ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔2010 暮らし雑感〕 3年3組 銀八先生

2010年05月25日 | 2010 暮らし雑感
3年3組 銀八先生

金八先生ではなく銀八先生だったか。
すでに銀髪となっている先生は武田鉄矢ではなくて長塚京三によく似ていた。
小説でいうなら「坊ちゃん」のヤマアラシにも似た人。
それが我が中学3年3組の担任、大滝英雄だった。
50年ぶりの生徒との再会を前に先生は言った。

「身長が4センチ縮んだ。いま80歳となった。カミさんは認知症になってしまった。長い間、好きなことをやってきて苦労もかけた。だからこれからはオレが世話をする。みなさんもこれからが長いから、その生き方が問われてくるよ」と挨拶。
「3組は個性ゆたかなクラスだった。22人も集まると聞いて驚き、うれしかった」とも。


半世紀前の昭和35年。
この日、集まったわれわれは当時は15歳、中学3年生だった。
担任教師の大滝は30歳。
おっかないが、頼りになって、父親と兄貴の中間のような存在感があった。
今回の寿司屋二階の同窓会に集まったのは女11、男11の22名。
50年ぶりに顔をあわせた人も多かった。


大滝は数学が受け持ちだった。
剣道は段持ちの腕前で、野球部の監督もやっていて、県大会の上位に名を連ねさせた。

3年3組はツッパリ少年がたくさんいた。
でも大滝はかれらを個性のある子供と、とても可愛がった。彼らも彼を慕っていた。
ツッパリたちは、蔭で煙草を吸って見せる一面もあったが、ほとんど野球部や陸上競技部に入っていてその世界ではけっこう燃えていた。
机を並べていた木野内は、ピッチャーをやって県大会準優勝まで行った。
彼の男兄弟はみな野球をやっていた。
その後、全国高校野球で優勝した監督の兄を手伝ってコーチをしていたことを聞いた。
ツッパリ連中のまとめ役だったケンボウは、他校との中学駅伝で最終ランナーを演じていた。
私はケンボウとは同じ町だった。
彼は香具師の家で育って、その後はその道に入った。
20年前の同窓会にはベンツで会場に駆けつけ、着流し姿で現れたが身体中には彫り物があった。
でも二次会は「オレの奢りだ。」と小さなバーを貸しきった。
この2人に、会いたかったが2人とも既に亡くなっている。

小人閑居シテ、不善ヲナスナ
などと先生は言いながら、ツッパリたちの悩みや生活をふくめ進路指導をしていた。
15歳の春をもって、最終学歴とした仲間はクラスの4分の1だったろうか。
家業を継いだり、就職する子もいた。
私も中学のまま就職をしようと一時は思ったが、母や先生の助言で高校をめざした。
 先生がその後、校長になったとき、新任の教師が「数が多くて顔と名前が一致するのが大変だ。覚えきれない」と言ったとき大滝はカミナリを落としたそうだ。
「それは、やる気と心がけの問題だ。生徒が可愛かったら1000人までは覚えられる」
この言葉を我々が聞いたら、あ~っ、それは本当だ。大滝だったらそうかも知れないと信じられる。
彼は教えているすべての生徒の家庭や兄弟姉妹の消息にもよく通じていた。
中学の名物先生だったが、時に大声で叱り、他クラスのツッパリたちからも一目置かれていた。




3組には進学組に優秀なのもいた。
上江田がそうで、大手銀行の執行役員まで勤めたが8年前脳梗塞になって残念だが出られないという短信が本日の幹事に届いていた。
でも、長男が歯科医師として地元で開業して、時々は土浦にもでてくるとのことだった。
あの頃、毎日のように医者だった彼の家の小部屋にでかけ、二人で生意気な人生論みたいなことを駄弁って帰ることも多かった。
彼にはどうしても会いたかったが残念。
杉本も算数が得意で成績もよく、進学校へ誰もが行くと思っていたが、家業の事情もあってか当時新設されたばかりの工業高校へ行った。
碓井という、とりわけノッポの少年がいたが、彼はバスケットのレギュラーとして活躍していた。
ただ夏の大会のときに、部の先生からきつく注意されていたのにも拘らず夏祭りに参加し、大人たちに混じって町の神輿を担いだ。
夏祭りには神輿に町内の誇りと意地があり、他の町の若い衆とのケンカもつきものだった。彼はそんな雰囲気が大好きだったらしい。
結局、そのため翌日の試合はつかいものにならなかったそうだ。
ツッパリ組の一人だった彼も、もうこの世を去っていない。

柳葉という仲のよい旅館の倅もいた。
彼は進学校にすすみ、外国資本の金融機関で役員までいった。
眉目秀麗の生徒だが、会って見ればすでに額はおおきく後退し年相応な顔つきにはなっていた。
 勤めはストレスの多い生活だったらしく高脂血症、高血圧、糖尿との診断を受け奥さんからも「会社をやめて」とせがまれ定年と同時に退職したらしい。
あまり目立たなかった長井が本日の女子11名すべての名前を言い当てたのには驚いた。
精神救急医療の地方病院でカウンセラーのようなことを長い間やって患者と向き合うことも多かったから、職業柄、声も大きくなり、記憶力もついてきたという。
その彼は胃ガンで胃を全摘しているという。
「オレもそうだ、三分の一。今日来られなかった村木もだ」と幹事の杉本がビールを飲みつつ言っていた。

クラスにはマドンナ役の少女もいた。
頭がよくて成績はトップクラス、おまけに優しい。
走ればリレーの選手に豹変し絵も上手。
万事控え目で憂いを少し含んだところもある可愛い生徒で、みんなからミキちゃんと呼ばれ好かれていた。
初恋に焦がれ、市営住宅の大滝の自宅までその悩みを訴えに行った思春期の男子生徒は私を含めて実は他クラスでも5人いたと後日、先生から聞いて驚いた。

粉屋のカッコちゃん、千代女、とも50年ぶりの再会となった。
アッコは幹事役の一人だが、美人のお母さんそっくりな顔立ちになってきた。
お母さんは、近所の子供たちを集めて勉強の面倒を見ていた人だったが、そのことを言うと
「最近、みんなから似てきたって言われるの」と本人も頷いていた。


チュウセイとあだ名で呼ばれた小柄な女の子がいた。
男っぽいというより、鉄火場に近い環境で育ったちいさな女の子だったが、彼女がクラスでは一番先に身重になったそうだ。
それを言うと本人も笑っていた。
50年後の今日も先生は、清酒をぐいぐいあおる彼女の愚痴話に耳を傾けていた。


当時の私たちの中学校は55名づつの11クラスだったと記憶している。
だから校内球技大会、競技大会も盛んで、そんな場がツッパリ組の腕の見せ場だった。
先生も率先して大声で檄を飛ばした。
だから3組は常にどの大会でも優勝した。

50年前の社会は国会を取り囲んだ旧安保闘争の年で、西田佐知子「アカシアの雨がやむとき」がその余韻を醸す一方、橋幸夫の「潮来笠」も流行っていた。
3組のクラスでは平尾昌晃の「ミヨちゃん」が休み時間に歌われた。
「生まれてはじめての甘いキッスに・・・」のキッスという歌詞のところは抵抗感が生まれて、どうしても言えず、モゴモゴと口ごもってしまう純なヤツも多かった。



同窓会は寿司屋からケーキ屋に場を移し、あれこれと話は弾んだ。
先生も同行してくれた。

皆が、50年の歳月をまたぐことのに時間はかからなかった。
当時の3年3組の雰囲気があっというまに生まれたのも不思議だった。

いつかまたの日の再会を約して別れた。

駅まで送ってもらったが、50年前は七夕祭りであれほど活気を見せていた大きな商店街は、シャッター街になっていたことに長い歳月の流れを感じた。














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