ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【悪党芭蕉】嵐山 光三郎 新潮社

2007年12月28日 | 2007 読後の独語
【悪党芭蕉】嵐山 光三郎 新潮社

芭蕉のことをとりあげて書いた作家や俳人の数は数知れない。
 ほとんどの人が芭蕉を俳聖として認めた上でとりあげている。
 私も翁は偉大な人と敬服している。
私の住んでいる杉戸にも翁の句碑はあり、全国いたるところに同様の句碑が残っていて、この人がまぎれもない俳聖であることが示されている。
「奥の細道」を歩くのに 芭蕉と曾良は、半年余りをかけたが、この「細道」紀行文は四百字詰め原稿用紙にすればわずか40枚といわれている。
 「細道」は6~7回は読んだが、読後感からこんな少ない分量だったとは今でも思えない。
 たぶん、同じような感想を持たれる人は多いのではないだろうか。
 「さすが一流は違うんだなぁ」との想いは今でも強い。
 ところがこの本は偉大な「芭蕉」の上に「悪党」の冠を被せて一冊の本とした。
 芭蕉を書きあげるまでの立場を「芭蕉もひとり わたしもひとり 読者もひとり」としてこの悪党論を綴った。
 書き上げて浮かんできたものは、蕉門下の個性的で時に悪党ぶりもあった弟子たちと、その上に君臨する芭蕉の生身の姿だった。
等身大の姿が彫れて、仰ぐ銅像にはならなかった。

蕉門一門には、それぞれの顔がある。
 蕉門の古株、基角は15歳頃に入門。
この人、医者のどら息子で大酒飲み、遊里遊びが大好きで芭蕉とはまったく違う。
 「夕涼みよくぞ男に生まれける」は彼の句だが、なぜか70年代のCM「男は黙ってサッポロビール」とした言葉が重なってくる。
 基角が体験した赤穂浪士自刃の悲報に

うぐいすにこの芥子酢(からしず)は涙かな

と心境を託し追悼。弟子とされた大高源吾を詠んだのだろうか。
 ともかく、芭蕉より17歳若いこの基角抜きでの芭門全国展開はなかったようだ。
 獄中の俳人とされた凡兆という人の句にも魅かれた。
 「猿蓑」の編集で蕉門の主役になった文兆はのちに投獄を体験。
 何の罪かはわからないが身を持ち崩すような人とは思えない句が猿蓑にある。

炭竈(すみがま)に手負の猪の倒れけり    

猟師に追われた猪が、民家の竈に激突。激しい猪の吐く息が伝わってくる。
これを受けて芭蕉が「炭」を「住み」に変え

住みつかぬ旅の心や置炬燵 

とした。旅の日にあっての置炬燵は日々定住のぬくもりとは違う。
 すると基角がその炬燵を受けて

寝ごごちや炬燵布団のさめぬ内 

とガラリと情景を明るく変え、男女色ごとの世界を暗喩した。
受けて凡兆が

門前の小家もあそぶ冬至哉 

とした。
これは佳い句と思う。 師走風景にも閑有り、この日はゆず湯などで一服した商家小家が目に浮かぶ。
 また凡兆には

ながながと川一筋や雪の原 

の句もあった。俳画のような雪の静かな情感を詠った趣は到底、悪いことをして獄中に行く人とは思えない。
 このあたりの連句会の様子が実に臨場感にあふれて楽しい。
 著者嵐山の描写の巧さが際立っている。
 だが、この凡兆はやがて芭蕉から離反する。 どうも芭蕉が可愛がっていた乞食の弟子路通と反りがあわなかったようだ。
 この路通、ずいぶんの奇行の持ち主らしいが、細道行では師匠を敦賀に迎え、身の回りのを世話もしている。
 芭蕉の弟子に裏切り者、斬殺犯、獄中犯などの悪党もいるがその句の力量はいづれも並ではなかったようだ。
一方で芭蕉が最も信頼していた人に、弓馬に優れた剣術使いの向井去来もいるし、彦根藩士で槍の達人、37歳での入門した森川許六もいた。
武張った許六と基角や嵐雪とはそりが合わなかったようだ。

芭蕉も人の子、聖人君子ではない。
 連れ子がいた妾と自分の甥っ子が為さぬ仲となり出奔した。
 これを届けずに一切を伏せた。 当時の密通は死罪の刑もあり、傷心の芭蕉の負い目も危うい立場であった。
 また御領分追放の流罪にあっていた弟子の米商いの美青年杜国と禁断の旅を共にした。
 そのどちらも掟を破っている。
 露見していれば今日の芭蕉の姿はなかったろう。
 この時の杜国との紀行文が「笈の小文」であったことは著者の「芭蕉紀行」にも詳しい。

 「古池や」の句も1年前に発令された綱吉の生類憐れみの令との関連で読み取るべきと著者は指摘。
 「句は綱吉への迎合、時流に乗る天才の直感」から生まれたのであり芭蕉は「政治に敏感であるが故に、芸術至上主義を通した」とその人を解釈した。
 「芭蕉は大山師的な性格」とした芥川評もあわせて紹介しているが、芥川の場合は芭蕉の力に自らを投影した上での「大山師」だから、ホメ言葉が隠されているはずだ。
蕉門にはな多彩な才能を持った弟子が多い。
芭蕉と高弟たちの関係は「愛憎なかばするぎりぎりのところにいる」と著者は観察。
基角や文兆との関係もそうだったようだ。
やがて弟子達の四分五裂があって芭蕉一人が残ったのは、やはり、そのしたたかさ、凄さであったと著者は「あとがき」で結んだ。
 中学生の頃から芭蕉に魅せられて読んで来た嵐山も、時に愛憎にかられてその文才の深さに嫉妬したのではないか。
 「悪党」冠はその故ではと、読後に想った。
 古来「悪党」は極悪人ではないはずだ。
 楠正成も悪党呼ばわりされたが「ほめ言葉」でもあった。
「悪党」には、強い手腕への敬意がこめられている。

 「悪党芭蕉」読んで面白かった。
 だからといって、一気に読むというわけにはいかない本でもあった。 スルメ噛み噛みの具合で、途中ひっかかりながらの時間が流れた。
でもその分、読後の充実感に久々満足した。
                        (2007年 12月26日 記)




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