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ここ最近は音楽にかまけているため、読む本も自ずと決まってくる。
だが、ほんの数年前まで非常に美術に熱くなっていた時期があった。
最初のきっかけはイタリアである。
イタリアといえば美の宝庫であり、
巨匠の作品がまさに転がる石の如くゴロゴロとたくさんある。
美の巨邸ウフィツィ美術館では贅沢なことに
レオナルド・ダ・ヴィンチの『東方三博士の礼拝』の前で
完璧に疲れ切ってしまい、ベンチに腰を掛けながら鑑賞をした思い出もある。
日本に帰国してからすぐに心惹かれたのが浮世絵である。
西洋の絵と異なり、斬新かつ大胆な色遣いと構図に
「おお、日本人もやるな!」という思いで北斎、広重等々虜になってしまった。
おかげで今も国際浮世絵学会員という名ばかりの肩書きを持っている。
音楽に惹かれているからと言っても美術的な美しさも面白い。
ドイツの哲学者、カントは確か音楽鑑賞を「無意味」なものとして上げていたようだが、
結局僕が求めるものは、音楽にしろ、美術にしろ、
そこにある人間的な物語なのかもしれない。
そこで出てくるのが中野京子の『怖い絵』(角川文庫)である。
時折絵の中にはどうしようもなく残忍で、惨殺的なものがある。
どうしようもなく暗く、どこまでも墜ちていってしまうようなものもある。
何故、絵描きたちはそんな絵を描くのか。
それは結局、絵描きたち自身の心の中を映しているのだろう。
だから「怖い」絵というのは、その画家たちの「怖さ」も表しているのだと思う。
一枚の絵を中野京子氏が読み解き、画家の心に迫っていく。
それは表面的な怖さと同時に内面的な怖さにも通じている。
先に人間的物語を求めるとは書いたが、
そこには絵や音楽に昇華された物語があり、そこから想像力を刺激されているのかも。
他人の物語がいつの間にか自分の想像の物語へ…
だが、ほんの数年前まで非常に美術に熱くなっていた時期があった。
最初のきっかけはイタリアである。
イタリアといえば美の宝庫であり、
巨匠の作品がまさに転がる石の如くゴロゴロとたくさんある。
美の巨邸ウフィツィ美術館では贅沢なことに
レオナルド・ダ・ヴィンチの『東方三博士の礼拝』の前で
完璧に疲れ切ってしまい、ベンチに腰を掛けながら鑑賞をした思い出もある。
日本に帰国してからすぐに心惹かれたのが浮世絵である。
西洋の絵と異なり、斬新かつ大胆な色遣いと構図に
「おお、日本人もやるな!」という思いで北斎、広重等々虜になってしまった。
おかげで今も国際浮世絵学会員という名ばかりの肩書きを持っている。
音楽に惹かれているからと言っても美術的な美しさも面白い。
ドイツの哲学者、カントは確か音楽鑑賞を「無意味」なものとして上げていたようだが、
結局僕が求めるものは、音楽にしろ、美術にしろ、
そこにある人間的な物語なのかもしれない。
そこで出てくるのが中野京子の『怖い絵』(角川文庫)である。
時折絵の中にはどうしようもなく残忍で、惨殺的なものがある。
どうしようもなく暗く、どこまでも墜ちていってしまうようなものもある。
何故、絵描きたちはそんな絵を描くのか。
それは結局、絵描きたち自身の心の中を映しているのだろう。
だから「怖い」絵というのは、その画家たちの「怖さ」も表しているのだと思う。
一枚の絵を中野京子氏が読み解き、画家の心に迫っていく。
それは表面的な怖さと同時に内面的な怖さにも通じている。
先に人間的物語を求めるとは書いたが、
そこには絵や音楽に昇華された物語があり、そこから想像力を刺激されているのかも。
他人の物語がいつの間にか自分の想像の物語へ…
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