ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔読後のひとりごと〕【街道をゆく 16】 司馬遼太郎 朝日新聞社

2006年03月07日 | 2006 読後のひとりごと
 折に触れて司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを読み直している。巻16は「叡山の諸道」。


 【街道をゆく 16】 司馬遼太郎 朝日新聞社
 司馬遼太郎は、比叡山を一山をあげての学林の場として評し、その土地柄については「論湿寒貧」ということばを紹介している。
学僧の問答が盛んな叡山は湿度が高く、海抜800メートルの山上の冬はことのほか厳しい。
「貧」は天台学徒の清貧をあらわすことばらしいが、こうした生活の場では結核も多かったようだ。
 最澄の入唐事情から天台教学の未完成、密教部門の不備のまま帰国せざるを得なかった最澄の後悔にも触れているが20余年前に読んだ「空海の風景」を思い出した。
真言密教を持ち帰った空海と天台教義を持ち帰った最澄との人間対比が鮮やかだったが、あの本では標題のまま「空海」に軍配は上がっている。
 しかし最澄は、生き方短く、非政治的でありながらその門流は盛んであり、その点が子規に似ていると司馬は指摘。
その門流に15歳で最澄の門下生となった「円仁」がいる。入唐9年間で帰国し天台座主となった人で、この帰国までの大旅行記が「入唐求法巡礼行記」であり、玄奘やマルコ・ポーロとともに、三大旅行記のひとつとなった。 円仁は、信州、関東、奥州に多くの足跡を残したが、自分の手で栄達を抱き寄せたという形跡が見当たらない人として紹介されている。
以前、親族旅行で行った松島瑞厳寺や昨年秋、義妹夫妻との旅で立ち寄った善光寺にも円仁の碑があったことを思い出した。
 このほか14歳で発心、叡山で得度し禅を修めた道元や、13歳で叡山に入り18歳で学僧を捨てた法然ことにも触れている。
 京都という場所柄もあって比叡山延暦寺は王朝の檀邦寺に位置し鎮護国家性格を持つことで逆に、地元信徒との結びつきが弱かった。
この点、信長の焼き討ちをもたらした背景を考える面で興味がある。1571年信長の叡山焼き討ちで叡山のすべての寺は灰燼と化した。
廃墟となった十六谷のあちこちには、それ以後にも、きびしい修行途中で死んだ多くの無名僧の墓が石積みという形で残った。
昭和30年代の叡山ドライブウエー工事の時、この石が陳物貴重なものとして売られた。
司馬はこれを「鬼の所業」と表現している。  
作家の今東光が昭和5年、32歳で叡山僧侶となったことを数行で紹介されているが、司馬と東光和尚との人間的結びつきは意外に深い。
 昭和34年1月に司馬遼太郎は結婚。
式なし、披露宴なし、一枚の写真なし。ちいさなホテルでの会食形式の宴に集ったのは今東光夫妻、同僚の俵萌子ら計6人だったという。「【司馬さんは夢の中】福田みどり 中央公論社」より」

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