ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【赤穂四十六士論】 田原 嗣郎 吉川弘文館

2007年11月24日 | 2007 読後の独語
【赤穂四十六士論】田原 嗣郎 吉川弘文館 
 師走の雪降る江戸両国橋。俳人の基角はこの橋で弟子の子葉と行き交う。
 「年の瀬や水の流れと人の身は」と基角が発句を詠むと、浪人から笹売りに身をやつした子葉は「明日またるるその宝船」と脇句をつけて立ち去る。
 その翌日、赤穂浪士が吉良家へ討ち入る。
脇句を思い浮かべ、ハッとした基角がもしやと浪士隊一行を探してみると昨日までの弟子の子葉は大高源吾と名乗った赤穂の義士の一人として其処にいた。
 この話は有名な討入り挿話のひとつ。
だが、大高が子葉の名前で俳諧を嗜んだのは確かだが実の師匠は水間沾徳という俳人でこの水間と基角に交遊があって話しがより面白くなってしまったらしい。(【俳句で歩く江戸東京】山下一海 槍田良枝 中央公論新社より)
 ことほど左様に、赤穂浪士を巡る辛苦の挿話、忠義の美談の話は暇がないほどごまんとある。
 私も小学生の時、なけなしの小遣いをはたいて「義士銘々伝」という講談本を買って夢中で読んだ。
 本はすべてルビつきだから、面白く読めた。
その勇ましい事、格好のよいこと、今でも浪士の名前を20人くらいは、すぐに口にのぼる。
 その頃は年末年始の松竹、東映の時代劇スペシャル映画では「忠臣蔵」は欠かさず懸けられた映画だった。  

 足軽の身分で同志として参加、討ち入り後の泉岳寺から姿を消した寺坂吉右衛門を一人勘定に入れず、この「赤穂四十六士論」は書かれている。
だが、この本は四十六士銘々の人物論ではない。
事後の討入り是非の論議論争がテーマである。
 討ち入った事実を当時の知識人たちはどう把握し評価していたのかが探られている。
「義」という概念はなんなのか、それは「公儀」の儀か「御家の忠義」の義かを問いながら、武士の名分やお家の一大事に処する「理」を明らかにすることで、江戸武家社会の精神構造を提示してくれた。
 萩生徂徠は「義に非ず」と討入りを否定、室鳩巣は「義人」、林信篤は「義挙」と評価した。
 特に、門弟数千人を擁した朱子学の山崎闇斉の高弟の中でもその是非が争われたそうだ。
 佐藤直方の論理は
「公儀恐れざるの段、重々不届き」と討入そのものを否定的にとらえる。
 「吉良上野介は浅野内匠頭を害していはいないのだ。ことは公務中であり公務を果たさずの刃傷である。 四十六士の討入り行為はこうしたお上の命に背くもので許し難い。彼らは泉岳寺で自殺すべきであって事後、仙石(大目付)に伺い届けを出している。この点も直、許しがたい」
 と将軍の天下支配の論理を重要視、公儀の裁断がすべてに優先されることを強調、「義」の「理」も公儀が決めることと、いまどきの世代から見れば信じ難い教条論理の一点張りだ。
 その崎門三傑の一人と言われた浅見絅斉は
 「君臣の間には是非を論ずる余地はない」
の立場をとる。
主君が遺恨に思われたその志を継いで相手を打つ。そこに「理」がある。
家臣は浅野の家臣であり将軍の家臣ではない。ことは「浅野家と吉良家との間の問題」とする。
 これらは山崎派の門内論争という形で終始されたようだ。
 武家という家から考えれば浅野と吉良の「喧嘩」であると捉えるのかどうか。
 喧嘩両成敗であるべき武家社会の原理はどうだったのか、 片落処分ではないか。
片落処分であるならお家再興を持って武家の名分を立てることが重要(大石の論理)とすることと、「殿は家を捨てたのだ。捨てる覚悟で吉良に斬りつけたのだがからその旨を継ぎ徹底すべき」と亡君と心情を一つにする江戸急進派(堀部安兵衛、高田郡兵衛、奥田孫太夫)と赤穂浪士内も名分をめぐる点で当初は割れた。
身の処し方に亡君の仇を引き継ぐという一点に絞る安兵衛らの情緒陶酔型はなぜか若い頃の三派系全学連のあれこれを連想させてくれた。
 一方、上方の急進派で前述の大高源吾は「御家が残れば人前は立つ。個々の憤りは出家や自害で表現すればよい」とやや大石に近いところに論理を求めている。
この人前というのは「武士の一分」の一分に共通する面目という武士の価値観みたいなものと受け取れる。
 将軍と在地領主の権利が質的には争われる要素もこの論議には含んでいたようだ。
 「御家の一大事」そのものは将軍・幕府から自立している大名家としての存在としての有り様をめぐり武家社会の保全とそこにいる武士の面目の規範がなんであったかも問われたようだ。
 ただ、幕藩体制の「藩」という呼ばれ方は明治以降で、当時は大名家という括りの中で論議されていた。
将軍家としての徳川家が厳然として君臨していた江戸時代にあって浪士討入の「赤穂四十六士は義士であるか否か」の「義」そのものの論議が一定のところまででタブーとされたようだ。
 明治以降の討入り論になると徳川家は消えてタガというのか重石というのか、その部分がなくなったから赤穂義士は忠義の鑑と肯定論理だけが最優先された。
 これはやがて国への「滅私奉公」大歓迎の論理にまで広げられ利用されていったのではあるまいか。
 大名家と徳川家の二つを廃した天皇制という国家体制は赤穂浪士に「忠義」の「儀」という見本を作ったように喧伝された気がする。
それが、戦後になると戦前の「義」などの価値は棄てられ、都合のいい民主主義が育った。
そして戦後60年以上たつと、規範のよるべきところがまったくなくなって国の品格が改めて問われる時代になっている。

もうすぐ師走。
「年の瀬や水の流れと人の身は」
テーマもその咀嚼も釈然としないままの読後感が残った。
                    (2007年 11月21日 読了)


 


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