【志ん生讃江】 矢野 誠一編 河出書房新社
語録
「うめいとか、うまくねえとか他人(しと)のやってるのをきいて、そういうことを言うについちゃァ、別にモノサシがあるわけじゃありませんが、まァ、他人の噺ィきいてみて「こいっァ、俺よりまずいな」と思ったら、まず自分と同じくらいの芸ですよ。
人間にゃ誰にだって多少のうぬぼれがありますからね。
「俺と同じくれえからな」と思うときは、向こうのほうがちょっと上で「こいつぁ、俺より確かにうめえや」と感心した日にゃァ、そりゃァもう格段の開きがあるもんですよ」
将棋やテニスなどを岡目八目で見る。上の言葉は、まさにピッタリ。
志ん生のその声が聞こえてくるようだ。
師匠は楽屋で弟子相手に「王手っ」なんてやっていたらしいが、上の見方は、なんにでもあてはまる師匠の”哲学的”語録のひとつと思う。
ジャズ
「文楽の落語は古典音楽のようなもの。(中略)そこへいくと、志ん生の落語は、いささかジャズである。楽譜なんか無視して、ジャンジャンと演奏する。然し、決してリズムは踏み外さない。これまた善哉である」
徳川夢声の「志ん生」評。「そうなのだ武蔵ッ! じゃなくて志ん生!」
酒
「朝と昼と晩と夜中の三時と日に四回、合わせて一升。いつも冷やをコップであおります」 冷や酒・清水崑
「医者がウオッカ六本もあけるなんぞはきいたことがない。よく助かったモンだ。不思議なことだなんてんで、驚いたりあきれたりしてましたが、あたしが思うには若い時分から電気ブランだの焼酎だので酒でたしにして鍛えて来た胃袋のお蔭でしょうねえ」
満州に渡った志ん生が前途に悲観、ウオッカ飲んで死んじまおうと思って一箱分あけた話はよく聞いた。
雪の降る日に浅草・神谷バーで電気ブランをぐいぐい空け、駅からの帰りの自転車ですべって歯を折って入院した私などとは鍛えかたが違う。(ジッタン)
息子・志ん朝
「・・・あいつは、年の割りには度胸がいいし親のあたしがこんなことを言っちゃあなんですが割りに筋がいい。自然のうちに、スーッと行っちまったんです」
筋どころかテンポが抜群だった。
志ん朝は大のジャズファンでもあった。
2001年10月1日。その志ん朝が肝臓がん、63歳で急逝。
スーッと行っちまって、ガックリときて、あれ以来あまり彼のテープ落語を聴かなくなったような気がする。(ジッタン)
芸
「アア・・・・。あの時の、志ん生女郎の、あの声色、あの姿・・・。
女郎をやらせりゃだれでもじつにうまいよと定評のある日本国女優陣を駆使して、溝口、吉村、豊田、川島などという名監督が撮影したお女郎映画のどれ以上に、春をひさぐ女の悲しさの骨がらみ、業の深さのやるせなさを、はっきり見せてくれたものだった。
凄いとより言いようのない、それは芸----」
おれ志ん生が好き・大西信行
もう一人の寅さん
「私は何度か柴又の住人に「寅さんのモデルは兵隊寅ですか」と聞かれたことがある。
なんでも柴又に兵隊寅というひどく気っぷのいい名物男がいたというのだが、はからずもこの著書(結城昌治 「志ん生一代」)で,兵隊寅がなんと志ん生の無二の親友、生涯にわたってのスポンサーであったことを知り奇妙な縁に驚いた。
この映画を作るにあたって落語がどれほど参考になったか、いや落語を下敷きにして「男はつらいよ」は出来上がっている、といってもいいのだが、主人公の名前を柴又の地でその晩年を過ごした「寅」にしたことの偶然も、ひょっとすると志ん生の生涯の友、兵隊寅なる人の導きであったのかもしれない、と私は考えたりしている。」
結城昌治『志ん生一代』解説・山田洋次
こうして27人の辛口の文化人がエッセーや評論で替わり番に志ん生を讃えた。
山藤章二は
「時代世代を超える唯一の落語家。「待ってました!」「たっぷり」といった(場内の)声はあっても、演目の希望はなかった」
とし、この本をまとめた矢野誠一は「存在そのものが落語であったこの人」と評した。
野球でいえば長嶋、落語でいえば志ん生だったのだ。
五代目古今亭志ん生は昭和48年9月21日にあの世に行ってしまった。
讃歌一色の本となれば少しはいやみが出てくるものだが、この師匠とこの本に限ってそれがなかった。
映像での志ん生高座姿は数えるほどしかないそうだが、せめて取りおきのテープで酒と落語に生きた師匠のことばをもう一度楽しませてもらおう。
2007年 11月13日 記
語録
「うめいとか、うまくねえとか他人(しと)のやってるのをきいて、そういうことを言うについちゃァ、別にモノサシがあるわけじゃありませんが、まァ、他人の噺ィきいてみて「こいっァ、俺よりまずいな」と思ったら、まず自分と同じくらいの芸ですよ。
人間にゃ誰にだって多少のうぬぼれがありますからね。
「俺と同じくれえからな」と思うときは、向こうのほうがちょっと上で「こいつぁ、俺より確かにうめえや」と感心した日にゃァ、そりゃァもう格段の開きがあるもんですよ」
将棋やテニスなどを岡目八目で見る。上の言葉は、まさにピッタリ。
志ん生のその声が聞こえてくるようだ。
師匠は楽屋で弟子相手に「王手っ」なんてやっていたらしいが、上の見方は、なんにでもあてはまる師匠の”哲学的”語録のひとつと思う。
ジャズ
「文楽の落語は古典音楽のようなもの。(中略)そこへいくと、志ん生の落語は、いささかジャズである。楽譜なんか無視して、ジャンジャンと演奏する。然し、決してリズムは踏み外さない。これまた善哉である」
徳川夢声の「志ん生」評。「そうなのだ武蔵ッ! じゃなくて志ん生!」
酒
「朝と昼と晩と夜中の三時と日に四回、合わせて一升。いつも冷やをコップであおります」 冷や酒・清水崑
「医者がウオッカ六本もあけるなんぞはきいたことがない。よく助かったモンだ。不思議なことだなんてんで、驚いたりあきれたりしてましたが、あたしが思うには若い時分から電気ブランだの焼酎だので酒でたしにして鍛えて来た胃袋のお蔭でしょうねえ」
満州に渡った志ん生が前途に悲観、ウオッカ飲んで死んじまおうと思って一箱分あけた話はよく聞いた。
雪の降る日に浅草・神谷バーで電気ブランをぐいぐい空け、駅からの帰りの自転車ですべって歯を折って入院した私などとは鍛えかたが違う。(ジッタン)
息子・志ん朝
「・・・あいつは、年の割りには度胸がいいし親のあたしがこんなことを言っちゃあなんですが割りに筋がいい。自然のうちに、スーッと行っちまったんです」
筋どころかテンポが抜群だった。
志ん朝は大のジャズファンでもあった。
2001年10月1日。その志ん朝が肝臓がん、63歳で急逝。
スーッと行っちまって、ガックリときて、あれ以来あまり彼のテープ落語を聴かなくなったような気がする。(ジッタン)
芸
「アア・・・・。あの時の、志ん生女郎の、あの声色、あの姿・・・。
女郎をやらせりゃだれでもじつにうまいよと定評のある日本国女優陣を駆使して、溝口、吉村、豊田、川島などという名監督が撮影したお女郎映画のどれ以上に、春をひさぐ女の悲しさの骨がらみ、業の深さのやるせなさを、はっきり見せてくれたものだった。
凄いとより言いようのない、それは芸----」
おれ志ん生が好き・大西信行
もう一人の寅さん
「私は何度か柴又の住人に「寅さんのモデルは兵隊寅ですか」と聞かれたことがある。
なんでも柴又に兵隊寅というひどく気っぷのいい名物男がいたというのだが、はからずもこの著書(結城昌治 「志ん生一代」)で,兵隊寅がなんと志ん生の無二の親友、生涯にわたってのスポンサーであったことを知り奇妙な縁に驚いた。
この映画を作るにあたって落語がどれほど参考になったか、いや落語を下敷きにして「男はつらいよ」は出来上がっている、といってもいいのだが、主人公の名前を柴又の地でその晩年を過ごした「寅」にしたことの偶然も、ひょっとすると志ん生の生涯の友、兵隊寅なる人の導きであったのかもしれない、と私は考えたりしている。」
結城昌治『志ん生一代』解説・山田洋次
こうして27人の辛口の文化人がエッセーや評論で替わり番に志ん生を讃えた。
山藤章二は
「時代世代を超える唯一の落語家。「待ってました!」「たっぷり」といった(場内の)声はあっても、演目の希望はなかった」
とし、この本をまとめた矢野誠一は「存在そのものが落語であったこの人」と評した。
野球でいえば長嶋、落語でいえば志ん生だったのだ。
五代目古今亭志ん生は昭和48年9月21日にあの世に行ってしまった。
讃歌一色の本となれば少しはいやみが出てくるものだが、この師匠とこの本に限ってそれがなかった。
映像での志ん生高座姿は数えるほどしかないそうだが、せめて取りおきのテープで酒と落語に生きた師匠のことばをもう一度楽しませてもらおう。
2007年 11月13日 記
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