この五重塔の図面は文久4(1864)年にかかれたものです。明治の初年まではちゃんと建っていたのです。その絵図面もたくさん残っています。
しかし今は・・・・!
盛岡市北山の聖寿禅寺の五重塔は、一階部分しか残っていません。
どうして明治初年にこの五重塔は、一階だけとなってしまったのでしょうか。
わたしが、市文化財保護協会の研修視察旅行を盛岡に決めた理由の1つはこの謎を解きたかったからです。
正解は次の中にありそうです。
さて、どれだと思いますか。
(1) 戊申戦争で盛岡軍が負けたので、明治新政府軍が二階以上を壊してしまった。
(2) 明治新政府による神仏分離令が出された結果、廃仏稀釈運動が起こり、二階以上は壊されてしまった(盛岡市中央公民館の学芸士の説明)。
(3) 戊申戦争の結果盛岡藩は廃止されてお寺は貧乏になり、このお寺の住職(今のご住職のお父さん)は五重塔やお寺を維持することができなくなったので、五階から順に売った。
(4) その他の別の理由
正解をお知りになりたい方は聖寿禅寺のご住職にお電話をしてお確かめ下さい。電話番号は019-661-3642です。ただしかなりシビアな問い合わせですので、十分に心を込めてお問い合わせ下さい。私はご住職さんではなく、このお寺の隣にある榊山稲荷神社(とても由緒のある神社です)の宮司さんにその訳をお聞きしました(たまたま通りかかったので)。榊山稲荷神社の電話番号は019-661-6211です。
榊山稲荷神社
私なりの正解は、8月28日の研修視察の当日にお寺についてのご説明をお願いして来たので、その折りに詳しくお聞きして決めたいと心に決めています
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