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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

北山鹿苑禅寺:金閣寺 in 京都府京都市北区

2025年07月24日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都を代表する名所は、あまりにも数が多すぎて、これ!と言い切る事が出来ません。それでも前日紹介した「銀閣寺」と対を成す形で紹介される「金閣寺」は、誰もが聞いたことがあり、京都の観光名所としては最も有名と言っても過言では有りません。

私たちがここを訪れたのは2004年、何ともう二昔以上も前!😲! 当時はデジカメもそんなに機能の良いものでは無く、メディアの容量も微々たるもの。したがって手元にある思い出の画像は十枚ほどですが、そこは間違いなく、ご亭主殿に助けられ、手を借りながら自分の足で行った場所。
鏡湖池に影を映す金閣・・被写体が完璧だと、誰が写しても綺麗な写真になってくれます😄

京都市北区金閣寺町に門を構える臨済宗相国寺派寺院「北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)」『聖観音』を本尊とします。一般的に金閣と言えば、建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築「舎利殿」を指します。

「元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。」公式HPより

舎利殿の右手、池に突き出したように見える切妻造、吹き放しの建物は「漱清(そうせい)」と呼ばれる釣殿。かってここを訪れた故ダイアナ妃は、漱清からの眺めにとても感動したと言われています。

舎利殿の後方に2.3メートルの「龍門の滝」。滝を登り切った鯉は龍に成るといわれる中国の故事・登竜門。滝壷に斜めに傾いた動きのある石は、その鯉に因んだ「鯉魚石(りぎょせき)」。今まさに跳ね上がらんとする鯉の姿だと・・言われてみればそう見える。

龍門の滝を横目に高台を登っていくと、南天の床柱と萩の違い棚で有名な3帖の茶室「夕佳亭(せっかてい)」があります。江戸時代、傾きかけた金閣を復興し、池泉庭を修復した『鳳林承章』。彼が、後水尾上皇の為に茶道家:金森宗和に造らせたのが夕佳亭です。宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で「夕日に映える金閣が特に佳い」ということからこの名が付けられました。

夕佳亭の近く、金閣の北側にある池は「安民沢(あんみんたく)」。どんな日照りにも涸れない池と言う事で、雨乞いの場として用いられたと伝えられています。別名、雨賜沢(うしたく)・望雲沢(ぼううんたく)ともよばれ、池中の小島には「五輪の石塔:白蛇塚」があり、西園寺家の鎮守などとも伝えられています。

高台を降りきった場所に祀られる「不動堂」。空海作と伝えられる『石不動明王』を本尊とします。天正年間、宇喜多秀家の再建とされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物です。

参拝日:2004年5月29日


東山慈照禅寺:銀閣寺 in 京都府京都市左京区

2025年07月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

左京区銀閣寺町に門を構える臨済宗相国寺派寺院「東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)」。相国寺の境外塔頭で、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園が有名で、一般的には「銀閣寺」の通称で知られています。

門の内側に見えているのは、総門から中門に至る参道に造られた「銀閣寺垣」と呼ばれるもの。下から石垣、竹垣、椿の生垣で構成されており、花の季節にはまた格別の美しさであると言われています。

観音殿・銀閣は、室町幕府八代将軍『足利義政』が、鹿苑寺の金閣を模して造営した楼閣建築。義政公は自らの宗教観を託し、一層を心空殿、二層を潮音閣と命名しました。唯一現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物として国宝に指定されています。ちなみに銀閣の由来は江戸時代になっての事で、相国寺の境外塔頭として「金閣寺」があるから、それに対しての「銀閣寺」・・と聞くと、何だか拍子抜け。

特別名勝である「錦鏡池」を中心とする池泉回遊式庭園の中に建つ姿は、金閣とはまた別の美しさ。あちらが真夏の降り注ぐ太陽なら、こちらは、真っ白に降り積もった雪を照らす、月光の赴き。

銀閣の前に広がる二つの砂盛りは「銀沙灘(ぎんしゃだん)」「向月台」

向月台は白砂を円錐状に盛り上げて頂部を水平に。俗説によれば、この上に坐って東山に昇る月を待ったのだとも云われています

銀沙灘は白砂を壇状にし、表面に波紋を表現した直線の縞模様を付けたもの。これら二つの砂盛りに関して、室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと言われています。

二つの砂盛を正面に見る「方丈(本堂)」は江戸中期の建造。『釈迦牟尼仏』を本尊とします。

東山殿の建物の群の中で、銀閣と共に現存する当時の建物が「東求堂(とうぐどう)」。一重入母屋造檜皮葺きに、組物は舟肘木を用いており、義政の持仏堂として建立されました。

「東求堂」とは「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」を出典とした命名。銀閣寺(観音堂)と共に、国宝の指定です。

東求堂の裏手から続く道を進むと、まるで箱庭のように銀閣の建物が見えます。折からの紅葉に彩られたそれは、まるで古い絵葉書のように・・悪目立ちすることなく、穏やかに優しく。

室町時代の創建当時の石組みが残された「お茶の井」。義政が銀閣寺の造営に着手したのは応仁の乱の直後。疲弊していた庶民に段銭(臨時の税)や夫役を課し、東山殿の造営を進める傍ら、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送ったと言います。

崩れかかった石組・泉・水流の跡が残された「漱蘚亭(そせんてい)跡」。義政が「絵師:相阿弥(そうあみ)」に、苔寺(西芳寺)の庭園を模して作庭させたと言われていますが、江戸時代に山崩れで埋没したと言われています。

庭園の片隅にひっそりと鎮座される「八神社」。銀閣寺の鎮守社とされる「八神社」からの分詞でしょうか?

美しい場所と言うのは、何度見ても新しい美しさが生まれて、中々に其処から立ち去る事ができません。同じ建物、同じ景色のはずなのに振り向く瞬間ごとに、色や形を変えて見えるのです。

ずっと昔、金閣には金箔が貼られている。だから銀閣には銀箔が貼られているのだろうと、そんな風に勘違いした外人さんが結構いると聞き、「単純に考えれば、確かに」と思ったものです。侘び・寂びの概念を表す外国語なんて、世界中のどの国を探しても見つからないでしょうから。

大文字山の麓、左京区銀閣寺町に鎮座され、銀閣寺の鎮守社とも言われる「八神社」。銀閣寺に行った折、たまたま見かけた神社ですが、頼りない足の都合で二の鳥居まで。
御祭神は『高御産日神、神産日神、生産日神、足産日神、玉積産日神、大宮売神、御食津神、事代主神』の八柱。かってこの社は「八所神社」と呼ばれていました。

鳥居の左右より神域を守護される狛犬さん一対。この頃の御亭主殿はまだ「狛犬」に目覚めておらず、画像は私が写した二枚のみ。でも、思わずデジカメを向けただけ有って、柔らかそうな巻き毛に覆われたしなやかな体。雅さと力強さを併せ持った素敵な一対。嵌め込まれた「玉眼」の所為か、今にも飛び降りて足元にすり寄ってくれそうな期待を抱かせてくれました😄。

参拝日:2005年12月3日