音を重ねていき、
やがてテーマらしきメロディーになるころには、
リフの心地よさに心躍る思いを抱いていることだろう。

クリス・ポッターの新しいアルバム
クリス・ポッター・アンダーグラウンドの『ウルトラハング』。
これはかなりいい。かなりカッコイイのだ!

僕はこのアルバムがクリス・ポッターデビューになるのだが、
最初は漠然としたイメージしかとらえることができなかった。
それが回数を重ねるごとに深まってくる。
最初は霧の中をさまような感じだが、
やがてポッターの音に導かれるように、
その先にある快楽点が見えるようになってきたのだ。

とにかくポッターの音がいい。
音の輪郭線がはっきりしていて、丁寧に吹いている。
サックス、バスクラリネットどちらも分厚い響きでありながらも
軽やかで、カラッとした明るさもある。
ブリブリと吹くポッターのソロにはあざとさがなく、
きっちりしたソロを取っている。

アダム・ロジャースのギターも聴き逃せない。
エッジの立った音で存在感を十分アピールし、
流れるようにメロディーを作っていく。
盛り立てるのがドラムのネイト・スミスのドラミングであり、
全体を支えるリズムである。
そこに心地よさがあり、それが快楽へと続く道になっているのだ。

エレキマイルスのように全体の構成図がしっかりとあり、
そこにカッコイイソロを組み合わせているのは伝わる。
まぁ、これが今風と言えば今風の手法であり、
そんな手にホイホイと乗っていくのも、ちょっとまた気持ちいいのである。
ジャズかどうかなんて言う前に、聴いたらトリコになってしまうだろう。
ちょっとしたときにも聴けるし、
じっくり聴き込めば更に新しい世界も広がってもくるお得なアルバムなのだ。

「無い物ねだり」と分かっていても、懐かしい時代を求めてしまうのだ!

2009年08月27日 | 喫茶店に置いてある本
昨日は更新できなくて申し訳ない。
更新がない日は、大概予期しない飲み会があり、
しかも午前様になっているパターンの日だ。
毎日ブログ更新を心がけている身にはちょっとイタイ。

ブログの更新なんて、一昔前ではあり得ない出来事だっただろう。
ジャズについて語るとするならば、ジャズ喫茶というサロンで
お互いのジャズ論をぶつけ合っていたのであろうから。

ジャズ喫茶については何度か取り上げたが、
1970年代ごろには、一種の文化発祥の温床であったわけだ。
そんな戦後日本に、ジャズがどのような影響を与えてきたのかを論じたのが、
マイク・モラスキー氏の『戦後日本のジャズ文化』(青土社)である。

目次を見てみるとちょっと興味深い。
石原裕次郎、五木寛之、若松孝二、筒井康隆、村上春樹と
何だか有名人がたくさん並んでいる。
どう? 興味がわいてきた?
もし興味がわかなくても読んでみると、
戦後の日本においてジャズがいかに文化に影響を与えていたかが分かってくる。

とはいえ、僕は一回読んだだけではピンとこなかった。
ジャズは時々人に気を遣わせ、小難しい理論で迫ってくる。
まして「シラケ世代」の僕は、政治の季節に身を置いていたわけでもなく
ジャズ喫茶の最も熱かった時代を体感していないので当然といえば当然だ。
ただジャズという音楽が、1960年代以降いかに青年の通過儀礼として
存在していたかということは何となくつかめた。

そこで出てきたのが件の「13人連続暴行魔」と阿部薫である。
文化が商品化する前の生々しい存在として輝いていたころの象徴としては
ピッタリなのかもしれない。
その頃には存在さえなかった僕でさえ、何故か懐かしく、
ちょっとだけその時代をうらやましく思ったりもしてしまう。
まぁ、それを「無い物ねだり」と言うのだろう。