【名城の由来】そこで何が起きたのか 宮元 健次 光文社新書
戦国期にあって各地にいまも残っている名城。
その昔、城下町の家臣団や領民たちが日々見上げたその城の天守閣は、自分たちの一蓮托生とした証でもあった。
著者のことばを借りれば天守閣は「依り代」だった。
「依り代」は憑り代、憑代とも表記することがあるようで、神霊が依り憑くという意味であるらしい。
江戸城は中国の四神相応の地相にこだわって作られている城だそうだ。
その手本は「平安京」にまで遡るらしいが、富士山を「玄武」に見立て、南の「朱雀」に江戸湾を配置、「白虎」の方角を東海道とした。
また「仙掌格」として仙人の掌を七つの丘に見立てて、江戸城の礎としていることもはじめて知った。
この七つの丘の台地とは上野、本郷、大塚、市谷、麹町、麻布、白金の台地。
興味が湧いたのは、江戸城を中心に「の」字に、いわば渦巻き形に城下町を発展させた点だ。 これは後の金沢城もそうだったとのことだが、従来の碁盤割城下町の成長限界を見切って大きく発展させた方法だったと言う。
最も、「の」字にすれば、敵からは攻めにくい構図となる。
堀川の掘削土砂を湾口の街の拡大にあてた江戸ウォーターフロント都市型の発想もスケール感があっていい。
安土城についても教えられるものが多かった。
長篠の戦いで威力を見せた鉄砲とキリスト教とポルガトガルの築城技術は、信長の統治思想にも城縄張りにも大きな影響を与えたようだ。
鉄砲の 銃眼壁と櫓の工夫が高層の天守発展に繋がったが、天守までの吹き抜け大空間に五層の回縁を あしらったのは西欧の教会堂建築の意匠を取り入れたものだったらしい。
天守閣を天主として天下布武の象徴としていたらしいが、まったく惜しい建築物を炎上させてしまったものだ。
墨俣一夜城築城は講談話によく使われる逸話と解釈していたが史実として築城を検証していた点は面白かった。
秀吉28歳までの出自は謎で、「わたり」と称する築工の技術集団と接触して知恵を授かっていたらしいことや蜂須賀は士豪でありながら土木技術集団でもあったことが築城に大きな力を発揮していたとのこと。
大阪城創立異聞も面白く読んだ。
寺というより城に近かった頑強な石山本願寺の蓮如と信長の10年戦争終結で本願寺は、引渡し条件に諸末寺と寺領の復元を条件としたそうだ。
これが後に浄土真宗本願寺派の繁栄の基礎となった。
叡山の場合は一方的な焼き討ちとなってその後天台宗はめっきり衰退していることと見比べると違いは明確だ。
城の軍事色より山里曲輪として城内に遊興庭園を配した秀吉の聚楽第への発想、文禄の役で侵略した朝鮮の普州城を参考にした熊本城の垂直に近い急勾配の石垣「武者返し」、城下町そのものを囲い込み兵農分離せず「惣曲輪」とした天下の小田原城など、名城ガイドブックとしては申し分なかった。
著者の宮元さんは1962年生まれの作家で建築家。
東京芸大大学院美術研究科終了とあるが建築家の視点から名城を紹介している点がユニークでほかのガイド書より優っていると、読後に思った。
(2007年 3月1日 読了記)
戦国期にあって各地にいまも残っている名城。
その昔、城下町の家臣団や領民たちが日々見上げたその城の天守閣は、自分たちの一蓮托生とした証でもあった。
著者のことばを借りれば天守閣は「依り代」だった。
「依り代」は憑り代、憑代とも表記することがあるようで、神霊が依り憑くという意味であるらしい。
江戸城は中国の四神相応の地相にこだわって作られている城だそうだ。
その手本は「平安京」にまで遡るらしいが、富士山を「玄武」に見立て、南の「朱雀」に江戸湾を配置、「白虎」の方角を東海道とした。
また「仙掌格」として仙人の掌を七つの丘に見立てて、江戸城の礎としていることもはじめて知った。
この七つの丘の台地とは上野、本郷、大塚、市谷、麹町、麻布、白金の台地。
興味が湧いたのは、江戸城を中心に「の」字に、いわば渦巻き形に城下町を発展させた点だ。 これは後の金沢城もそうだったとのことだが、従来の碁盤割城下町の成長限界を見切って大きく発展させた方法だったと言う。
最も、「の」字にすれば、敵からは攻めにくい構図となる。
堀川の掘削土砂を湾口の街の拡大にあてた江戸ウォーターフロント都市型の発想もスケール感があっていい。
安土城についても教えられるものが多かった。
長篠の戦いで威力を見せた鉄砲とキリスト教とポルガトガルの築城技術は、信長の統治思想にも城縄張りにも大きな影響を与えたようだ。
鉄砲の 銃眼壁と櫓の工夫が高層の天守発展に繋がったが、天守までの吹き抜け大空間に五層の回縁を あしらったのは西欧の教会堂建築の意匠を取り入れたものだったらしい。
天守閣を天主として天下布武の象徴としていたらしいが、まったく惜しい建築物を炎上させてしまったものだ。
墨俣一夜城築城は講談話によく使われる逸話と解釈していたが史実として築城を検証していた点は面白かった。
秀吉28歳までの出自は謎で、「わたり」と称する築工の技術集団と接触して知恵を授かっていたらしいことや蜂須賀は士豪でありながら土木技術集団でもあったことが築城に大きな力を発揮していたとのこと。
大阪城創立異聞も面白く読んだ。
寺というより城に近かった頑強な石山本願寺の蓮如と信長の10年戦争終結で本願寺は、引渡し条件に諸末寺と寺領の復元を条件としたそうだ。
これが後に浄土真宗本願寺派の繁栄の基礎となった。
叡山の場合は一方的な焼き討ちとなってその後天台宗はめっきり衰退していることと見比べると違いは明確だ。
城の軍事色より山里曲輪として城内に遊興庭園を配した秀吉の聚楽第への発想、文禄の役で侵略した朝鮮の普州城を参考にした熊本城の垂直に近い急勾配の石垣「武者返し」、城下町そのものを囲い込み兵農分離せず「惣曲輪」とした天下の小田原城など、名城ガイドブックとしては申し分なかった。
著者の宮元さんは1962年生まれの作家で建築家。
東京芸大大学院美術研究科終了とあるが建築家の視点から名城を紹介している点がユニークでほかのガイド書より優っていると、読後に思った。
(2007年 3月1日 読了記)
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