ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔12 七五の読後〕 【囲碁心理の謎を解く】 林 道義 文芸春秋

2012年02月26日 | 〔12 七五の読後〕
囲碁心理の謎を解く 林 道義 文芸春秋
 著者は囲碁暦45年のアマ六段。東京女子大の文理学部教授で深層心理が専門。「囲碁の文化と歴史」という科目を新設し、教えている人。
棋士の深層心理にはあまり興味は湧かなかったが、日本囲碁の歴史をたどりながら、囲碁川柳の謎解きなどを示してくれた点はたいへん有益なものとなった。


■■ 囲碁史

●律令のまえに囲碁もやってきた
囲碁が日本に伝来した時期については今のところはっきりはしない。
囲碁の伝承は4~5世紀頃にはじまり7~8世紀に貴族の間で広まったらしい。
636年に記された隋書の「倭国伝」には日本人が囲碁を好むことや、701年「大宝律令」や「僧尼令」等にも囲碁のことが記されているから、その以前からであるらしい。

この倭国伝には隋から見た当時のわがニッポンが描かれていて非常に興味がそそられた。

『隋書』 倭国伝
■■
毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂?○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以?葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相者即為婚。婦入夫家、必先跨犬〔2〕、乃與夫相見。婦人不淫。



 毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。
囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。
気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。
小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。
 俗では盆や膳はなく、葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。
性質は素直、雅風である。
女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。
妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。
婦人は淫行や嫉妬をしない。

● 黒石をゴクンと吞んで持碁とし
江戸時代に記された「阿倍仲麻呂入唐記」に吉備真備が唐人と対局した場面が書かれており、真備が黒石を吞んで勝負をひきわけに持ち込んだらしい。
当時は戦と同じで盤上での謀計、奸計もよく用いられたとのこと。
仲麻呂は第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学。
同期の留学生にこの吉備真備や玄がいた。


★ 先ず碁笥を引っ張りあふも礼儀也
だが礼儀作法も定着し始める。
互角同士の対戦。
「私の方が黒で・・いや、貴方の方が強いから私の方こそ黒で」となる。
ところが古代ではこれが逆だったようだ。
中国では黒は高位の色を示していた。
だから上手が黒石。
位差の低いほうが白をとって謙譲の意を示したらしい。

● 古代人 上手がくろで下手しろ
室町期あたりから黒石が下手となった。
囲碁が武士にまで定着しはじめてきた日本式囲碁にもはや中国色にさほどの気遣いは無用となったらしい。


● 勢いを重く見ていた平安碁
鎌倉期「囲碁式」文献に残っているものを精査すると古代人は対局で盤面の星などの勢力を戦略上重視していたそうだ。
「初手は星に。星より下は寂しげだ」などとの記録が残っているらしい。
室町期に入ると実利主義に転換し、江戸期になると小目や隅を重視するようになった。
ただ江戸期にも高目の勢力を重視した丈和や目外しを得意とした秀和の力碁はあった。
昭和になって改めて星、天元の価値が発見された。
武宮宇宙流は平安期にあればもてはやされたろう。

● 慰めは囲碁に双六、物語
清少納言が枕草子に書いている。
「第133段 つれづれなぐさむもの。碁・双六。物語。三つ四つの稚児の、ものをかしういふ。」碁が筆頭だ。
第201段 「遊びわざは、小弓。碁。さま悪しけれど、鞠もおかし。」
少納言というひとはおきゃんで才気活発、囲碁は陽気な乱戦好きだったらしい。

● 源氏には碁好きな女房登場し
といっても源氏物語は未読。情趣細やかな女官同士の対局も描かれているそうだ。
当時、初段以上はあまりいない段位のなかで紫式部は初段をとっていた腕前。
清少納言よりは強かった?

● あのふたり結(ケチ)のあたりと女官言い
平安期、終盤のヨセは結(けち)といったらしい。
ヨセが終われば双方の囲碁はできあがるわけで、男女間にそれを見立てていたと邪推し詠んでみたがどうか。
「おしこぼち」ということばもあって、一局を打ち終わって碁石をくずして片付ける様を言った。
その二人が結からおしこぼちという離縁になったかどうかは定かではない。
古代用語では
「手許し」というのは、こちらが上手で相手に何子か石を置かせて打つこと
「手受け」とは逆で置いて打つこと
とのこと。

● 囲碁式は頼朝薨去の年にでき
1199年碁を打つときの心得について書かれてた「囲碁式」が名人玄尊によって編まれた。
この年は頼朝が死んだ年だ。頼朝、享年53歳。
これにて囲碁は貴族から僧侶、武家の間に広がりを見せた。


ただこの囲碁式は今まで誰も現代語訳を試みたことがなかったそうで、それに著者は挑んだ。
囲碁史の大きな変遷が辿られて文化史的な問題も提供したところにこの本の真骨頂がある。
先述した先番が白から黒に転換した点の推理、「尖」を「コスミ」 と、「持」を「セキ」と、「門」を「ゲタ」とか「ハカス」となぜ読むかといった用語の謎も解明している。
すごい。


● 真田家や信玄などは打ち手也
武田信玄や真田昌幸が打ったと言われる碁の棋譜は現在も残っているらしい。

著者が、たくさん謎解きをしてくれた多くの江戸川柳から好きなものを選んだ。

★ 縄付きのそばで碁を打つ自身番
縄付きよりもこの勝負一大事

★ 己が身の朽るも知らず番所の碁
まさか罪人が囲碁をやるわけにもいかなかろうが、番所の役人同士が打ち碁に夢中で、傍で見ていた罪人はもっとのめりこみ、「自分の身が朽ちるのも忘れるほどだ」ということらしい。


★ 地をとらば武士の打つ手も百姓碁
地合いが勝負の囲碁。
夢中になればその手つきも変る。

★ 月代にかゆみが来るとまけになり
頭ポリポリと掻くと、その一手の失着を自ら認める構図は今と変らない。

★ 川留めの碁石ぼちぼち雨の音

★ 手を碁笥の蓋にして居て乳母を呼ぶ
「おーい 赤ん坊をそっちへやってくれ」

★ 殿よりも一目強イ国家老
いちもくというところに殿との力関係が透けて見える

★ がん首をくはえてごばんねめて居る

★ 碁で小判かちし咄はげびてみえ
賭け将棋、賭け碁はあったのだ

★ 蚊は迯げて月代たたく碁友達
熱中してるから蚊がとまって悪さをしていても気づかない。

公民館囲碁でも似たようなことが起きる。「なんだか暗いな、暗いな」と
みんなで言いながら碁に熱中、灯りをつければ事は解決するのだが・・・。
だれかが点灯すると我に返って異口同音に「あっ、こんなに明るかったんだ。」

★ 伊勢の留守 初手壱番のおっかなさ
これは番外編。
伊勢参りの亭主留守中にあって誰と一番申し合わせたか。
なぜおっかないか。
末摘花に「抜けぬぞと女房をおどし伊せへ立ち」の破礼句がある。





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