コルトレーンについては散々このブログでふれてきたが、
後期コルトレーンはまだ解決の糸口が見えそうにない。
ジャズというにはあまりにも荒々しく、
高速でブローしまくり、高音と低音を激しく入り交じらせながら
強引に空間をこじ開けようと進んでいく。
今の「しらけ」時代では
それこそ「どっちらけ」で、冗長な演奏となり飽きてしまうのだろう。
ジャズからはみ出したぐちゃぐちゃな音楽は、
それこそ聴く必要もないか、それとも騒音かと見なされ
皮肉なことに静かに消えていってしまうのがオチだろう。
大体そんなもの聴かなくたって世の中には「楽しいこと」がいっぱいあるのだ。
ところが1960、70年代のジャズ全盛期ではコルトレーン・サウンドが神様だった。
激しく難解な音楽は当時の社会情勢や政治状況と合い重なって、
「わけが分かんないから素晴らしい」というまさに訳の分からない理由でもてはやされた。
その代表格がコルトレーンだったわけだ。
僕にはコルトレーンが何を考えていたか分かるわけもないが、
時々その激しいブローの中に一抹の悲しさを感じたりもする。
途切れることのない音は、吹いていないことへの不安だったりするのかもしれない。
そんなコルトレーンへ捧げられた曲がある。
「ア・メッセージ・フロム・トレーン」
ジャッキー・マクリーンの『デモンズ・ダンス』に収録されたものもいいが、
僕はアーチ・シェップの『スチーム』を推す。
コルトレーンに心酔していたシェップが
ピアノレスでテナーをブリブリに吹きまくっている。
その演奏はまさにコルトレーンが乗り移ったかのようであり、
途切れることなく一本のメロディーが蕩々と流れだし、やがて空間へと広がっていく。
そこにはタイトル通り「コルトレーンからのメッセージ」を受け取った
1人のテナー奏者がいたのだ。
後期コルトレーンはまだ解決の糸口が見えそうにない。
ジャズというにはあまりにも荒々しく、
高速でブローしまくり、高音と低音を激しく入り交じらせながら
強引に空間をこじ開けようと進んでいく。
今の「しらけ」時代では
それこそ「どっちらけ」で、冗長な演奏となり飽きてしまうのだろう。
ジャズからはみ出したぐちゃぐちゃな音楽は、
それこそ聴く必要もないか、それとも騒音かと見なされ
皮肉なことに静かに消えていってしまうのがオチだろう。
大体そんなもの聴かなくたって世の中には「楽しいこと」がいっぱいあるのだ。
ところが1960、70年代のジャズ全盛期ではコルトレーン・サウンドが神様だった。
激しく難解な音楽は当時の社会情勢や政治状況と合い重なって、
「わけが分かんないから素晴らしい」というまさに訳の分からない理由でもてはやされた。
その代表格がコルトレーンだったわけだ。
僕にはコルトレーンが何を考えていたか分かるわけもないが、
時々その激しいブローの中に一抹の悲しさを感じたりもする。
途切れることのない音は、吹いていないことへの不安だったりするのかもしれない。
そんなコルトレーンへ捧げられた曲がある。
「ア・メッセージ・フロム・トレーン」
ジャッキー・マクリーンの『デモンズ・ダンス』に収録されたものもいいが、
僕はアーチ・シェップの『スチーム』を推す。
コルトレーンに心酔していたシェップが
ピアノレスでテナーをブリブリに吹きまくっている。
その演奏はまさにコルトレーンが乗り移ったかのようであり、
途切れることなく一本のメロディーが蕩々と流れだし、やがて空間へと広がっていく。
そこにはタイトル通り「コルトレーンからのメッセージ」を受け取った
1人のテナー奏者がいたのだ。