ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔読後のひとりごと〕 【ネットは新聞を殺すのか】青木日照 湯川鶴幸 NTT出版

2006年03月14日 | 2006 読後のひとりごと
最後のニューヨークタイムズ紙の発行は2018年とハーバード大学のギルバード教授が”予言”したと本書。あと12年後だ。日本の新聞社の流れを1970年代から10年ごと体験的にたどると、10年後の2015年ごろの日本の変容も読める気がする。

【ネットは新聞を殺すのか】変貌するマスメディア                            青木日照 湯川鶴幸 NTT出版 

1975年ごろは新聞製作は明治から続いてきた活字組にまだ頼っていた。
10年後の85年ごろ、その制作はコンピューターシステムに変わりつつあったが、編集局におかれているパソコンはまだ数台程度。
パソコンエディター「松」などが登場しているが文字変換率は眼をむくようなひどいものだったし、編集局の世界はまだ太いマス目の原稿とちびた鉛筆が主流だった。
95年ごろになると記者パソコンが社内に普及し、鉛筆は記者ワープロに変わっていた。
ただ読者側である一般家庭でのインターネットは、ようやくはじまったばかり、不便なISDNに頼りOSもWindows3・1型が主流。
また10年経った。2005年となると新聞各社はすべてオンライン化され大型Webサイトを作っている。インターネットの世界はケータイ普及を含めて家庭側に取り込まれ大きく変わった。若い世代はブログで情報を発信、ノートPCやケータイなどから新聞記事サマリーを読んで納得、逆に紙媒体としての新聞離れは新世帯層ですすんでいる。
さて、あと10年後はどうなるか。

10年後の新聞。新聞業界の生き残る道はあるのか、もし自分が新聞経営者であったらと立場を置き換えて勝手に想像する。
 例えば読売と日テレの編成デスクを統合する態勢を考える。これは朝日とテレ朝でも同じだ。
 ”土俵入り”と符牒で呼ばれた会議が新聞社にはあった。
その日をどういう紙面にするかということで、取材デスク、記者、紙面レイアウトをする整理編成記者、記事の正確さをチェックする校閲スタッフが一同に会して最終確認を行う出発の会議である。
この会議を新聞、テレビスタッフが統合して行う場に変える。
その日の重要ニュースの扱いをどうするかの点で映像向き、新聞向き、ネット向きの判断を加え、分岐させてゆく。
 新聞・テレビの合同取材チームがあって互いのメディアをサポートする。同一組織として働くわけだ。
新聞、テレビの両社にあったサイトは一つに統合され、ここではニュース速報をより重視させた内容となっている。途中経過のニュース でも大胆に扱ってゆく。
広告はメディアミックスの「売り」を強調するため、新聞、テレビ、オンラインの広告3事業が一本化した事業本部と改変する。
 この経営改革宣言は、新聞とテレビ両社の統合がその前提となっているから、社内外からごうごうたる反対論が巻き起こる。
でも、説得する。
これからの10年後は、個別配達制度で新聞を支えている強い販売網が逆に足枷となって新聞の衰退を速めるからだ。
経営を支えてきた広告収入は購読者数の対比でその効果をいままで図ってきたが、スポンサーはもう満足はしない。
紙面広告はいまや飛びぬけた媒体広告ではない。
ワンオブゼムの価値として評価がきびしい。
マイカーを購入する人の73%が購入前の事前と事後の情報をネットから得ていると本書は指摘している。
ネット広告売り上げは2005年時点で雑誌媒体を抜きはじめてきていると元の職場の友人から聞いた。
明治期に紙面広告ができてから現在までの紙面広告の歴史にはネット時代のプル型の広告は存在しなかったのだ。この機能性が一層、重宝な時代となっている。
経営の根幹はゼニだ。収入だ。
スポンサーの要望に適う広告のあり方を考えなければ新聞は持たない。
、また紙面広告や折込広告や「ちらし」を見て情報を得ていたかっての主婦はネット通販とネット検索に慣れてきた世代に交代している。その分、紙の事業は漸減から急降下する要素を秘めている。
もともと新聞事業の収益性は低く景気のよいビジネスではなかったのだ。
 広告は映像と記録とネットのそれぞれの強さをリンクさせたものに変わらなければならない。
だがら両社は一つ、サイトも一つ、それぞれの強さを補い合う組織に作り変えなければダメなのだ。
諸君、座して衰亡を待つわけにはいかないではないか。
と大声で説得して了解を得る。いや、得られるか。

無論、これは早春の我が白日夢である。勝手な思い込みであり、ひとりごとだ。
だが、今のままでは、編集記者も広告局員も「負の資産」となりえるとする本書の指摘もある。
それ以上にこれからの10年間の流れは、はげしく、しかも致命的に早い時の流れとなる。
 これは新聞社を定年除隊となって外に身を置く独りとしての確かな予感でもある。
ラジオが生まれた時、ラジオを敵とせず逆に新聞ラジオ欄を創設し部数を伸ばした優れた経営者の事業感覚を今こそ学ぶべきだ。
巨大組織の改変はむずかしいがWeb世界に強い感性を持ち合わせ合理的判断を持ち合わせた少壮の経営者の登場が必要だろう。
関本忠弘さんが巻頭で「情報技術の動向を理解しているジャーナリズム論の専門家が少なくジャーナリズムの行方に思いを馳せているジャーナリスト技術者もいない」と寸言しているがいまの新聞経営陣にもあてはまる。
今後のメディア経営に老人の跋扈はもう許されまい。
 記者出身者だけが多数の経営陣を占め、大所高所からあるべき姿を論じる経営論はもはや持たず、10年後には成り立たない。
四十代の新手経営者よ出てこい。
だが団塊の世代が退場したあとの新聞社の空気も怖い。 社内組織は流動化し職務給という賃金体系とかってあった愛社精神の両輪はむずかしい。
社員の士気とモチベーションに注意を払うべきだ。人材こそ宝だ。かって銀座に社屋があった頃の新聞社での交わす言葉に「わが社は」というのがあった。
そこでは「○○は」と平気で、社長を批判する闊達な空気が職場にもありそれが酒場にも持ち込まれていたし、あるべき働く場と会社の姿を肴にして飲んで明日につないで働いていた。
いまそれがあるか?


朝日、毎日新聞のメディア担当局の首脳陣からコメントと解説は本書にあってもなぜか読売のがない。
部数世界一の紙のメディアだからこそ、そのコメントは欲しかった。
その読売は相変わらず有料と無料とに切り分けたおかしな方式で貴重な新聞記事データベースをサービスしている。
水道の蛇口に料金をかけながら、一方では無料で情報を垂れ流しにしている構図だ。ヤフーなどを生き残りライバルとして捉える一方でそのサイトにニュースを提供してきたのも矛盾ではないか。
これは新聞人の持つ”教養”が邪魔をしてなせる業なのだろうか。

「ネットは新聞を殺すのか」というこの題名に少しひっかかる。
「だれが「本」を殺すのか」 佐野 眞一 (著)のもじりともいえる題名だ。幼児殺し、親殺し、というニュースが続いている。
道徳の基本的規範が乱れる風潮のなかで安易に「殺す」ということばの語感によりかかって題名をつけてもらいたくない。
 また報道機関に挑むとして、日本の草の根ジャーナリズム「2ちゃんねる」と持ち上げているのも違和感が残った。
私たちの世代では「草の根」という言葉は、ボランティアであったり、ひとつの時代に向けた明るさをともなう語感があった。「2ちゃんねる」は匿名という仮面を被って論議する世界であり、どちらかと言えば印象は暗い。
仮面の世界での情報の広がりを「草の根」というのはどうだろうか。 
情報に対する信頼性も新聞の方に軍配を上げたい。
民主党の永田メール問題も情報の信頼性がまず問われた。
新聞社のどこの社の編集局にも昔から「ウラトリ」という言葉があり今でもあるはずだ。
「裏を取ったか」という言葉は情報源に対する信頼性を複数取材して確かめる取材原則で、どこの職場でも通用している。
ニュースになるまでには取材記者とデスク、紙上を編成する整理記者の目、事実の確認には校閲記者の目がある。
こうした体制で取材網と報道までが一元化されており、これが新聞報道の「いのち」と思う。
報道機関の内側にいる人間とネット時代の読者との間に情報信頼性への認識ズレがないかと本書は提起しているが、今後も他メディアが真似することができない新聞社の取材態勢は逆にネット情報発信との差別化をひろげられる貴重な財産であり、この原則は10年後も変わりないはずだ。

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