彦根城から程近い彦根市尾末町に鎮座される「滋賀県護国神社」。御祭神は『明治戊辰役以来滋賀縣出身の戦没者英霊』。
歴史「明治2年(1869)、彦根の大洞龍潭寺に戊辰戦争で戦死した彦根藩士26人の霊を祀る招魂碑が建てられたのが始まりである。明治8年、元彦根藩主井伊直憲の主唱により招魂碑を神社に改造する旨の政府の通達が出され、招魂碑を現在地に移し、翌年、同地に社殿を造営。昭和14年(1939)に内務大臣指定護国神社として「滋賀県護國神社」に改称。太平洋戦争後の占領期に「沙々那美神社」と改称。日本が主権を回復した昭和28年(1953)10月に元の社名に復した。」Wikipediaより
鳥居を潜りまっすぐに拝殿に・・皆様方の尊い命の贖いによって、私たちはこうして自由に生きています。その事実に心から感謝いたします🙏🙏。
『昭和天皇』御製碑。【 国もると 身をきすつけしひとびとの うへをしおもふあさにゆうへに 】ゆっくりと読み上げて・・もう一度声に出して読むと、不意に涙がこぼれてきました。
境内には、昭和50年5月28日、第26回全国植樹祭にご臨席された天皇皇后両陛下が、滋賀県護国神社にご親拝された記念碑が建立されています。ああ・・・護国神社にご親拝下さったのか・・出来うるならば靖国へもと思うも・・なぜ全世界で普通になされることがこの国では許されない事になったのか。そう仕向けた外道は一体誰なのか!静かに祈るべき場所でありながら、口惜しい怒りがこみ上げてきます。
境内には中国・沖縄戦線や満州移民、シベリヤ抑留等で命を落とした兵士・国民・動物の御霊を慰める数々の石碑が建立されています。私たちはその一つ一つに深く頭を垂れて参拝します。
「戦歿:軍馬・軍犬・軍鳩靈之碑」は、戦歿した軍馬・軍犬・軍鳩の霊を、戦士と共に慰霊するもの。兵士たちと共に戦地に赴き、見知らぬ異国で土となった言葉を持たぬ生き物たちよ、安らかなれ・・・🙏🙏
父の像と、傍らに添えられた「父の像に捧ぐ」詞。【おとうさん あなたに抱かれたことのない子が あなたの遺骨を抱いたとき おとうさん あなたの無言の帰還を迎えて あなたのきびしい声を聞いた】
父の像の横にある母子の像も、切なくはありますがこの上なく優しいものです。素足に下駄の母は継ぎだらけのもんぺ姿で、それでも手を繋ぐ娘はちゃんと履を穿いている。戦中戦後を知らない世代であっても、多分多少の事は理解できるのではないでしょうか・・子を愛おしむ母の心が
多くの方々の思いを包み込んで鎮まる護国神社の境内。鳥居の左右より神域を守護されるのは、いわゆる護国型と呼ばれる一対。どうぞこの神域が心無い悪意に穢される事の無いようにお守りください。
靖国鳥居と彦根城、琵琶湖と比良の山並みがデザインされた絵馬
最後は、能楽シテ方観世流師範で俳人、郷土史研究家の『宮田思洋氏』句碑【お天守の 窓に野山の 錦かな】
参拝日:2009年9月6日&2017年12月21日
おはようございます!
今朝は雨が降っています。
きょうの狛犬は胸とそこから出る前足の筋肉が
凄いですね。
かなりキントレしてた感じですね(笑)
何といっても「護国」ですから
狛犬さんの責任は重いのでしょう😊
【 国もると 身をきすつけしひとびとの うへをしおもふあさにゆうへに 】
明治天皇の御製と共に、「滋賀県護国神社」の名前を心に刻みました。実際の参拝は叶いませんが、貴方方お二人のお陰で、私も手を合わせることができました。
有り難うございます。
ぽろぽろとこぼれる涙をとめられませんでした
話が逸れてしまいますが・・・
小野田少尉が故国の地を踏んでしばらく後
ビートたけし氏との対談で天皇の靖国参拝をめぐる話になり、その際にたけし氏が
「いっそ靖国神社を無くしてしまえば問題もなくなる」と発言しました
それを聞いた小野田元少尉は
「ばかいっちゃぁ困る。我々は靖国で会おうといって戦ったんだ。それを無くすというのは、大戦で死んだ戦友たちの存在を無くすという事だ」
小野田元少尉は帰国後、政府の見舞金や寄せられた義援金の全額を靖国神社に寄付されています。
それだけにこの言葉の重さが胸に沁みました。
昭和天皇の御製を間違えるという失態を、いたしました。申し訳ありません。
小野田氏の話は、私も聞いております。戦後の日本はビートたけし氏に見られるように、国民の思潮が様変わりしました。
失望してブラジルへ移住された気持ちが、分からないでもありませんが、日本に残り、国を愛する国民と一緒に戦ってほしかったです。
きっと日本に帰ってきたときに終わったのかもしれませんね
頑ななまでに神国日本の軍人であった小野田元少尉
その目に映った祖国は
捨てるに悔いない国となり果てた
そのように思えてなりません