心の花束

つれづれなるままに心の中に花束を持ちたい

対面販売

2008-11-26 | 魚屋
規制緩和によってあちこちに大型店舗が建っている。

私の勤める店は一軒店。

八百屋・肉屋・米屋・たこ焼きや・クリーニング店・焼き鳥・ラーメン屋等など

店じまいをしてしまった。

だけど、お客さんは可愛がってくださり、雨の日も風の日も雪の日も・・。

他で買い物を済ませても、お魚はここと・・・。嬉しいですね。

忙しい時はセルフでお客様同士が手伝ってくださる。

皆さんが自分の店のように、家族のように・・・。

そして、店にも色を添えてくださる。感謝。

珍しいからとウコンの花


綺麗に咲いたからとカニシャボテン


秋の始まりはこれよとアケビに椎のみ

個人店を利用される人は会話を好む。一日一回は笑顔で過ごして欲しい。

お帰りの際は必ず笑顔になつて帰ってもらう
対面販売をしている私のモットーだ。
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交通事故

2008-11-25 | Weblog
ショック

動物が保健所で殺されたと、元事務次官夫妻を殺傷したりする今日、

何か背筋が冷たくなるのを覚える。

去年の春に、店に置いてけぼりにされていた猫を、お客さんと「共育」していたのに

ナント事故死・・・。

今朝、出勤して餌を与え抱き上げたばかり・・・。

余りにも人馴れをしていたのかも。

目の前で、誰かがぶつけたはずなのに気付かなかった。

ぶつかったことに気がつかなかったのかな?ドライバーの人。

魚屋だからと置き去りにした人。

みんな自分中心だよね。

保健所に電話することなく、お客さんが、何処かに埋葬してきてくれました。

1年と半年ばかり・・。我が家にとっては招き猫だつた。

本当に人間の言葉が判っているような・・・。

ネズミ年の私が受け入れざるを得ないほどの猫だつたのに。








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あなたの荷を主にゆだねよ

2008-11-24 | 教会
日曜日の礼拝は、一週間の心の穢れを反省するひと時。

教会の礼拝堂で、十字架をじっと見つめる。

十字架に架かったイエス様が手を広げて迎えてくれる。

以前は、十字架を見上げる事が出来なかった。

両手・両足から血潮が滴る姿ばかりが見えて、震えたものだ。

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。
主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」

                               詩篇55篇22節

人の心が、重荷に耐えられるのには限度がある。
心理的重圧が次々積み重なっていけば、それを軽くするものがない限り、
限界が来るのは当然である。幸いなことに、重荷を自分ひとりで負う必要はない。
神が手伝ってくださる。


今日、私に与えられた聖句

祭日しか時間の取れない私にとって、土砂降りの雨の中、

体力・気力を無くして、沈んでいる友人宅を訪問。

これまで、元気すぎた彼女。

病気を受け入れるのは難しいみたいだけど。

話をしている間に、段々と元気付き、もう一度健康を取り戻してみせると言ってくれた。

きっと元気になれるはず・・・。信じている。

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秋に思う 父の背中 3

2008-11-19 | 日記
父の育った環境

父が育った集落は50軒ぐらいの家があり、その一番上手に父の家があった。
その集落は「温泉屋敷」と呼ばれ、家の周囲は「しんきり」と呼ばれていた。
どんな字を書くのかは知らない。
家から300メートル行った所に湧き水があり、その水が有明海に流れていた。
その長さは2キロぐらいだろう。
家の前からほんの30メートルにも満たない場所を川は流れていた。
その川は、集落の人たちの憩いの場でもあり、おしゃべりの場所でもあった。

父は、兄2人、姉2人、そして、弟と妹と7人兄弟
父が11歳の時に祖父は亡くなり、祖母は一人で踏ん張ったらしい。
村では、手八丁・口八丁のおばさんで名を馳せていたようだ。

そんな環境の中、兄たちも家を出たので、父も早く出たのかもしれない。
終戦になって、家を守る人がない事もあり帰郷したようだ。

帰郷して、大変な生活を余儀なくされたけれど、
子供たちを皆、家から出してしまった両親は、病気や怪我に見舞われ、
島原の家はそのままに長男の家に同居を始めた。
子供たちがそれぞれ忙しい生活だった為、必要な家へ行っては共に暮らしていた。
両親との同居
昭和64年、夫の事業の失敗で家を失くしてしまった私は、
幼い子供3人を連れて途方にくれていた時、兄の店を手伝うことで水巻の地に身を寄せた。
その頃の両親は、妹夫婦と共に生活をしていたが、
私の窮状を察して、同居と相成った。
1階に両親、2階に私たちが住み、夕食は共にするという生活が半年を過ぎた頃、
何時ものように楽しく食事をして、父が階下へ降りようとして足を滑らせてしまった。

救急車を呼び、病院へ搬送する時、父は「大丈夫、心配要らないから」と言ってくれました。
でも、そのまま段々と意識をなくし、一週間後に天に召されてしまいました。
妹は、「貴女が父を殺したんだ」と怒りをぶつけてきました。
妹にとって父の存在は計り知れないものだったのでしょう。

一周忌が過ぎても、3回忌が過ぎても・。17回忌を済ませて23年経っても・・・。
心のどこかに、あの時、きちんと見送っていたらと悔やまれる。
父の人生を途中下車させたのは私なのかと。

しかし、父の亡き後、母は21年間未亡人として過ごしたけれど、
10年近くは寝たきり状態であったから、もし、父が何事もなく過ごせたとしても
悲しい思いの方が大きかったのではなかろうかと自分を慰め、父への償いをも含めて孝行しようと頑張った。
父は事故であったけれどあの時、あの世への切符を手に入れて幸せだったと思えるようになった。
それも、還暦を迎え、これからの生きる術を模索する中で感じる事である。

父の背中をみて育った私たち兄弟は、何の取りえもないけれで、
真面目さだけは他の人に引けを取らないと思っている。

その証拠に、長男は、魚屋を50年も続け、仲間の世話や魚食の宣伝に寄与したと藍綬褒章を受け
たし、次兄も職場からの褒章を戴いている。

ここ数日、父と向き合い、自分の心の奥底に潜むものに光を当てて、じっと見つめてみた。
父は、笑っていた。そして、「大丈夫、心配要らないよ」と言ってくれました。
父さん、ごめんなさい。やっと言えました。

大変な人生だったのに、愚痴る事もなく、誰からも理解されず・・・。
今、父の痛みが判ります。ありがとう。
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秋に思う 父の背中 2

2008-11-18 | 日記
父はヒーロー?

台風の時、窪地の一軒家である我が家は倒壊の恐れがあった。
そこで、父は皆を近所の丈夫な家に避難するように命じた。
長男は私の手を引き、次男は弟の手を引き、母は妹を背負い三男の手を引き家を後にした。
父は、大黒柱に体を括りつけ、一家の主人が逃げ出すと家はなくなると私たちを避難させたのだ。
翌朝、家を見に行くと父は元気だったが、家の半分、裏の崖がせり押して来て土砂に埋もれていた。
豆腐を作る事も出来ず布団もなく一家が体を寄せ合っている時に、アメリカの支援物資が届いた。マットレスのような布団と洋服など。
本当に嬉しかった。
学校では被災地の子供として、給食が無料で食べられ、
それも、校長先生と一緒に食べられて何だかとても得したような気持ちだった。
そんな時に、妹が大やけどを負い、毎日毎日が病院通い。
リヤカーにのせて、両親は病院に通っていた。
私はこの頃から置いてけぼり・・・。

妹の症状が落ち着くと、両親は、朝、豆腐をつくり、母は復旧工事で働き、現金収入となり、生活も落ち着いてきた。
ところが、この頃から父の酒の量が増えていった。
父は、昼頃には豆腐も売り切れて帰宅し、
母が帰宅する頃には酔いつぶれている事も多く、喧嘩も良くしていた。

今思えば、父は母に対して嫉妬していたのだろう。
この時、父は40歳位だったのかな?
父の良い所は?

ある日、母に聞いた事がある。
片手しかない父さんのどこが良くて結婚したの?と
その時、母が何と答えたかは定かでないが、父さんは、人の嫌がる事を進んでする人だというような事を言っていた。

島原に帰って、まだ私が生まれる前、近所に結核を患った家があり、誰も近づこうとしなかったが、そこのおばあさんが亡くなった時には、父が一人でリヤカーを引き、火葬場まで運んだとか、嫁・姑でもめると母の味方をして守ってくれたとか。

母に対する父の行動が恨めしく、母の味方ばかりしてきた。
父の心情を察する事など出来なかった幼い自分が見える。
そんな事を思い出していると、父と触れ合った様々な事が甦ってきた。

父と触れあったことを思い出しつつ・・・。

父とのふれあい
 
たしか小学校3年生の夏だったと思う。
豆腐を配達するように言われ、持って出たものの途中転んでひっくり返してしまった。
家は忙しくしているのにどうしてよいか分からず泣き崩れその場に座り込んでいたら、
帰りの遅い私を心配して見に来てくれた。
その時、怒られると思っていたのに、「早くもって行かないと待っている人がいるぞ。」
でした。
また、兄が友人の家の干し柿を盗んで食べた時、父は激怒し、兄を縛って半日天井に吊り下げた。
父は、怖い人だと優しい父より激しい父の姿が脳裏にずっと残っている。

今年の同窓会の時に、友人が言った。「貴女のお父さんは優しくて器用だったね」と
「えっ?」
「だって、貴女の宿題の浴衣縫ってくれたじゃないの。」
ああ・・。そうだった。優しいかったのに、ちっとも気付かず、母に嫉妬し、深酒をしている姿の

ほうがより大きくて母が可愛そうだとばかり思っていたから。

少しずつ、父の背中が見えてきた。
心の中に沈みこんでいる父への思い。
今、押し込められている父への思いに光を当てて・・・。

光の当たった場所に父の優しさが・・・。次の機会に






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秋に思う 父の背中

2008-11-17 | 日記
私はファザコン?

私は6人兄弟の4番目で長女である。
この頃、妙に父が恋しく切ないまでに会いたい。
父があの世に行ってもう23年が経つというのに。
私は、どうもファザコンなのかもしれない
4人目で女の子だからきっと父は可愛がってくれたはず・・・。
なのにファザコンになるのは可笑しいのだが。
5歳違いに妹が産まれ、その妹が2歳の頃大やけどを負い、九死に一生をえた。
それからの両親は妹に目が注がれて私は眼中になかったように思われた。
そんな思いをずっと抱いていたせいか、
両親に対して、愛情を感じることなく過ごしてきたように思う。

母親が寝たきりになったある日、
「貴女が私の看病をしてくれるとは思わなかった」と言ったことがある。
その時は意味が判らなかったけれど、思い返してみれば、
母も何か感ずるものがあったのだろう。

父の歩みを

父の人生を辿ってみる。
父は、早くに島原を後にして、福岡に就職している。
その工場で事故にあい、片手を切断している。
当然工場の事故だからずっと勤められたにもかかわらず父は会社を辞め、
新聞の販売所をしている。
それまでには、色々と兄弟との問題もあったと聞いた事があるが・・・・。
それは、父が25歳の頃。
青春時代に腕を無くしたことはどれほどのショックか、今なら少しわかる。
父の生き方の中で、ハンデというものを感じたことがなかった。

昔の人間っていうのはしっかり者だったのだろうか。
人生50年と考えていたら一番脂がのっていた時代かもしれない。
つまり、昭和15年頃の話なのだが・・・。
そして、17年の暮れに母と結婚している。
そんな二人が新聞の販売店を経営して忙しい日々の中、
戦争が激しくなり終戦を機に二人の子供を連れて田舎に帰郷している。
田舎には、母親と妹がいたが、妹は、仕事をしており中々家には帰ってこなかったとか。
そこで、母親と相談して、結婚をさせることになったらしい。
しかし、妹自身は「結婚する気は無い」と断っていたのに、相手の男性が気に入ってどうしてもと話が進んでしまったらしい。
仕方なく、式を挙げたもののどうしても嫌だと妹はその夜に逃げ出してしまった。

行方不明になった妹の心配も然ることながら、弁償に追われ、田畑をも手放す羽目となってしまった。
たぶん、その頃に私は産まれている。
僅かに残った田畑を守って生活をしていたが、
家族が増え、家の修理代などで借金がかさみ、更に
残った田畑を手放していった。
父が縁側に座り、近所の老人と昔話をしている姿を思い出した。
父にとって、苦悩の日々に違いない。
母は、田舎育ちの人だったので、筵づくりをしたり、近所の農家の手伝いなどをして生活を維持していたが、
ある日、お金の代わりに大豆を貰ってきた。

それをもとに豆腐を作り売りに行くようになった。
父は、片腕ながら自転車の荷台にと~ふを乗せ、村を回っていた。
それから、昭和31年の諫早台風によって生活が一変していった。

ここまで思い出して何だか父がいとおしく、父の人生を見つめてやりたいと思う。
少しずつ思い出すから・・・・。
父さん・・・。ありがとう。また・・ね。
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引き出しは一つ

2008-11-10 | 日記
頭の中に引き出しは一つしかなく、その中は乱雑で整頓されていない。

1日の子の刻・・・リーン、リーン不安な面持ちで受話器を取ると・・。
島原のお墓を守ってくれている従兄弟の急死の知らせ・・・。

眠れぬままに朝を迎え、仕事を一段落させて島原へ向かう。
64歳の誕生日を迎えたばかり・・・。心筋梗塞・・・。

2日は、子供たちが還暦の祝賀会催してくれ、
これまでにお世話になった方々を招待してくれた

なかなか帰省しない長男も駆けつけてくれて、何年かぶりの家族が顔を合わせた。

3日は町の文化祭

4日からは終日、兄が白内障の手術で店には顔を出さない為
新聞、テレビを観たとお祝いの対応に追われ・・・(>_<)。
藍綬褒章というものが何なのか

地デジの放映にあたり、工事があったり併せてパソコン・電話の変更

あれもこれも嬉しい事も悲しい事も---------------

嬉しい事、悲しい事、楽しい事・・・・・・。
頭の中が混乱して
今日は、やっと少し自分と対話している。

引き出しの中が少しずつ整理され、従兄弟の奥さんに電話をする事が出来、
パソコンのアドレスの変更を連絡する事ができ、お祝いをしてくれた人への謝礼の便りも出来てホッ・・・・・。

もう少し残っていることもやりこなせそう。

そう! 頑張らなきゃ
新しく生まれ変わったのだから!
fagit! ファイト
頭の中の引き出しが一つしかなくて、一つの事しか考えられなくて
無理やり押し込んだらパズルのようになって手がつけられなくなり・・・。

もう一つ、引き出しが欲しい。


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