ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕【江戸の高利貸】 北原 進 吉川弘文館

2009年08月28日 | 〔09 七五の読後〕
【江戸の高利貸】 北原 進 吉川弘文館

武士の懐具合は豊かではなかったが、定期的な俸禄制のため安定はしていた。
ここに高利貸と共生できる条件が生まれた。

● 駒形のしち看板が風に揺れ
江戸の質屋の看板は「しち」と書いた駒の形をしていたとのこと。
将棋の駒は、相手陣地に入ればひっくり返って金になる。
しちやの店内に入れば「金になる」からと江戸っ子は洒落たようだ。

● サンピンとぬしらに呼ばれるいわれ無し
江戸時代で最も禄高が低い武士は三俵一人扶持。
給金は、わずか年三両。
ほかに食い扶持として一日五合(一人扶持)のコメをもらったという御家人武士。
一年間で米俵三俵なのだから、その内実は苦しかろう。 内職や質屋通いもあったろう。
このサンと一をとってサンピンと町人は嘲った。
しかし、この給与比較でみれば奥方女中、医師、茶坊主、絵師たちの年収も表向きは、 三両一分と同等だったようだ。

古典落語の中で「お前はサイコロなら四六の裏だ。サンピンだ」 と酔って悪態をつき田舎侍に結局は斬られてしまう噺を思い出した。
柳家小さんの「首提灯」。絶品だった。

★ カネの脇差だて 質屋くどいてる /川柳
武士は食わねど高楊枝という古いことばがあった。
渇しても盗泉の水を飲まずと サムライの品位高潔を誇ったことばらしいが、その実、武士の生活は苦しかった。
「切腹のためにお庭を拝借したい」としていくばくかの金銀を旗本から得ようとする窮迫の侍の刀が実は竹光だった。このことを題材にした名作映画「切腹」のシーンが浮かんだ。
この川柳の方は、身共のは竹光ではないぞ。
たとえ赤鰯になった錆付きの脇差でも金には違いないから、これでなんとかしてくれと質屋になきついている武士をとりあげた。

刀、脇差 は10か月限り 
衣類は6ヶ月 
銭100文 1ヶ月3文づつの利息で年利36%
金2両では金一分につき1か月銀3分5厘 年利 28%
金10両 金一分につき1か月銀3分  年利 24%

こうした数字が本文にあったが、現在のサラ金と比べてどうなのか。借りたことがないからその実感が湧かない。

★ 座頭のを借りて座頭の鳴りを止め /川柳
借金を払わない御家人や貧乏旗本の家の前で座頭たちが一斉に鳴り物でその非を鳴らす。
目立って、外聞も憚れるから慌てて借金を返すのだが、この元手資金もほかの座頭からのものという川柳だ。
時の権力も座頭や後家さんや一部浪人の生活の生業として町キン業を認めていたようだ。

● 知行米 金子に換えての江戸暮らし
武士には旗本と御家人があった。
旗本は徳川将軍家直属の家臣団にあって、石高は200石以上1万石未満。将軍への御目見えが適う連中を指す。
御家人では、将軍拝謁は許されない。
享保7年(1722年)時点での調べによると旗本は5200名。
御目見以下の御家人を含めるとその数、1万7000人を数えたという。
これらの武士群にその家臣を含めると8万人の数になり、これを通称「旗本八万騎」と称したようだ。
旗本の9割は500石以下である。
給与の形態から見れば、武士の約4割の旗本が知行取り。 旗本は知行地を治めそこから44%の年貢を取れる。
この旗本領は関東地方が80%を占めた。

私が住んでいる杉戸町でも3人の旗本領があり、隣の宮代の場合は、宝暦13年(1763)頃、一橋家、佐倉藩の領地が分村してあったことを地方文書などで学んだ。

200石取りの旗本であれば、120石は農民に旗本には80石が手に入るが、実際に食べる分だけを納入させて、残りはカネに換させて金納させた。
天候不順で米が充分とれなかった場合でも年貢の取立てはきびしい。猶予はさせない。
村が借金して先納 → 江戸商人 → 旗本との間で決済という構図が生まれたらしい。
御家人のほうには玄米が直接支給された。これを蔵米取りとした。
武士の基本給は戦国の世の先祖の功により、家に対して支給される「家禄」、出世しての職務給的な「 職禄」、あとは「扶持米」となる。
この定期性が、武士と高利貸との持ちつ持たれつの関係が生まれる由縁になったようだ。

● 贅沢が武士経済を包み込み
武士に昇給制度はない。
だが商品経済の流れは時代の流れでもあった。
米による定額年収と日常出費のアンバランスを埋めようとする時、その穴埋めとして高利貸しが出番となる。

今世酒食の奢り、菓子の好味、山海を尽くして、譬えば一人前一度の料理の価、米ニ三俵にいたり、四五俵にも当るなり。菓子一つの価、米一升またはニ三升にも当る品あり。すべて酒を給べるには、是非とも吸物・取肴など用ひて、町家裏店住居などいへる下郎にても、冷飯にては食べぬ事なり。 (世事見聞録)

著書にたびたび引用されている「世事見聞録」は男子26人・女子27人の子を儲けた大御所政治家・家斉時代に書かれた七巻の風俗随筆集。
だがこの著者の武陽隠士という人は、生没年不詳で謎に包まれている。

● 江戸城の中の口にてお貼り紙
蔵米の支給が近づくと江戸城内に貼紙が出る。
江戸市中の米価が参照され、米と金の支給割合「三分一金渡し、三分ニ米渡し、百俵ニ付三八両」などの文言が表示された。
150俵受取る予定の御家人ならば50俵分を現金一九両で受取り、残りを米で支給された。

● 蔵前も本所もその日は湯気がたち
全国各地からの年貢米が隅田川から陸揚げされた。
 浅草橋の北側に8つの堀割があって、年貢米は到着の順番に陸揚げされ、収蔵には 浅草御蔵(蔵前)と本所御蔵が使われた。
当初、武士も支給日の切米手形を持って蔵前に出かけた。
順番の差し札が渡されコメを受取り現金に変える。
ところが現場は米問屋、仲買人、行き交う車、船持ち、運送人でごった返す。
旗本たちは顔なじみの米問屋に手間を払って面倒くさい米売却などを請け負ってもらう。
コメ問屋は手間を代行して現金を札旦那の各武家屋敷に届けた。
次回の支給米の受領や 売却を確約する。
かくて百俵につき、金三分で請け負う札差業の登場となる。
やがて札差は武士への貸金業として発展してゆく。
旗本の蔵米を担保に貸金は年利20~25%の利率とした。
本所御蔵はのちに本所陸軍被服廠跡となりで関東大震災の災禍で話題となったところだ。


 ● 吉原に大判を使う遊び人
吉原遊びにとてつもない大金を惜しみなく使うお大尽がいた。
彼らは「十八大通」と呼ばれ江戸っ子からは羨望の的となったが、その出自のほとんどがこの札差だった。
旗本・御家人たちは、借金なしには一日も暮らしていけない。
この仕組みの上で、彼らは放蕩遊蕩の限りを尽くしたらしい。
蔵米を抵当にして金を用立てるという金融業務が、札差の重要な役割となっていった。
金に困った武士は、自分の蔵宿である札差に、次回支給される蔵米の受領・売却を依頼すると確約し、借金をする。
札差は蔵米支給日に、コメを売却した現金から手数料と借金の元利を差引き、その残りを武家の屋敷に届けた。

★御政道 かゆいところへとどくのは 徳ある君の孫の手なれば
当時、残っている将軍賛歌。
この「徳ある君の孫」は徳川吉宗の孫に当たる松平定信。
定信は、旗本御家人の生活窮乏救済を見るにみかね、寛政元年(1789)年、借金棒引きの「棄損令」を出し、借財の取り消しや、返済を低利の年賦に変えた。


● 千両の肩の荷が消え祝杯ぞ
旗本、御家人は喜んだ。
白河公へ感謝、感謝。

● 松飾りもつけず蔵前寝静まり
この寛政の改革に札差連中は大ショックを受けたが、やがて仕返しに出た。
「締め貸し」という今で言うなら貸し渋りだ。
借金の棒引きとなっても借金に依存しなければ旗本生活はやってゆけない。
 「棄損令」があるから埒があきませんネと、借金の申し込みに対して札差の手代もどきに鼻であしらわれたケースもあったらしい。

● 白河公邸  恩を仇での投げ文も
この本によると、当時、町奉行に投げ文があったそうだ。
石にくるんで庭先に投げ、本人は一目散に退散する投書なのだろう。これを「捨訴」といったらしい。

 「旗本・御家人武士、申しあはせ、一大事を近々のうちに差し発し申すべく候」
「誠に大へん出来(シュツタイ)」
 感謝から一転、脅迫文だ。
借金ができなくなった治世への恨みつらみであり、反乱までをほのめかす物騒さがある。

もともとこの札差制度は享保8年(1723年)に、南町奉行の大岡越前守が109人の札差を公認したことにはじまっている。
寛政の改革より半世紀あと、家斉の化政期を経て札差は再び隆盛した。
旗本・御家人たちの借金は白河公の時代よりいっそう膨らんだ。
歴史は繰り返される。
水野忠邦の天保の改革は札差借金の棒引きを容赦せず行い、無利子年賦令の徹底を加えた。


戊辰戦争となって、明治元年には浅草蔵前に大火が襲い、これを潮に札差制度はなくなってゆく。

武家社会と高利貸との金融事情が、細かく語られて武士の生活の一端が垣間見えた ような感じが読後に残った。




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