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中央集権的な一元化、巨大化、効率化のもたらすもの  大きいことは悪いことだ

2022年06月10日 | インポート


 「スケールメリット」という言葉は、今から半世紀前、人々が、一億総合理化・効率化の妄想に囚われ始めていたころに流行った和製英語だ。

 「規模を大きくすることで得られる効果や利益、優位性」を意味するもので、「大きいことはいいことだ」という神話が、社会を席巻していた時代の象徴でもある。



 この時代、なんでも巨大化することが効率化と決めつけられ、それは、あたかも戦前軍部による「大砲巨艦主義」の妄想が、そのまま受け継がれたもので、「大きさは力なり、力こそ正義」という発想の延長にある「戦艦大和こそ世界一!」 「大きく強い偉大な日本」というナショナリズム・ナルシズムの憧憬のなかにあったのだ。



 この発想は、現在の保守支持層の願望の根底にあって自民党政権を支えているわけだから、とても重要なものだ。

 この発想が、どこから生まれたものかといえば、それは日本社会にあった「士農工商」以来の構造的差別と、競争主義の果実である。



 そうしたスケールメリットの発想により、原子力発電も水力発電も、工場も学校も、なにもかも一丸となって巨大化を目指した時代だった。

 それは必ず「同調圧力」を前提にしていたから、スケールメリットという思想は、優越主義=ファッシズムの属性であると考えることもできる。



 だが、やがて、ファッシズムの帰結として、民衆の生活を見下した軍隊式の企業主義が呼び寄せた公害問題や、競争社会を前提とした画一主義学校教育がもたらした、あらゆる価値観の画一化を招き、日本社会から、やさしさを追放し、愛情をねじ曲げ、残酷な悲劇を生み出していった。



 スケールメリットは、必ずしも、合理化・効率化にさえ役立つものではなかった。

 例えば、発電をとってみても、中央集権的なスケールメリットを前提とした原子力、火力発電は、巨大な送電システムが不可避である。

 ところが、現代にあって、巨大な送電インフラは、その建設費と送電ロスによって、無駄の出ない、非スケールのマイクロ発電とグリッド結合システムにはるかに劣ることになってしまった。

 https://www.sbbit.jp/article/cont1/34806



 つまり、究極の合理化、効率化を求めた結果、最悪の害毒ばかりを生み出した身動きのとれない肥満体システムを作り出してしまった。

 どうしてこうなったかといえば、スケールメリットに憧れた自民党・保守の思想の根底に競争主義価値観があったからだ。

 競争優越への憧れは、いわば日本社会を地獄に堕とした本質である。



 「なんでも合理化、効率化」の旗印が日本社会を席巻した高度経済成長時代の標語、それは1980年代のバブル経済を生み、そして1990年代の二度と取り返しのつかない日本経済の停滞、凋落を生み出した。

 もしも、人々が競争主義の妄想に取り込まれていなかったなら、こんな馬鹿げた結果にはなっていなかっただろう。



 今から半世紀前、1970年代以降の日本社会では、「何がなくとも大きくする」との強迫観念に囚われた。自民党とその支持者たちが社会の主導権を握り、人々に合理化、効率化の同調圧力を強要したわけだが、それがもたらしたものは、逆に社会の停滞だった。

 そうした発想は、人々の心を圧迫し、抑圧し、小さく閉じ込めることにしか役立たず、したがって、自由で解放されたイノベーションも育たなかった。



 そもそも、伝統的な職人社会である日本は、およそスケールメリットの対極にある、きめ細やかな個人的ニーズに対応した技術とシステムが蓄積されていたのだが、それらは「非効率」の汚名を着せられて日本社会から追放されていった。

 合理化、効率化というものは、資本家の懐を豊かにするには大いに役立ったが、人々の生活には逆効果だった。



 スケールメリットがもたらしたものは、大量生産と大量消費、企業の売り上げを上げるためのみに役立つ、使い捨て文明、あらゆる消費サイクルの短縮であり、それは膨大な廃棄物を生み出し、究極のリサイクル社会だった日本の古き良き特性を破壊していった。

 それは、民衆の生活に役立つものではなく、企業を大きくし、資本家を肥え太らせるためだけに役立ったのだ。



今、我々は「使い捨て文明」の破局に直面し、再び、日本的なリサイクル社会に還る流れが見え始めている。

 もう莫大な産業廃棄物、生活廃棄物を捨てる場所がないとう苦悩に日本人は直面している。これからはゴミのリサイクル、利用を主題とした産業革命を行わなければ、我々の、子供たちの未来が破壊される現実に向き合わされている。



 本当に大切なことは、大量生産、大量廃棄の社会ではなく、すなわち金儲けや景気高揚ではない。

 今メディアで、「景気の回復」を叫ぶ知識人たちは、すべてニセモノである。

 景気など回復しなくても良い。本当に必要なことは、一人一人の人生が豊かになることであって、資本家だけが豊かになる社会ではない。カネを貯めることが人間の価値ではないのだ。



 もう「カネを貯めて他人を見下したい」という資本家の愚かな強欲から来ているスケールメリットなど必要ないのだ。

 我々は、一人一人の生活の必要に応じたライフスタイルを充実させ、一人一人のニーズにきめ細やかに対応できる新しい「アンチ・スケールメリット」の社会に向かわなければならない。



 大切なのは、巨大企業のベルトラインではなく、個人の生活に向き合ってくれる職人社会である。

 それは、リサイクルを前提にし、廃棄物を出さない社会である。

 それは、「優秀な人間が指導する社会」ではない。「人が人を愛する社会」である。



 現在の資本主義は、ユダヤ人流の「新自由主義社会」であるが、その本質は、特権階級がいて、他のすべての人々は、彼らに奉仕するための家畜(ゴイム)というタルムードの思想である。

 資本主義も共産主義も、すべて「神に選ばれた優秀なユダヤ人」が生み出したものだ。

 だが、もう我々に「優秀な人」など必要ない。

 本当に必要なものは、互いに手を携えて、支え合って生きる「愛の社会」である。

 それはスケールメリット社会ではない。



 我々は、「優秀な人間が社会を指導する」というユダヤ的人間疎外の思想から解放されなければならない。





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