ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし】成松佐恵子 雄山閣

2007年11月01日 | 2007 読後の独語
【名主文書にみる江戸時代の農村の暮らし】成松佐恵子 雄山閣 

 私が住んでいる杉戸で、旧家に残る名主文書を読み解く研究会があることを知って、その末席に座らせてもらっている。
 前回の会では、江戸の杉戸宿で相宿の槍持ち侍のお供が、無礼があったらしい町人を斬り捨てた事件を扱っていた。
 このような殺人事件を巡って侍の場合はどう対応するか、町人など場合の違いとはなんなのかが文書には記録されていた。
 また付け火事件があって被疑者に拷問をかけたいがどうだろうという許可伺いの書状があったり、その後、薪の上に座らせ大石を抱かせる拷問方法が詳述されたりしていた。
 拷問には医者が立ち会っていたというのも新鮮な発見だった。
 おしなべて名主文書には当時の臨場感が残っているようで、その面白いこと、面白い事。
だが、残念ながら会のみなさんのように古文書がスラスラ読めるわけがない。
 でも関心は強まる。
一から学びたいと思って、あれこれ読んでいるなかでの一冊が表題の本となった。

 二本松藩は福島県にある。
 二本松城へは一里という近郊農村の杉田村で、名主を務めた旧家に残った古文書「人別帳」から江戸後期の村の実情を紹介した本がこの本となった。
いまの児童手当にあたる「赤子養育手当」というものがあったことに驚いた。
 天明の大飢饉(天明2年-天明8年)を挟んだ天明6年(1786年)に藩は赤子出生養育御達書を出して徹底している。
 第3子から順繰りに手当金は多くなり、第5子以上には金1両が与えられた。
 原資は藩からの拠出金のほか、豪農豪商から献金も集めた。
 米や衣服なども与え、口減らしという堕胎や間引のむごい実態を減らし,コメ作りの人口を増やすことに狙いがあったようだ。
こうしたことが文書に残っている。
 搾取制度という色眼がねの歴史観では見落してしまうような制度だが、要はコメ作りの人手問題には武士から見ても決して他人事ではなかったわけだ。
生産を支えるためなによりも人別帳が重視され、それを担う名主の役割はことのほか大きい。
 藩家老から郡代、町奉行、郡奉行を経て代官から名主という行政の動線が結ばれるが名主は藩行政を末端で支えた村役人だ。
 時に奉行や代官と交渉し、その意を咀嚼して自ら村の政治を執行する。
名ばかりの「あほ」では到底勤まらない大変な役目のようだ。
 人だかりのする高札場に捨て子の事件がある。
 この知らせは名主から代官に連絡され捜査がすぐ開始される。
 乱心体の母の身柄が確保され、その日のうちに親類までの供述書がとられ名主文書として報告される。
 「「老年ゆえ気抜け候様に相成り」と隣村の痴呆気味の老人が徘徊して近村の井戸にドボンと飛び込んだ事件の処理があったりもして、名主は忙しい。
 さきほどの天明の飢饉以後は冷害コメ不足で酒造米生産は制限され、お殿様でも禁酒をしたことも文書から伺われる。
 安政5年(1858年)、名主の遠藤源四郎51歳は藩命で江戸湾警備のため千葉富津に出張。
富津には近辺31か村が藩の預かり地となっていることもあり、名主のほうが下世話に通じているから行政官として適役だ。
当時、異国船騒ぎもあって浦賀付近は幕府の警戒線となっている。
 2月15日に二本松を出立、喜連川、杉戸、千住と日光街道を南下して9日目に富津着となるが途中の我が杉戸宿で両替などもしている。 「世の中の事ハ富津り(ぷっつり)聞こえねと耳やかましき波風の音」送別時のこの歌はなんと、二本松藩の代官から名主の源四郎に贈られたもの。
こうした戯れ歌までの交換があったわけで両者は、かなり昵懇であったらしい。
このあたりの関係も唯物史観だけでは解り難いところだ。
 当時の浦賀は江戸湾警備の抑えであり、出入りの船や商品の流入などが監視されている。
源四郎は富津にあって浦賀と連絡を密にしながら与力や同心などに干鯛や樽代などの中元も贈っるなど気働きでも忙しい。
 台風があって富津湾に異国船が迷い込んだ。
 「富津御預地御用詰合中手控」という公的な「日記」に

 「末の六月六日 富津湾御台場脇出渕江(え)異国船壱艘滞留ニ付見届候 而(小文字)、遠藤源四郎御手船ニテ出帆の図、折節大風雨 イギリス船 長ニ拾間余幅五間余ニ相見候 大風ニテ帆卸シ候也、小舟ニ艘両脇江(え)釣シ置候、 帆柱長キ拾五間余 大筒ナトハ相見江(え)不申候」(読点は著者)
 とあり、日記には風雨のなか立ち往生している異国船に向かう水夫8人乗りの船の図までが添えられていた。
 近づくとイギリス船上からは手招きがあり、源四郎たちは乗船するがそこで酒を振舞われている。
 水夫頭たちは同船にいた支邦人から手振りで情報を集めたりしている。
 翌日、異国船内の事情を聞いた浦賀奉行では八挺の船を仕立て船に向かっていく。
 異変に立ち向かう名主としての覚悟、それでいて泰然とした様子には感服する。
 幕末に向かう中、10年後の二本松藩は1000名の藩士とともに京都の守護役を担う。
為に藩の財政は火の車となって崩壊の予兆となるが事実、戊辰戦争の二本松少年隊の悲劇がいまの時代まで語り継がれた。
この悲話は出向職場で一緒だった同地出身のNさんから聞いた話でもある。
 名主とは末端で幕藩体制を支えた存在だった。
そうした文書はどこにでも残っている。
名主古文書を生のまま、すらすら読めて、その文意を探ることができたら楽しいのだが。
                      (2007年 10月30日 記)


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