こんなブログがありました
電車の中で、きれいな女の子がひらひらと優雅に手を動かしているのを見て「あ、この人たちは話すことができないのだな」と思う。でも、手の表情が美しいのと同様に、顔の表情も美しく、音のない世界の会話も通常の会話と同じようにコミュニケーションできていることにあらためて感動する。
何年か前に、アメリカの地方のお祭りで、手話の合唱を見たことがある。話すことができない生徒たちの声のない合唱は、異国の言葉を聞くよりも雄弁に歌を語り、唄っていた。
ウイリアム・ハートが出演した映画で、しゃべることができない女性の愛をテーマ、確か「愛はたそがれのなかに」とか何とかいうセンチメンタルな映画がある。主演女優は本当の「手話女優」であり、「話す」ことと「手話」とのディスコミュニケーションのもどかしさが、せつない愛に感じられる作品だった。
私のなかの「手話」は手話を生活にしている方たちには失礼かもしれないが、かくいう「神秘的」な世界で、「外国語」というよりも、歌詞を踊りで表現するフラダンスに近いようにみえていた。
今日、たまたまつけたテレビでは「手話通訳」の話題を特集していた。
手話が必要な場所として、病院や、裁判所、警察署などがある。
そうしたところで正確な通訳ができる人を育成、採用するために、厚生省の管轄で資格試験が設けられている。「手話通訳」は手話を最低3年以上勉強したうえで、資格試験に合格しなくてはいけない。手話通訳として必須のことは、「手話を同時通訳として言葉にする」ことと「言葉を手話にする」ことがある。
日常手話で生活している人の講演を「通訳」する際に、慣れていない人は言葉がついていかなくなってしまうのだが、プロの人はどんどん「翻訳」していくいことができる。それは「ひとつひとつの言葉を読んで行くのではなく、表情や動きなどを読み取ること」がポイントなのだそうだ。
たとえば、病院で「座薬」といって渡されたものを「ざ・や・く。座る、薬」と「通訳」してしまったら、患者さんには「座って飲む薬なのかな?」と伝わってしまう。手話通訳は単純に言葉を手の動きに変えるだけではなく、その意味をきちんと把握して伝えるという役目があるのだ。
番組内で、言葉を手話にする例として、難しい詩をセミプロとプロの人が手話通訳した。プロの場合は意味のわかる意訳であるということ以上に「動き」や「表情のダイナミズム」が相手に内容を伝えることに役立っていた。
ところで、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)では、手話を翻訳する野球帽を研究している人がいる。
この野球帽には2個所に小型カメラが装着していて、上部から手話の手の動きを撮影し、その位相から意味を翻訳するしくみである。
翻訳された内容は文字情報として流れ、たとえば相対する人がかけている眼鏡の一部に組み込まれた超小型モニターに字幕のように流れる、という実験も行われている。
また別のセクションでは、顔の表情を読み取り、その人がどういうことを考えているのか、どういう状態なのかということを察知するという研究も進んでいる。そうした技術が複合されることにより、単純な動作だけでなく、表情や体調なども含んだ「手話通訳機」も時間の問題だ。
聞くところでは、日米の手話は違うらしいし、そのうえ「翻訳」といっても日本語の語彙を考えると英語ほど簡単に機械化することは難しいように思う。いつかはそうした「手話通訳機」が、手話を日常語としている人たちにとって暮らしやすい社会をつくっていくのかもしれない。しかしそれまではやはり、努力と誠意になりたつ手話通訳者の方たちの存在意義は大きい。
手話に限ったことではない。違う言語を翻訳、通訳することは、単なる言葉の置き換えではない。「感情」をどのように技術に活かしていくのかが、今後のテクノロジーのテーマともなっていく。「これまで女性は感情的で、技術の分野には向かないとされてきたが、これからは『感情』こそが技術に必要なものだ」とMITの女性教授であるRoz Picardはその著書『Affecting Computing』で書いている。
ハードウエアとソフトウエアが本当に歩み寄る時代を目前に、私はもっともっと、やさしさというものについて考えていきたい。
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