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河出書房新社から出た『文藝別冊 ジョン・コルトレーン』を買った。
ジャズ喫茶『いーぐる』の後藤雅洋氏が責任編集ということもあるのだが、
僕にとってジョン・コルトレーンという人はかなり興味を持てる人である。
僕がコルトレーンを聴いたのはマイルスやキャノンボール・アダレイと
一緒にやっているアルバムが最初であり、
コルトレーン名義のアルバムを購入したのは意外に遅かった。
最初は中古屋で売っていた600円のボロボロの『ソウル・トレイン』だった。
そこから二の次へ行かない。
理由としては、コルトレーンが「難解の人」という印象が強かったためである。
ジャズの入門本を読めば必ず出てくるコルトレーンであるが、
「私は聖者になりたい」といった発言は、
音楽をただやっているというより、何か思想的な硬さを持って感じられる。
だからコルトレーンのリアルタイム体験がない僕にとって
それは結局遠ざかる理由になってしまうのだ。
次に買ったのが『セルフネス』である。これも中古でケースにヒビが入っていた。
ここが転換期になったと思う。
『セルフネス』で聴くことのできる「マイ・フェイバリット・シングス」が
とてつもなくカッコ良かった。
コルトレーンのやる「マイ・フェイバリット・シングス」を聴きたいと思い、
『ライブ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』を聴き、
とにかく「なんじゃこりゃー」となった。
まさに当人は大真面目だろうが、こちらは苦笑である。
そこから『至上の愛』や『クレッセント』に進む頃になると
コルトレーンの目指している音楽が見えてきた。
そしてそれが今まで聴いてきたアルバムにも感じられると
コルトレーンへの見方や聴き方が変わってくる。
本はまだ途中までしか読んでいないのだが、
コルトレーンはなかなか解き明かせない謎のような人である。
だが、その謎に巻き込まれ、コルトレーンのマジックにかかってしまった人は多い。
僕は今『バラード』を聴きながらこれを書いている。
澄んだテナーは天上の立ち上る清浄の響きなり。
ジャズ喫茶『いーぐる』の後藤雅洋氏が責任編集ということもあるのだが、
僕にとってジョン・コルトレーンという人はかなり興味を持てる人である。
僕がコルトレーンを聴いたのはマイルスやキャノンボール・アダレイと
一緒にやっているアルバムが最初であり、
コルトレーン名義のアルバムを購入したのは意外に遅かった。
最初は中古屋で売っていた600円のボロボロの『ソウル・トレイン』だった。
そこから二の次へ行かない。
理由としては、コルトレーンが「難解の人」という印象が強かったためである。
ジャズの入門本を読めば必ず出てくるコルトレーンであるが、
「私は聖者になりたい」といった発言は、
音楽をただやっているというより、何か思想的な硬さを持って感じられる。
だからコルトレーンのリアルタイム体験がない僕にとって
それは結局遠ざかる理由になってしまうのだ。
次に買ったのが『セルフネス』である。これも中古でケースにヒビが入っていた。
ここが転換期になったと思う。
『セルフネス』で聴くことのできる「マイ・フェイバリット・シングス」が
とてつもなくカッコ良かった。
コルトレーンのやる「マイ・フェイバリット・シングス」を聴きたいと思い、
『ライブ・アット・ヴィレッジ・ヴァンガード・アゲイン』を聴き、
とにかく「なんじゃこりゃー」となった。
まさに当人は大真面目だろうが、こちらは苦笑である。
そこから『至上の愛』や『クレッセント』に進む頃になると
コルトレーンの目指している音楽が見えてきた。
そしてそれが今まで聴いてきたアルバムにも感じられると
コルトレーンへの見方や聴き方が変わってくる。
本はまだ途中までしか読んでいないのだが、
コルトレーンはなかなか解き明かせない謎のような人である。
だが、その謎に巻き込まれ、コルトレーンのマジックにかかってしまった人は多い。
僕は今『バラード』を聴きながらこれを書いている。
澄んだテナーは天上の立ち上る清浄の響きなり。
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