ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔12 七五の読後〕 【戊辰戦争から西南戦争へ】明治維新を考える小島 慶三 中公新書

2012年01月07日 | 〔11 七五の読後〕

【戊辰戦争から西南戦争へ】明治維新を考える 小島 慶三 中公新書


著者の祖父兄弟は埼玉・忍藩の藩士。 
兄は桜田門外、天狗党、京都守護職の事件にことごとく出動し関東奥羽征戦
に参加している。
弟は幕臣永井尚志に属し、長岡、会津で新政府軍と連戦し五稜郭で戦死。
骨肉相食む戊辰戦争が著者をして明治維新を考える大きな動機となったようだ。 

明治維新を考えるが副題になっているが、今回の備忘メモは戊辰戦争に限定したい。

● 和宮 警護は一万5千人
文久元年10月20日、孝明天皇の妹和宮16歳の行列は江戸に向かった。
将軍家茂との政略結婚のためで、桜田門外の変のあとを受けた老中、久世広周、 安藤信正らが画策したという。
41藩から1万5000人が動員された。
道路や宿場の整備、道中の警護にあたっている。
埼玉の小藩・忍藩は本圧から桶川までの警護に1406人を充てた。
著者は祖父の記録などからこれを記録。
やがて戊辰戦争となったとき、慶喜追討軍の総帥が、和宮のかつての許婚者有栖川熾仁親王であったのも歴史の巡り合わせ、和宮は慶喜の助命嘆願に尽力した。

● 木曽三川 怨みにかえて東進し
戊辰戦争西軍の中心は薩摩藩。
この戦争が起こる100年前、幕命によって薩摩藩が行った治水難工事がある。
宝暦4年(1754年)に将軍徳川家重は島津重年に御手伝普請を課した。
木曽川、長良川、揖斐川の三川の分流治水ともいう。
もともとは雄藩薩摩の財力を弱めることに狙いがあったが薩摩は947名の藩士を動員してその責を担った。
粗末な食事と過酷な労働から157名が病に倒れ33名が病死。
52名が自害という抗議を示した。   

幕府への憤りが戊辰戦争の原動力一要素になっていたと著者は見ている。


● 草や木のなびくがごとく平定し
錦旗を立てての進軍で西日本各藩はあっというまに帰順。
いづれの藩も財政逼迫した財政事情や地の利から、天朝に領地を差し上げたほうが得策との判断も生まれている。


● 東征旗 東海、中山、北陸道
西軍は三街道から江戸を目指す。
中山道からは甲府と碓氷峠越えの二手に分かれる。
戊辰戦争の戦場は東海道、信越、北海道と日本の半分を超えた。
両軍の戦死者7000人超。

戦死者は7300人とされるが幕府方の脱兵は勘定に入っておらず1万人を超すと著者。
政府軍 12万 旧幕府方 5万 で17万が参戦。
日清戦争 12万、戦死者7000人とされるから規模が大きかったことがわかる。

● 慶喜は勝てる戦も一目散
慶喜の嫌いな所、その一は、彼を慕って長征した水戸天狗党への苛烈な処分を容認したこと。
その二は、戊辰戦争時、の敵前逃亡。
幕軍の最高司令官たる位置にありながら、全軍の将兵を置き去りにして江戸へ逃げ帰ったのは、理屈を越えて一軍の将たる名に価しない行為だ。
「海舟日記」によって当時のことを再現してみると

(正月)十一日。開陽艦、品川へ錨を投ず。
使いありて、払暁(十二日)、浜海軍所へ出張、御東帰之事。
 初て伏見之顛末を聞く、会津侯、桑名候ともに御供中にあり、其詳説を問はむとすれども、諸官唯青色、互に目を以てし、敢て口を開く者無し。
板倉閣老を附て、其荒増を聞くことを得たり。
従是して日々空議と激論と、唯日を空敷くする而巳、敢て定論を聞かず。

将軍東帰という敵前逃亡で、江戸城内が紛糾するのは当然と思う。

当時、慶喜はフランスからブリューネらを軍事教官を招いていた。
かれらフランス軍事顧問団は西軍・新政府から日本からの退去を命令されたが、あえて残留を選択し、フランス軍籍を離脱。
榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流し、箱館戦争に従軍した。
函館戦争中の日仏軍人8人の写真から起こした見事なノンフィクションが手元にある。
鈴木明著「追跡-一枚の幕末写真」(集英社文庫)
これは函館戦争への優れた迫真ルポとなっている。

私は徳川将軍のなかで綱吉こと犬公方も嫌いだが、江戸最後の将軍慶喜も好きにはなれない。


● 恭順の君主を討つなら討ってみな

戊辰戦争では勝と西郷の無血開城の話がよく口にされる。
しかし恭順の意を表している幕府討伐へ英公使パークスは激怒、新政府の話なども聞いていないため「討ってみよ。英は黙ってはいない」とした。
パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の慶喜に対して攻撃することは万国公法に反すると激昂した。

こうした話は意外に表舞台には、伝わってこない。
無血開城にどれだけの影響を与えたかその細部はわからないが、西郷側が強硬派だった板垣や京都の公卿たちに意とするところを伝え政策転換を図ったことは事実らしい。
この本では戊辰戦争を闘った側のそれぞれの個人日誌や藩の記録からその概観を辿っているから臨場感が生まれていて面白い。

● 海上で制覇握った幕府軍
江戸を目指す西軍へ駿河湾から幕府側艦隊が一斉に艦砲射撃を浴びせる。
同時に箱根、碓氷、小仏の関所から幕府軍が挟み撃ちにして西軍を袋のネズミとする。
こうした戦略は小栗などが練っていてこれを後に知った西軍の総参謀を務めた大村益次郎などの心胆を寒からしめた。
このことは司馬遼「花神」ほか多くの作家の筆になっている素材だ。

主力艦開陽丸には35門の大砲があり、世界トップクラスの軍艦となっていた。
榎本は江戸城明け渡しの朝、無傷の幕府艦隊を新政府に引き渡すことを拒み、館山に脱走、その後函館に向かっていく。
開陽丸、ほか艦隊は8隻 乗員だけで3500人といわれた。
榎本らは旧幕臣20万人の生計の場として北海道で共和国構想を描きつつ函館戦争を戦った。

● 不忍の池の前から新大砲
上野戦争。
彰義隊も奮戦したが池の前から放たれたアームストロング砲で壊滅となった。
其の頃、大鳥圭介軍は会津から日光、今市を経て関東新政府軍の背後を衝き、彰義隊と挟撃をとるはずだったが、挫折。

● 剛直に 会津、長岡、二本松
今回の東日本大震災で被災した二本松では、その時、13歳のこどもまでが参戦した。
会津では15、16歳で組んだ白虎隊や城下の婦女子までが総ぐるみで戦い、長岡藩も中立の立場を訴えたが聞き入れられず全藩をあげて戦った。
江戸での市中警護にあたりゲリラ活動に奔る薩摩藩の狼藉を取り締まっていた庄内藩も戦った。この藩は異常な強さを見せたそうだ。


奥羽越列藩同盟は、京都守護職だった会津藩主の処分と、江戸薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩の追討令に端を発し、東北・北陸の31藩が同盟を結んだものである。
列藩同盟を組んだ諸藩は東北の広さで情報伝達も上手くいかなかったこともあったろうが、時の勢いに押されその後、多くは日和見主義をきめこんだ。

会津23万石が、維新後、 斗南藩3万石として北涯の地に藩をあげての流罪処分を受けたことにも胸が痛む。
旧藩士と家族1万7000人余りがそこに移住したが、廃藩置県がなければ死に絶えたとも言われる苛烈な生き様があった。
「ある明治人の記録-柴五郎大将の遺書」石光真人編 中公新書
を読んだことを思い出す。

海岸に流れ着いた昆布わかめを木屑のように細かく裂いて、これを粥に炊く。
冬には蕨の根を砕き晒してつくる澱粉を、丸めて串に刺し火にあぶって食べる。これも不味い。
拾ってきた犬の肉を毎日食べる。
ついに喉を通らづ吐き気を催すと「武士の子たるを忘れしか。戦場にありて兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰らいて戦うものぞ。
ことは今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。

「会津の武士ども餓死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑われるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」

と父に諭された柴五郎。



戊辰戦争は終わった。
各藩とも戊辰戦役の戦費負担は重く、全体の藩の三分の2は破産寸前の状態となった。
結局、上士と下士の主従関係に亀裂は深まり、武士の身分制度全体が解体に向かうきっかけにもなったようだ。
明治初期、各地に一揆が澎湃として起こっている。

西南の役が起こる明治10年頃まで騒乱は続き、歴史はまだまだ江戸幕末の残影を重くひきずっていたようだ。

田原坂の戦いは1877年三月4日~20日。
9月24日 西郷隆盛51歳は城山にて戦死



雨は降る降る 陣羽は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年

山に屍 川に血流る
肥薩の天地 秋にさびし

草を褥に 夢やいずこ
明けのみ空に 日の御旗


どうせ死ぬなら 桜の下よ
死なば屍(かばね)に 花が散る

田原坂なら むかしが恋し
男同士の 夢の跡

春は桜よ 秋ならもみじ
夢も田原の 草枕




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