【日本人を元気にする ホンモノの日本語】
大岡 信 金田一 秀穂 ベスト選書
読者の私は、ひとまわり上の世代に大岡さんがいて、ひとまわり下の世代に金田一さんがいるという年格好になる。
本カバーによると、この本は現代詩の巨匠と気鋭の日本語学者の「対論」ということになっている。
或いは、大岡を師として仰ぐ弟子金田一の2日間の対話ということになるのか。
金田一の祖父は金田一京助、父は金田一春彦で著者には「日本語」を語るにふさわしい家系の血が流れている。
ジッタンが高校の時、なぜか京助さんが「石川啄木」について体育館で記念講演をしてくれたのを思い出したが、著者の秀穂についてはほとんど知ることがない。
だけど、大岡信の名前はことあるごとに社内外で聞いた。
新聞社に外報部という部署があって、そこに在籍していたことは知っていたが、1953年に入社してその社員見習い中に国際欄の解説記事を2~3本書いたというのは今の時代では考えられないことだ。
旧制第一高校時代に作家の佐野洋、日野啓三らと同人誌を作り、東大へ共に進学、卒業して相次いで読売新聞に入社した。大岡と一級上の日野は外報部に同級の佐野は社会部に属した。
3人ともその後、著名な作家になって成功している。
先輩たちはことに優秀な人材だったのだろう。
当時の読売新聞は銀座にあった。
汚れた旧社屋には新聞インクの匂いがいつもしみついていたが、大岡はここで10年間、外報部にいた。
フランス派遣要請を辞退してのち退社、明治大学教授になってその後の今日がある。
私が入社したのが1963年だからちょうどその頃、やめている勘定となる。
同じ外報部の日野さんは2002年の10月に亡くなった。
編集委員として現役記者のままその生涯を終えている。
日野はベトナム戦争ではサイゴンの前線で取材をしていた。
この帰朝報告会を労組青年部が親組合に働きかけて5階の会議室で行ったことを鮮明に思い出した。
日野さんを以後、社でもよく見かけたが、偉ぶらない記者で、マジメな人柄のように感じた。
外報部というのは現在の国際部で文字通り地球のあらゆるできごとを取材し、翻訳し、解説しているところ。
大新聞ではなくてはならない要の部署だ。
ただ当時の銀座編集局は、勢いがあって、よく声が通る社会部が全盛時代で、できる人が多いが外報部は地味な職場であったようだ。
大岡は人数の少なかった外報部にあって、見習い期間中にアルジェリア問題の解説記事を2~3本書くというすごいことをやってのけた。 記事にするということは読者に解ってもらうことであり、翻訳をするということはまさに「解る」形で伝える日本語力がなければできない。
外国の言葉を仲介して日本語を見直す日々の訓練。
そうした意味で外報部は「随分勉強になった場」と振り返っている。
対論で大野は
「日本語は美しい」と言うことを言うためには必ずどこかの国の言語と比較しなければならない。
比較したうえで、日本語は美しいとか、美しくないとか言うことになる」と指摘している。
入社以前から大岡は 文体練習の方法として「日記」をつけていたという。
大学ノート半頁くらいは一切「。」をつけず「~して」にして自分が考えたことを日本語を使って表現することを集中して練習。
また
「こうして書き写していると、生まれてはじめて批評的散文なるものを書きはじめたころの記憶がむらむらと甦ってくる。詩はそれより何年も前から書いていたが、散文は正確にこの時期から書きはじめたのだった。ほんとに大学ノートに三ページくらいずつ毎日書いて行った。そのころ、読売新聞外報部に勤めはじめていたから、夕方家に帰ると、下宿の小部屋に閉じこもって、毎夜ノートを数ページずつ埋める作業に没頭していたのである。」
とあとがきに記してある。
この研鑽と同時に日々、翻訳を通じて日本語力を磨いている。
足掛け27年新聞連載の「折々のうた」で菊池寛賞受賞という伏流水の一端がここに見てとれ た。
ただ、この本が「対論」になっていたかどうかは疑問。
二人の話の流れに山場がなく、標題の「言葉の力を取り戻せたか、日本人を元気にした」かの内容には仕上がっていない感じだ。
ただ大岡信さんの源流となる「私史」的なものが理解できたこと。
それが読後の満足感にはつながった。
余談ながら。
新聞社は銀座から大手町現社屋へ。
日野さんは亡くなったが私の知っていた外報部のその後の面々はいまどうされているだろうか。
いがぐり頭ので浪花弁で労組の場では執行部をたじたじとさせたHさん。 1973年のオイルショックのとき、彼は編集局”弱小”職場の不満票を取りまとめて編集局執行部に「異議あり」をつきつけた好漢。
野鳥の会にも姿を見せた温厚なKさん。病気で義肢となられたのは残念だったけど、明るさを失わなかった誠実な人だった。
記事DB立ち上げの時はタイ支局から呼び寄せられ、仕事の目処がついたときはロス支局長に。
戻って英字新聞へ、そこで外人記者スタッフからボスとして慕われたYさん。
みんな、卒業先輩組だ。
リタイア組に幸多かれ。
(2007年3月13日 読了)
大岡 信 金田一 秀穂 ベスト選書
読者の私は、ひとまわり上の世代に大岡さんがいて、ひとまわり下の世代に金田一さんがいるという年格好になる。
本カバーによると、この本は現代詩の巨匠と気鋭の日本語学者の「対論」ということになっている。
或いは、大岡を師として仰ぐ弟子金田一の2日間の対話ということになるのか。
金田一の祖父は金田一京助、父は金田一春彦で著者には「日本語」を語るにふさわしい家系の血が流れている。
ジッタンが高校の時、なぜか京助さんが「石川啄木」について体育館で記念講演をしてくれたのを思い出したが、著者の秀穂についてはほとんど知ることがない。
だけど、大岡信の名前はことあるごとに社内外で聞いた。
新聞社に外報部という部署があって、そこに在籍していたことは知っていたが、1953年に入社してその社員見習い中に国際欄の解説記事を2~3本書いたというのは今の時代では考えられないことだ。
旧制第一高校時代に作家の佐野洋、日野啓三らと同人誌を作り、東大へ共に進学、卒業して相次いで読売新聞に入社した。大岡と一級上の日野は外報部に同級の佐野は社会部に属した。
3人ともその後、著名な作家になって成功している。
先輩たちはことに優秀な人材だったのだろう。
当時の読売新聞は銀座にあった。
汚れた旧社屋には新聞インクの匂いがいつもしみついていたが、大岡はここで10年間、外報部にいた。
フランス派遣要請を辞退してのち退社、明治大学教授になってその後の今日がある。
私が入社したのが1963年だからちょうどその頃、やめている勘定となる。
同じ外報部の日野さんは2002年の10月に亡くなった。
編集委員として現役記者のままその生涯を終えている。
日野はベトナム戦争ではサイゴンの前線で取材をしていた。
この帰朝報告会を労組青年部が親組合に働きかけて5階の会議室で行ったことを鮮明に思い出した。
日野さんを以後、社でもよく見かけたが、偉ぶらない記者で、マジメな人柄のように感じた。
外報部というのは現在の国際部で文字通り地球のあらゆるできごとを取材し、翻訳し、解説しているところ。
大新聞ではなくてはならない要の部署だ。
ただ当時の銀座編集局は、勢いがあって、よく声が通る社会部が全盛時代で、できる人が多いが外報部は地味な職場であったようだ。
大岡は人数の少なかった外報部にあって、見習い期間中にアルジェリア問題の解説記事を2~3本書くというすごいことをやってのけた。 記事にするということは読者に解ってもらうことであり、翻訳をするということはまさに「解る」形で伝える日本語力がなければできない。
外国の言葉を仲介して日本語を見直す日々の訓練。
そうした意味で外報部は「随分勉強になった場」と振り返っている。
対論で大野は
「日本語は美しい」と言うことを言うためには必ずどこかの国の言語と比較しなければならない。
比較したうえで、日本語は美しいとか、美しくないとか言うことになる」と指摘している。
入社以前から大岡は 文体練習の方法として「日記」をつけていたという。
大学ノート半頁くらいは一切「。」をつけず「~して」にして自分が考えたことを日本語を使って表現することを集中して練習。
また
「こうして書き写していると、生まれてはじめて批評的散文なるものを書きはじめたころの記憶がむらむらと甦ってくる。詩はそれより何年も前から書いていたが、散文は正確にこの時期から書きはじめたのだった。ほんとに大学ノートに三ページくらいずつ毎日書いて行った。そのころ、読売新聞外報部に勤めはじめていたから、夕方家に帰ると、下宿の小部屋に閉じこもって、毎夜ノートを数ページずつ埋める作業に没頭していたのである。」
とあとがきに記してある。
この研鑽と同時に日々、翻訳を通じて日本語力を磨いている。
足掛け27年新聞連載の「折々のうた」で菊池寛賞受賞という伏流水の一端がここに見てとれ た。
ただ、この本が「対論」になっていたかどうかは疑問。
二人の話の流れに山場がなく、標題の「言葉の力を取り戻せたか、日本人を元気にした」かの内容には仕上がっていない感じだ。
ただ大岡信さんの源流となる「私史」的なものが理解できたこと。
それが読後の満足感にはつながった。
余談ながら。
新聞社は銀座から大手町現社屋へ。
日野さんは亡くなったが私の知っていた外報部のその後の面々はいまどうされているだろうか。
いがぐり頭ので浪花弁で労組の場では執行部をたじたじとさせたHさん。 1973年のオイルショックのとき、彼は編集局”弱小”職場の不満票を取りまとめて編集局執行部に「異議あり」をつきつけた好漢。
野鳥の会にも姿を見せた温厚なKさん。病気で義肢となられたのは残念だったけど、明るさを失わなかった誠実な人だった。
記事DB立ち上げの時はタイ支局から呼び寄せられ、仕事の目処がついたときはロス支局長に。
戻って英字新聞へ、そこで外人記者スタッフからボスとして慕われたYさん。
みんな、卒業先輩組だ。
リタイア組に幸多かれ。
(2007年3月13日 読了)
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