ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【渋沢栄一 「論語」の読み方】 竹内 均 三笠書房

2007年10月05日 | 2007 読後の独語
【渋沢栄一 「論語」の読み方】竹内 均 三笠書房 

 ある作家の書棚にボロボロになった文庫本「論語」があったそうだ。
 ぼろぼろになるまで読んで使い古した本というわけではなく、「この書かれた内容、時代に合わず」と下宿の壁に何回かたたきつけた本であったらしい。
しかし、再び手にとって読んで見ると論語文意の含蓄がよくわかるようになってまた読み返したという。
この作家が誰であったかは忘れた。
 一昔前の自民党政治家がよく「禅譲」とか「鼎の軽重」などのことばを使っては周りを煙に巻いていたことを思い出す。
 こうした言葉も論語にあるようだが、生臭い輩の「論語読みの論語知らず」という言葉も昔はよく使われた。
 私など「論語」は、高校の漢文で少しだけ齧ったた程度で、そのなんたるかはいまだにわからないままとうとうリタイアの歳となった。
 ただ渋沢栄一の『論語と算盤』には、以前から強い関心はあった。
 道徳と経済の一致を追求したといわれるこの実業家の生きかたの中心に「論語」があったという点は興味深い。  維新の功業をなした群像と共に同時代を生き、彼らを「論語」鑑識眼をもってどう接したが解って面白かった。

子曰、君子不器。(子曰ワク、君子ハ器ナラズ)
 渋沢があまり好きではなかった人物は大久保利通だったらしい。
 当時の大蔵大臣が大久保でありその威望天下を圧していた。
渋沢も太政官から召状を受け大蔵省理財局に勤めていた。
 渋沢は次官的立場から大久保とも「侃々諤々」の議論をしたと本にある。
 「大久保利通侯は余の嫌いな人で、余はひどく侯に嫌われたが、余は侯の日常を見るごとに、器ならずとは侯のごとき人をいうものであろうと、感嘆の情を禁じえなかったのである」
 「仁半分に不仁半分。江藤の梟首は酷に過ぎる」
ということばも紹介している。
器といえば勝海舟に対しては 「器に近いが「器ならず」とまではいかなかった」の人物評を残した。
一方、ベタ褒めの人は西郷さんである。
 「賢愚を超越した将に将たる君子の趣があった」とし実学を旨とし大言を嫌った人と伝えている。  また陰徳の人で「人によくなつかれて慕われた。決して自ら功を誇ることはなかった」
としたが
「仁愛に過ぎて過ちを犯した」と西南戦争で担がれ城山の露と消えた点を批判もしている。
渋沢は徳川慶喜に仕え、薩長嫌いの出身地と思われるが薩摩の西郷をきわめて評価しているのは身近な観察からの実感なのであろうか。
西郷という人、私などにはわからない点が多い。
 これだけ声望のある人の写真がなぜ一枚もが残っていないのかも謎だ。
 私はかって新聞社の資料を扱う部署にいたことがあるが、西郷の写真は「西郷と言われている写真」というものが一枚だけキャビネットにあり、しかもその写真は群像の中に写っている部分をコピーしたもので断り書き付きで昭和30年代の紙面に一度だけ紹介されていただけと記憶している。  
また戊辰戦争の口火となった御用盗のゲリラ活動の総指揮が西郷であったことは多くの作家が指摘している。  
そこで活躍した相楽総三、伊牟田田尚平、益満休之助らがその後の表舞台に名を残すことなく非業の死を遂げている点を思うと、大政治家で大謀略も辞さないスケールは感じるがなぜこの御仁をして「君子の趣」なのかが不明。
 しかし、こちらは活字で知るだけで渋沢はその西郷の素顔も活躍も知っていたわけだから、あちらのほうが強い説得性がある。  
西郷の弟、従道も「言葉少なくよく他人の話を聴いて」「よか頼む」タイプの人だったらしい。
明治維新から昭和維新に舞台が移って2・26事件に登場する大将クラスには「よか頼む」のことばを換骨奪胎して引継ぎ、好んで使う軍人も多かったらしい。
もう一人、好評の人がいる。
 「桂小五郎」の名で知られた木戸孝允。
 この人は、「よく言い、よく行う人」でしかも「自説を固辞せず耳を傾ける」度量があった人だったらしい。
「下問を恥じない度量の第一は木戸」とし「高官みずから一小役人の私の湯島天神下の住まいまでわざわざ訪ねて来たことがあった」とその思い出も語っている。
人事登用の意見を求めての来訪だったとのこと。
 少しマイナス評価の人物像を並べると
 三条実美には「外柔内剛で仁愛の人、やや無定見。」
 伊藤博文は「よく言い、よく行う人。下問を恥じないという徳はなかった。(だが)記憶力は非凡で信義を重んじ文事の素養も深かったが、行動のある点では欠けるところがあった」
 大隈重信は「よく言うが、すべて行う人でもない。雄弁家には違いないが、その言ったことをすべて実行したわけではない。人の言を聴くより、人に自分の言を聴かせる」 として、後の政治家の一面の顔を捉えた。 だが渋沢はこの大隈にスカウトされて大蔵省に入省している。
生涯の大隈との交友について
「明治2年からの交際。彼の死去まで52年間の友好、共に敬意を欠くことがなかった」と友情の濃さを語った。
 自分が仕えた主君・徳川慶喜には
「恭にして安。真正の君子人。大政奉還で巨道にかなうべき挙」
と評価。 
 しかし、慶喜を頼った水戸天狗党を敦賀の鰊倉庫につなぎ斬罪させたり、鳥羽伏見の戦いでは真っ先に江戸城へ逃げ帰り小栗上野介などから責められたり、言動豹変し勝海舟を西軍交渉で困らせたり、静岡の地では自転車に初乗りするなどの極楽トンボぶりを見せたりで「真性の君子人」であったのか、どうか。
 主君だから点数が少し甘いような印象も残る。
 このほか井上馨から藤田小四郎(天狗党)、江藤新平、近藤勇などを鑑別していて楽しかった。

東京の桜の名所・飛鳥山に渋沢記念館がある。
ここの学芸員の方々に渋沢翁の一生を明治、大正、昭和の新聞記事からピックアップして、紹介したことがある。
 昭和6年11月11日に91歳で渋沢翁は黄泉に旅立っている。

 この本の編著が太縁眼鏡でテレビにも活躍していた科学雑誌ニュートンの編集長の竹内均さんというのが意外な感じがした。
 予見、予断なく渋沢の論語算盤を伝えてくれたので読みやすくいろいろ啓発を受けた。                       (2007年 10月4日 記)


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