ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔12 七五の読後〕 【歌謡曲春夏秋冬】 阿久 悠 河出文庫

2012年07月09日 | 〔12 七五の読後〕
【文楽(ぶんがく)―歌謡曲春夏秋冬】阿久 悠 河出文庫
昭和30~34年が阿久 悠の大学生活にあたる時期だから、「有楽町で逢いましょう」はその頃に聞いていたわけだ。
私は七つ違いの中学生だったから、「有楽町」という響きにまだ知らぬ東京への憧れを感じていた。


● 散るという桜の重さと戦争と
阿久 悠の幼少時代と「みごと散りましょう」の「同期の桜」の歌が重なっている。
散るさくら 残るさくらも散る桜
櫻が悲しく重い。

● 赤いリンゴに青い空 B29はもう飛ばず
昭和21年1月発売、当時8歳の阿久 悠。2歳の私。
玉音放送が流れた1か月後、戦後初の映画「そよかぜ」が封切られた。そのヒロイン並木路子が歌ッたのが「りんごの唄」。
戦後歌謡曲の第一号として大ヒット。大人もこどもも皆が口ずさんだ。

● 電話でも口の動きは隠してた
阿久 悠は「電話」というエッセーで次のように語っている。

「街を歩く。ふと気がつくと、半分ぐらいの人が携帯電話を耳にあて、歩いている。歩きながら話さなければならないような緊急の用件が、そんなに通常的にあるものであろうか?と僕は不思議に思う。

僕には、電話とは緊急のためのものという考えが強く居座っている。さらに僕にとっては、電話の会話は秘め事でる。他人に聞かせるものでもないし、出来れば電話をかけている姿も見られたくない。電話ボックスというのは、そもそも電話をかける人に密室感覚や安心感を与えるためにあったと思っている。

電話の呼び出しで幸福が伝えられるということはまずなく、それは深夜の電報ほどでないにしていも、結構不安にさせるものであった。それは今もって変わらない。

若者よ、自由を欲するなら、まず電話を手放せ!僕らは、逢って、語って、別れてから、その次に逢うまでの時間は、完全な祈りであった。
心変わりの心配も、祈るしかない。それが恋愛であろう。
24時間電話を掛けつづけ、完全に相手の行動を把握しようとする心に、恋愛はたぶん芽生えない。
電話を悪役にするつもりはないが、人間はもっと人間らしさを恋しがり、人間を主張する必要はあるだろう。」




最近は稀にはなったが、群れのど真ん中で大声のケータイとはわけが違う。
そこに、ぬくもりはない。


● ご三家は 股旅、マドロス、花売り娘
昭和20年代の「流行歌」ご三家はマドロス 股旅 花売り娘だった。

なかでも股旅の歌は戦争と終戦を跨いで歌われた。
「妻恋道中」「名月赤城山」などにそれぞれの想いが託された。
昭和35年 角刈り着流しの少年の歌が戦後の股旅となった。
「潮来の伊太郎」は全国で歌われた。

最近、橋幸雄の姿をテレビで見ないが、どうしているのだろう。

● 街灯のもとで手紙を読む姿
切なさ こういう時代もあった。
第二国道は夜霧に濡れ、羽田の最終便は7時50分でもあった時代。



● 頼むよと叩けば動く扇風機
ラジオも扇風機も叩くと鳴り出し動き出すことは体験している。
真空管を用いていた時代は、接続口の接触不良が多かった。
だから叩いてショックを与えると治る事が多かった。遠い時代とはなった。


● 股旅は去ってロカビリーの風が吹き
昭和30年 マンボ流行
昭和31年 プレスリー歌 上陸
昭和33年 ロカビリー旋風
昭和35年 ツイスト

● 銀座にもあった小さな名画館
名画座が銀座社屋の近くにあった。
座席は100に満たない。
「並木座」という名前だった。
銀一というパチンコ屋の横を曲がった所で、奥に三州屋という居酒屋があって、夕刊が終わって、どちらにもよく行った。

● あれは八月熱い夜 すねて十九を越えた頃
強烈な歌詞だ。
北原ミレイがデビュー『ざんげの値打ちもない』。
阿久 悠は「殺し」を歌に盛り込んだ。
タブーを破った非常識。そのすごさ。
北原の声もよかった。


あれは二月の寒い夜  やっと十四になった頃
窓にちらちら雪が降り 部屋はひえびえ暗かった
愛というのじゃないけれど 私は抱かれてみたかった

あれは五月の雨の夜 今日で十五と云う時に
安い指輪を贈られて 花を一輪かざられて
愛と云うのじゃないけれど 私は捧げてみたかった

あれは八月暑い夜 すねて十九を越えた頃
細いナイフを光らせて にくい男を待っていた
愛と云うのじゃないけれど 私は捨てられつらかった


阿久 悠とは言葉の紡ぎ方が上手い人だと思った。




● 流行歌 非論理性だ 低俗だ
「花笠道中」美空ひばりが歌ってヒットした。
その歌詞。

これこれ 石の地蔵さん
西へ行くのは こっちかえ
だまって居ては 判らない
ぽっかり浮かんだ 白い雲
何やらさみしい 旅の空
いとし殿御の こころの中(うち)は
雲におききと 言うのかえ

落語家までがこれに難癖をつけた。
「これこれ石の地蔵さん」地蔵は石ときまってらあ。


阿久は
「煙草ふかして口笛吹いて」は悪意の比喩と次のように言う。


「歌謡曲といおうか、流行歌といおうか、とにかく歌の詞はくだらないという人がいっぱいいる。
 何がくだらないかたずねてみると、こういう答えが返ってくるのだ。
 低劣。支離滅裂。非論理性。無益。そして、彼らが、必ず例題として迫ってくるのが、「パイプくわえて口笛吹いて」という歌詞なのである。
パイプをくわえながら、どうして口笛が吹けるのだ。こういうことを平気で書くのが歌謡曲なのだ。実にくだらん、と、こうなるのである。
 そして、その人たちは、いまだに歌詞というものは、そういうものだと思いこんでいるのである。
逆にいえば、数万曲だか数十万曲の中で、テキがつっこみ得る材料は、それしかないということもできるのだ。実に立派なものではないか。」

 「日本人のつまらなさ、余裕のなさはというのは、実は、この“パイプくわえて”を許さない精神ではないかと思っている。
 低劣。支離滅裂。非論理性。無益。ということも、心の持ち方次第では、
 大衆性。飛躍。超論理性。無害、こうも書けるのである。楽しむことの苦手な人々に、ショックを与えてやるのも、これからも作詞家の任務ではないかと思う。」 
(阿久悠「作詞入門」(岩波現代文庫、)



煙草といえば、それに寛容な新聞社の時代もあった。
編集局の各机下にあった茶色の紙くず入れの広口缶に煙草の灰も一緒に捨てられていた。
やがて移った大手町の社内で「嫌煙権」が広まり、廊下のはずれで檻の中のようで吸っているになった。

●熱燗がぬるめの燗になる酒場
「おねえさん もう一本っ」煙草の煙の中に男たちが集う酒場は、すべてが熱燗という時代。
それまでの歌のイメージにも、ぐゐぐゐと飲む熱燗があった。
それで仕事での嫌なことも冷えた心も癒された。

それがスルメとぬるめの燗になった

「駅」の映画はよかった。
高倉健もよかったし流れた「舟歌」も絶品。
歌詞は阿久 悠。

酒は、騒ぐのか
、泣くのか、静まるのかと阿久は問う。

● 人間に踏絵を強いた電算機
それが平成の出発だった。
パソコンができるか、できないか。

新聞社に記者ワープロが入ってきた当時、年輩の記者は、ちびた鉛筆でザラ紙での原稿用紙に向かった。
できなければ今のままでのやり方でいいんだよ、と会社は優しかったが、あっというまに記者ワープロは広がり定着した。

どこかに踏絵の要素もあったか。

● 上野から青森までは一跨ぎ
新幹線よりジェット機よりも早い。
阿久は上野から津軽までたった二行で表現した。
曲が先にできた「津軽海峡冬景色」
連絡線で降りた女には 「さよならあなた 私は帰ります」もう男のところに戻らない強さがある。
北の宿でも「女心の未練でしょう」と言い切る。
「未練でしょうか」とは言っていない、したたかさがある。
時代を捉えた作詞の上手さだ。

阿久は情事の朝のホテルで窓辺に立つ女を想像する。
女がどっちを向いているか。女の向きを考えることが作家の女性観だということも本書で指摘していた。

解説の藤田宣永は「詩を大切に扱いながらも、軽みを否定しないところが阿久の深みと私は解している」と結んだ。
同感。






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