国道122号沿いの音楽喫茶 『ドルフィン』

さぁ、音楽を聴け!
コーヒーは自分で沸かして用意して…
そんな仮想の音楽喫茶

ロックの裏側にある「大きな物語」を知ろう!

2011年08月30日 | 喫茶店に置いてある本
昨日、ロック期が回ってきたというが、
ロック期が回ってくる時期はいつも決まっている。
去る8月20日にジャズ喫茶「いーぐる」で恒例となりつつある
「大音量でロックを聴く会:その5」が開かれたからだ。
選曲と解説は中山康樹氏、司会は村井康司氏といつものお二方なのだが、
今回も中山氏の『伝説のロック・ライブ名盤50』(講談社文庫)出版を
兼ねている。

ジャズはライブ盤というのは一般的である。
アドリブ演奏はその時々によって変わるため、
ライブを追体験をするというのはあるミュージシャンを追うには必要となる。
一方でロックのライブ盤というのはあまり意識をしたことがない。
それは僕自身がロック初心者ということもあるのだが、
フジロックなどのように
結構「ロックはライブに行って聴くものだ」という感じがあるからだろう。
(とはいえ僕自身ロックのライブにはほとんど行かない)

本では50枚のアルバムが選ばれているが、その中の16枚が実際にかかった。
グループ名については随分と分かるようになってきたが、
今回出てきたアルバムも全く知らないものばかりだった。
知らないからこそ聴きごたえがある。
中山氏はビートルズど真ん中世代であるため、ビートルズに対しての思い入れが強い。
実際にかからなかったが本書の初めは
1962年のビートルズのハンブルクでのライブであり、
最後が2009年のポール・マッカートニーのシティ・フィールドでのライブ盤である。
もちろんビートルズが全てのロックの始まりではないことを
中山氏も「はじめに」で断っているが、
色々なアルバムを聴いてみればやはりビートルズの持つものというのは
ビートルズ世代ではない僕にも分かってくる。

今ではもう廃れがちなのかもしれないが、古いロックを聴いて
そこにある「物語」を追おうという人はそう多くないだろう。
確かに今生きているミュージシャンは鮮度もピチピチだし、何せ生で聴ける。
でも、そこに結びつく「物語」があるのだ。
「大きな物語」から「小さな物語」へとポストモダンとして語られたりするが、
それでもジャズにしろ、ロックにしろ人がつながることは
結局「物語」が生まれることなのだ。
例えば解散してしまったオアシスのノエル・ギャラガーが、
ビージーズを敬愛していたというエピソードを聞けば、やはり聴いてみたくなるだろう。

ジャズでもそうなのだが名盤と呼ばれているものは古くはならないのだ。
何度も何度も濾し取るように聴き込めば、そこのある音が像を作り出す。
ましてライブ盤はその時の熱気が、そのままとはいかなくとも、十分パックされている。
後は解凍する側の気持ち次第だ。
やっぱり色々と聴いてみることが大事なんだなぁ。
お金が足りる限りだけれども…

サイモン&ガーファンクルに関する3つの思い出

2011年08月29日 | マスターの独り言(ジャズ以外音楽)
何ヶ月かの周期で巡ってくる「ロック期」がこの頃来ている。
(個人的には「モテキ」が来て欲しいのだが…)
あれこれとロックの名盤集を見ているとサイモン&ガーファンクルが気になってきた。

サイモン&ガーファンクルには3つの思い出がある。
1つ目の思い出は中学校の音楽の時間である。
クラスではあまり評判がよくなかった音楽のS先生を思い出す。
僕は放送委員をしていたため、S先生からよく放送用のカセットを借りていた。
(まだカセット主流の時代の話だ)
そんなつながりもあって、嫌いではなかった。
そのころは音楽と言えばクラシックといった発想で、
巷に流れる流行歌にも興味がなかったのだが、
S先生から教わったもので今でも覚えているのが、「洋楽」と「黒人霊歌」である。
その「洋楽」の中にサイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」があった。
ちょうど中学2年生のころで「be going to」という未来形を習ったばかり。
「あなたはスカボロー・フェアに行きますか?」と
習ったばかりの英語でも分かる簡単な歌詞と
「パセリ、セージ、ローズマリー、そしてタイム」と
意味のあるような無いような節が印象に残っている。
中学校の音楽の時間だからただ普通に歌っていただけなのだが、
その覚えやすいメロディーは自然に口ずさめた。

2つ目の思い出は高校時代のIくんである。
サブカルの師匠はよくこのブログに出てくるガナさんであるのだが、
Iくんは僕にいろいろな音楽を教えてくれた人でもある。
何せ高校一年生の社会科見学(どこへ行ったかは忘れてしまったが…)で
いきなり海援隊の「贈る言葉」(確か5月だったはずだ)を
武田鉄矢のセリフ付きで歌うほどであり、周りの人たちをひかせていた。
彼とカラオケに行くたびにそのレパートリーは変わる。
海援隊、サザン、ユニコーン、そしてサイモン&ガーファンクル…
何のつながりがあるのか。おそらく何のつながりも無いだろう。
それでも彼が何の気もなしに歌った「明日に架ける橋」はとても印象深い。
演劇部に所属をしていたこともあり、声に伸びがあり、高音域もしっかり出る。
「明日に架ける橋」はとても高音域が難しいこともあるが、
彼の歌声がきっかけでサイモン&ガーファンクルのベスト盤を借りたぐらいだ。

そして3つ目は、実際にサイモン&ガーファンクルを聴いたことだ。
東京ドームの遙か向こう側にいた2人は、時間を超えても同じ曲を歌っていた。
感動と言うよりも感激だろう。

考えてみるとサイモン&ガーファンクルのアルバムを1枚も持っていなかった。
そこで出張ついでにCD屋に寄ってみる。
そこには『パセリ・セージ・ローズマリー・アンド・タイム』があった。
1曲目はあの「スカボロー・フェア/詠唱」である。
サイモンとガーファンクルはふれては消えてしまいそうな声を重ね合わせ、
美しい響きを生み出している。
実はこのアルバムはベトナム戦争が激化する中で生み出されている。
美しいメロディー達はそんな社会背景を今では思わせもしない。

サイモン&ガーファンクルの音楽はとかく有名な曲が取り上げられるが、
2曲目の「パターン」のように民族音楽的でありながらも
ちゃんと聴きやすくまとめられたものや
9曲目の「簡単で散漫な演説」のように激しく突き刺すようなサウンドも持っている。

時代を超えて聴き続けられる2人の歌声は、
今日もまた誰かの新たな思い出を生み出しているのだろう。

『ポートレイト・イン・ジャズ』について語ろう 7 新たなピアノ・トリオ形式の誕生と補足

2011年08月28日 | ビル・エヴァンスについて
8番目に録音されたのが、今ではスタンダードナンバーとして知られる
「サムディ・マイ・プリンス・ウィル・カム」
ディズニーの『白雪姫』のテーマ曲である。
エヴァンス自身がディズニー好きということも選曲の理由だろう。
デイヴ・ブルーベックが
1957年に『デイヴ・ディグズ・ディズニー』で取り上げている。
ウィキさんで調べてみると映画の公開が1937年ということで
約20年後にブルーベックが演奏し、その2年後にエヴァンスが取り上げたことになる。
これがきっかけというわけではないだろうが、
この演奏をライブで見たマイルスが、
のちに自分のアルバムでも取り上げ、自身の妻をジャケットにしている。
実はマイルスとエヴァンス・トリオとの共演も決まっていた節があり、
ライブを通してエヴァンスとマイルスとの交流は続いていたのだ。
エヴァンスはその後「アリス・イン・ワンダーランド」も演奏し、
ディズニー曲をスタンダード化している。

最後の9番目に「ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ」を録音する。
この2曲はそれまでのアップテンポとはうって変わって
エヴァンスの曲がれるような旋律とトリオの演奏を楽しむためのものである。
じんわりと岩に染みいるような水滴のごとく静やかでかつ芯のある演奏は、
新たなピアノ・トリオの形式が1つにまとまってきていることを表しているようだ。

録音はおそらく半日前後で終わってしまったと思われる。
3人に支払われたギャラは約250ドルほどで、それを分け合った後に
解散ということになったとされている。
のちに名盤と呼ばれようとこのころのギャラはこの程度であったわけだ。

さて、補足である。
実はザ・ファースト・トリオと呼ばれるほどの伝説を持つトリオだが、
実際にスコット・ラファロ自身はトリオの正式メンバーとしての認識が
あったかどうかである。
このころはマイルスのように定着したグループを持つというのは珍しく、
あとはミュージシャン達の気心一つでつながっていた。
スコット・ラファロもエヴァンスとの演奏は非常に大切に思っていたし、
それを優先させようという意識もあったことは分かっているのだが、
実際には同時期にスタン・ゲッツのバンドでも演奏をしている。
ゲッツからもラファロはレギュラーとして誘われていて、現実に演奏もしている。

もう一つ、実はエヴァンスがリヴァーサイドと正式に専属契約を結んでいなかった。
もしくはオリン・キープニュースが結ばなかったという状況がある。
1959年に『カインド・オブ・ブルー』が録音されたが、
キャノンボール・アダレイとウィントン・ケリーは
オリン・キープニュースからコロンビアに送った手紙の中に
録音に参加することの許可とリヴァーサイドのクレジットを入れることが書かれている。
たった1曲しか参加をしないウィントン・ケリーについては言及され、
4曲も参加しているエヴァンスについては何も書かれていない。
つまり1959年の時点でエヴァンスは
リヴァーサイドの専属ミュージシャンではなかったという様子が見て取れる。

そんな現状がラファロにとってエヴァンスとのみに演奏に専念するという
意欲を持たせなかったのかも知れない。
まぁ、当時としては金銭のため複数のセッションに参加するのは当たり前であったが…

何はともあれ1959年の年末に新しいピアノ・トリオが生まれた。
やがてその形式はジャズ界に大きな影響を与えることになるのだ。


「『ポートレイト・イン・ジャズ』を語ろう」では以下の文献を参考にしました。
○『ビル・エヴァンス-ジャズ・ピアニストの肖像』
    ピーター・ペッティンガー 著 相川京子 訳    水声社
○『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』 中山康樹 著 河出書房新社
○『新・エヴァンスを聴け!』 中山康樹 著 ゴマ文庫
○『カインド・オブ・ブルーの真実』
    アシュリー・カーン 著 中山啓子 訳 中山康樹 日本版監修
                   プロデュース・センター出版社
○『定本 ビル・エヴァンス』 ジャズ批評編集部・編
○『超ブルーノート入門』 中山康樹 著 集英社新書

なお、「『ポートレイト・イン・ジャズ』を語ろう」についての文責は
このブログを書いている者にありますので、ご理解ください。

『ポートレイト・イン・ジャズ』について語ろう 6 マイルスの演奏を越えようとした曲

2011年08月27日 | ビル・エヴァンスについて
ミュージシャンは時にそのエピソードを劇的なものにしようと
いろいろと「かます」場合があり、事実なのかどうなのかの判断は難しいことがある。
エヴァンスがマイルスに誘われたときのエピソードも
マイルスの語っているものとエヴァンスの語っている内容は違っている。
「きちんと彼には会ったことがなかったが、ある日電話が鳴り、
 受話器を取って『もしもし』と出ると、
 『やぁ。ビルか? マイルス-マイルス・デイヴィスだ。
  週末フィラデルフィアっていうのはどうだ?』と言うんだ。
  まるで-わかるだろう?-気絶しそうだった。」
とエヴァンスは回想している。
マイルスはブルックリンの「コロニー・クラブ」でエヴァンスを連れてこさせて、
演奏をさせ、それから雇ったと言っているのだが、
とにかくマイルスがエヴァンスに注目していたことが分かる。
そうでなければ“黒人”のマイルスが
“白人”のエヴァンスをバンドに誘うということは無いだろう。
かつ、マイルスは人種に関係なく自分の求めるサウンドを追求していたことも分かる。

エヴァンスがマイルスのバンドに参加をしたのが1958年の4月である。
その1ヶ月前にマイルスと同じバンドにいたキャノンボール・アダレイは
ブルーノートに曲を録音した。
そのアルバムはマイルスの契約上キャノンボール・アダレイがリーダーとなっているが、
プロデューサーのアルフレッド・ライオンでさえも認めてしまうほど
マイルスの作品であった。
そのアルバムの名は『サムシング・エルス』で、1曲目が「枯葉」である。
メンバーはマイルス、キャノンボール以外が、
ハンク・ジョーンズ(ピアノ)、サム・ジョーンズ(ベース)、
アート・ブレイキー(ドラム)とレギュラーバンドではない。
だがリズムセッションは百戦錬磨のハード・バッパー達である。

「枯葉」はハンク・ジョーンズとサム・ジョーンズのゴリゴリッとした音で幕を開ける。
まさに「黒い」といった感じのする音だが、
その後にマイルスがミュートで抑えたテーマを吹く。
その対比がまさにマイルスサウンドの妙技だと思う。
もちろん「リーダー」のキャノンボール・アダレイのソロも「さすが!」である。
だがやはり影に“ボス”の姿が垣間見られるのだ。

さて、エヴァンスである。
『ポートレイト・イン・ジャズ』の7曲目、「枯葉」を録音する。
元リーダーだったマイルスのアルバムをエヴァンスが聴いていないとは思えない。
『サムシング・エルス』の情緒溢れるスローな演奏は、人々の心をとらえて放さない。
ならば、それと拮抗する演奏をするには…
演奏はじめのエヴァンスのピアノを聴けばそれが分かる。
つっかえるように、音節がブツブツと切れるように
それでもスリリングなソロで電光石火の如く切り込む。
方法は単純だ。マイルスがスローであったならば、その逆を行く。
『ポートレイト・イン・ジャズ』の中でアップテンポの演奏だろう。
7曲目にもなり、3人の呼吸もかなり揃っている。
それぞれが楽器で会話をするように、空間を音で埋め重ね、
原曲の魅力を最大限に引き出している。
ラファロとエヴァンスがピアノとベースでやりとりしている間に、
モチアンが邪魔をしないように、それでも的確なリズムを作り出している。
3人は一気呵成に曲を練り上げ、息をつく間も与えずにスリリングに曲を閉じる。

『サムシング』の方では、ジョーンズ兄弟がピアノの音をコロコロッと転がし、
ベースの音でアクセントを付け、最後にマイルスがもう一吹きする。
だが、『ポートレイト』では3者が「ここで終わり!」といったように
カッチリとした閉じ方をしている。

ところが何がどう間違ったのか、ステレオ録音する予定だったのが、
モノラルで録音されてしまった。
そこでプロデューサーのオリン・キープニュースは再度ステレオでの録音をする。
テイク2の演奏ではテイク1よりも若干バンド力が落ちている。
その変わりにエヴァンスの演奏はテイク1よりもノッている。
後テーマで自信ありげに、間をしっかりと取って歌い上げるエヴァンスは、
新しい「枯葉」の演奏を創り上げ、このアルバムの中核を作った。

『ポートレイト・イン・ジャズ』について語ろう 5 マイルスにいつの間にか持って行かれてしまった曲

2011年08月24日 | ビル・エヴァンスについて
『ポートレイト・イン・ジャズ』の6番目に録音したのが、
「ブルー・イン・グリーン」である。
ジャズをご存じの方ならばこの曲が少々いわく付きであることに気付くかもしれない。
この曲はマイルスの『カインド・オブ・ブルー』の3曲目にも入っている。
作曲者はマイルスの名がクレジットされているが、
実際には元アイディアはエヴァンスであったとされている。
とはいえ、マイルスが指示をしたという話もあるため、
結局「卵が先か、鶏が先か」の話になったりもする。

『カインド・オブ・ブルー』の時にこの件に関しては
エヴァンスもショックであったと言われている。
だがジャズの曲というのは往々にしてこうしたことがある。
まして著作権などという言葉が一般に知れ渡っていたわけでもない。
マイルスは小切手を25ドル分渡しただけという裏話もある。
そのこともあってか『ポートレイト・イン・ジャズ』の
「ブルー・イン・グリーン」では、
「デイヴィスーエヴァンス」と共作扱いになっている。

さて、この曲は本テイクになったのが3番目に録音したものである。
つまりそれまで2回分のテイクがあることになる。
だが残っているのは2番目と3番目だけのテイクである。
おそらく1番目のテイクは演奏自体が完全に出来上がらずに途中で止まってしまい、
テイク自体が破棄処分になってしまったのだろう。

この曲は『カインド・オブ・ブルー』との聴き比べが面白い。
『カインド・オブ・ブルー』では、静かな湖面に水滴を落とすかのような静寂感がある。
ところが『ポートレイト・イン・ジャズ』では、
どちらのテイクも軽くスイングしている。
確かに初めのテーマは密やかな緊張感がある。
だが演奏が進む事にエヴァンスのピアノが『カインド』とは異なる
ノリでリズムを取り始める。
つまり『ポートレイト・イン・ジャズ』では、
エヴァンスが本来演奏したかったであろう「ブルー・イン・グリーン」の姿が見られる。

僕の場合は深い感動を呼び起こすのは『カインド』の方である。
あの静寂は朝霧の中、澄んだひんやりとした空気が自然に流れゆく清涼感がある。
逆に『ポートレイト』の方は、
エヴァンスがただ耽美的なメロディーを追っていたわけではないという事が分かる。
確かに美しい。だが、その美しさはマイルスが求めた神経質な美しさではなく、
自由闊達な美しさがある。
枠を逃れ、3人が自由にそれぞれの美を追究しているかのようである。

本テイクとなった演奏は5分20秒。
その前のテイクが4分25秒ということで約1分延びている。
この曲をようやく思い通りに演奏できたエヴァンスが、
演奏を重ねてソロを練り込んでいったことが分かるだろう。
そして次の録音曲もまたマイルスの影が見て取れる。