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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

新長谷寺(しんちょうこくじ) in 岐阜県関市

2020年03月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

関市長谷寺町に門を構える真言宗智山派寺院「吉田山:新長谷寺(しんちょうこくじ)」『十一面観世音菩薩』を本尊とします。通称「吉田観音(きったかんのん)」とも称されます。(御朱印は書置きの為、日付がありません)

貞応元年(1222)、『後堀河天皇』の勅命により、空海の四世『護認上人』によって開山。現在の建物は、室町時代~江戸時代初期のもので、重要文化財の三重塔や本堂など多くの伽藍を有しており、美濃の法隆寺の別名があります。(駐車場から山門に向かう途中に見えた本堂と三重塔、トラックの存在が些か残念)

威風堂々の言葉が似つかわしい「仁王門(二の門)」は関市指定有形文化財。 宝暦3年(1753)、徳川家により再建。もとは参道中央にあったものですが、昭和37年に現在の位置に移動。美濃四国第二十二番札所。美濃三十三観音霊場第三十三番札所。美濃七福神(毘沙門天)の寺としても有名です。

仁王門の内から参拝者を向かえるのは、阿吽の呼吸で見得をきる『金剛力士像』、作者は『運慶』と伝えられていますが、実際の作者は不明だそうです。

仁王門をくぐり山門の前まで来ると、石段下に「これより先 境内の写真撮影を禁じる」の立て札。折角の素晴らしい建造物を前に残念ではありますが、デジカメをバッグにしまいます。

山門から垣間見る茅葺の本堂は、本当に美しく荘厳で、実際に山門をくぐった瞬間、思わず「ホ~~~~ッ」とため息がもれたほどです。きっと同じような思いでため息を漏らした人は沢山いたはず・・ですが、こればかりは仕方が無い事😔

という事で、参拝をすませた後、山門の向こうに見える諸堂を目一杯のズームで捉えてみました。

本堂正面だけの画像ではそんなに凄いのか?と思われるかもしれませんが、実際に境内に立って全体を見わたせば、きっとその素晴らしさに納得される筈。

参拝日:2018年10月12日


金幣社 春日神社 in 岐阜県関市

2020年03月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

関市南春日町に鎮座される「関:春日神社」。関鍛冶の守護神として崇敬を集めています。

御祭神は『武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)』

関の刀鍛冶の礎となったのは、鎌倉時代末期の名工・五郎正宗の弟子であった『金重』と言われています。室町時代になると『金重』の娘婿の三男『包光、(のちに兼光(かねみつ)に改名)』が、一門の刀剣作りの職人『兼明や兼弘』を伴って大和から関へ移住。正応元年(1288)、大和鍛冶の出身者である『金重・兼永』が関鍛冶を総代して奈良の「春日大明神」を勧請、関鍛冶の守護神とし創建したのが由来とされます。

拝殿前より神域を守護されるのは、奈良県内の神社で何度か見かけたタイプの狛犬さん。横から見るとツンと上向いた鼻が印象的で、その表情も合わせて好きなタイプ😊

拝殿前にある檜皮葺きの能舞台では、毎年正月、祭事能として神奉能が行なわれます。この神事は応永2年(1395)に、『兼吉清治郎』が関鍛冶七流を代表して翁役を勤めたのが始まりと云われています。

室町時代に建てられたと伝わる能舞台は、寛文5年(1665)、関の領主『大島雲八』によって再建。その後、昭和34年(1959)の伊勢湾台風によって倒壊。現在の能舞台は従来の建物を再現しました。

目線を上にすると、普段はあまり見ることの無い楽しいものが色々と見えてきます。この留蓋の瓦で作られた鹿は、春日神社の神使いにちなんだもの。残念ながら一方しか見えなかったのですが、対の阿形に相当する鹿もいたと思われます。

屋根の上の神使いという事で、こちらは「からす天狗」、何と四隅に鎮座しています。それぞれが微妙に違うのですが、とりあえずは綺麗に写せた二体だけ😊

天狗さんを神使いとされるのは、火防せの神として知られる「秋葉神社」

「秋葉神社」の後方に鎮座されるのは「末社:津島神社」「末社:松尾神社」、なのですが、並んでいるのは三社、残りの一社に関しては公式頁にも記載がありません。

朱塗りの鳥居が、木々の間に鮮やかな「美濃惣社:関稲荷神社」ですが・・社殿はかなり地味、稲荷の社と言われてもにわかには信じがたい佇まい。

拝殿前の軒下に奉納されているのは、大小二対の神狐さん。少し年代が先と思える大きな神狐さんは、それぞれに子と玉を持ち、穏やかな佇まいで守護をされています。

関稲荷神社の向かって右側に奉納された千本鳥居、その奥にも稲荷の朱の社が鎮座しています。

神社には珍しい「太鼓堂」がありましたが、神事の何かに使われていたものでしょうか?こういう建築物には、できれば謂れなどが添えられているとより興味を誘うと思うのですが・・

 このあと何故か「関鍛冶伝承館」に寄るのを忘れて、次の目的地に向かってしまった二人・・😱 仕方ないので関鍛冶七流について、少しだけ。

【関鍛冶七流とは、鍛冶座に所属する職人達がそれぞれで作った組合の呼称で、「善定・奈良・三阿弥・徳永・得印・良賢・室屋」の流派があり、なかでも、「善定」は主力流派とされていました。代々の善定派当主は「惣領家」と呼ばれ、関の鍛冶頭を務めるほどでした。】刀剣ワールドより引用

参拝日:2018年10月12日


カミソリ文化伝承館・フェザーミュージアム in 岐阜県関市日ノ出町

2020年02月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

2010年の美濃市訪問の旅、最期の立ち寄り地は、関市日ノ出町にある「カミソリ文化伝承館・フェザーミュージアム」

閉館時間16:00、現在15:時56分・・・これは流石に無理ではないかと思いつつも、閉館の札が出ていなかったので思い切って受付に。優しい声で「大丈夫ですよ。」とおっしゃって頂き、ご厚意に甘えさせていただきました。

私たちを出迎えてくれたのは巨大な電気シェーバーに、二枚刃の頭を持つロボット。これ絶対に子供たちに受けるよね😄

2000年5月に開館し、2002年に増築されたという館内には古今に渡って製造された様々なカミソリ関連の展示があり、髭剃りとは無縁の私と友人J🐣さんも興味津々。

特に昭和37年7月製造の「サービスホルダー自動販売機」。10円と言うのはおそらく替え刃一枚の価格でしょうね。で、当時のモノの価格を調べてみると、牛乳15円、ラーメン50円、喫茶店のコーヒーが60円でした。何と言うか・・喫茶店のコーヒーがラーメンより高かったことにビックリしてます😲

壁に展示されていた歴代のフェザー社員のバッジ。これなんて、マニアが見たら垂涎物なること間違いなし。何でも集める事が好きな私、食い入るように見ていたと後からご亭主殿に笑われました。

過去から現代まで、様々な髭剃り用品が展示されているコーナーも見応え充分。たかが髭剃りなんて口が裂けても言えない展示の多様さに三人とも目を皿にして品定め・・いや買える代物じゃぁ無いですよ!!😅

どれもこれもおそらく初めて目にする物ばかりで、あれこれ指さしては「あれはきっとこう使うんだよ」「あっちのそれは旅行用かな? それとも普段持ち歩く為の携帯用?」「いや、それってどこで使うのよ?」と女性陣は賑やか😄

無精髭なんてとんでもない!何時の時代も紳士たるもの身だしなみは整えておかねばなりません。コンパクトにまとめられた携帯用の髭剃りセット。まばゆい輝きを放つゴールドの髭剃り・・・って、どんな人を想定して作ったんだろう?

おやおや・・何時の時代も男と言うものは 😔 これを握っているところを想像しただけで恋心も冷めてしまいますよ・・ そう言えば前に栓抜きコレクションを見た時も同じようなものが有ったね~😅

説明部分の画像が無くて正確には分かりませんが、多分、その当時に発売されていたシェービングローションと髭剃りの現物ではないかと・・多分!😓

次のコーナーに向かう前に「替え刃で作られた都市風景」を背景に記念撮影。使用された替え刃1万と176枚、製作日数4ヶ月、鋭い刃物が作り出すソフトな風景画。言葉の対比が何とも素敵で、でも刃物だという先入観がある所為か、迂闊に手を触れるのがはばかられます。もちろん安全対策はバッチリなのですが、何しろ臆病なもので😲

いきなりの手術場面・・これは経験した人も、経験者を身内に持つ人間にも精神衛生上よろしくありません😔 と言っても、あくまでも私たち限定と言う意味で。

さらに手術に用いられるメスを見た瞬間、ずっと昔、麻酔の効果が表れる前に開腹された事を思い出し・・。あの時の恐怖と痛みが脳裏に蘇り足が震えました。痛いと叫んだ私を見て、背中に新たに麻酔が打たれ・・目が覚めたらベッドの上だった事まで・・人間の記憶って意外と長く残っているものなんですね。

でも次にこれを見た時の怖さと来たら・・16世紀後半の外科道具だそうですが、背中に流れた冷たい汗の感触を今でも思い出します。そうして改めて技術の進歩に感謝の気持ちを抱いたものです。

医療の次は理美容、そう言えば12世紀頃の西欧には「理髪外科医」という職業があったとか。今でも見かける理髪店の円柱形の看板。クルクルと回るあの三色、白は包帯・青は静脈・赤は動脈を表しています。

理美容の流れとして、日本髪の為の櫛や笄(こうがい)、古い鏡なども展示されています。

さて、刃物と聞いてまず思い浮かぶのはスラリと美しい「日本刀」。室町後期に美濃国武儀郡関郷(岐阜県関市)で活動した刀工『孫六兼元(まごろくかねもと)』。室町時代から江戸時代を経て現代にまで続く刀匠ですが、特に二代目は「孫六兼元」と呼ばれ、彼の鍛えた刀は「関の孫六」として時代小説などにもよく登場します。

さらに刃物と言えばナイフ。右上のシンプルな「折りたたみ式ナイフ」は、俗に「肥後守(ひごのかみ)」と呼ばれており、ご亭主殿が子供の頃はこれで鉛筆を削ったりしたそうです。確か私の兄たちも同じようなものを持っていました。

時代を反映したポスターはもうそれだけでアートの世界。実は私この手の商業ポスターって大好きなんです。中途半端な(ごめんなさい)大家の抽象画アートなんかより百万倍も素晴らしいと・・思っています😄

この赤ちゃん起用のポスターなんて、今なら血相変えた若いママたちの抗議電話が殺到しそう😲 それだけおおらかだったのか、人々が常識をわきまえる事が普通に出来ていたからなのか。

昭和32年(1957)4月、揖斐郡谷汲村で行われた第8回全国植樹祭に御臨席された『昭和天皇・香淳皇后』両陛下が、フェザー社に御臨幸なされた折の座所も拝観できました。気高く和やかに、媚びも奢りも無く国民と共にいらした昭和の両陛下、その尊いお姿が偲ばれます。

滞在時間およそ40分、これでもかなりすっ飛ばしてつもりですが既に閉館時間を30分も過ぎています。余分な時間を取らせてしまった事に心からのお詫びと感謝の言葉を述べ、「巨大な剃刀のモニュメント」に見送られてフェザーミュージアムを後にしました。

訪問日:2010年11月28日


関鍛冶と刃物の町 in 岐阜県関市

2020年02月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

今回の旅の目的はマンホールカードの収集ですが、もちろん見所一杯の町歩きも楽しみの一つ、あそこも、ここも立ち寄りたい場所が一杯。

前回の訪問では、時間が足りなくてゆっくり見る事ができなかった関市の名所旧跡、できるだけ沢山見たいと言う事で、まずは「関鍛冶伝承館」。ここでは古来より関に伝わる匠の技が、映像・資料・展示などで紹介されています。刀剣展示室には、関を代表する刀工、兼元や兼定の日本刀なども展示されているとかで、興味津々😃

館内見学の前に、まずは敷地内に建立されている碑・像を探索。「日本刀匠総帥:渡邊兼永翁碑」碑は、昭和34年(1959)9月24日の建立。これに関しての詳細は「関鍛冶伝承館」のHPから見ることができます。

植え込みの向こうの碑は昭和八年(1933)に建設された 「日本刀鍛錬塾跡」。文字通り、かってこの場所には刀匠養成の施設がありました。

敷地内にある「刃物塚」では、使えなくなった刃物の供養が毎年11月8日の「刃物の日」に行なわれます。昔は包丁も鋏も大切に研ぎなおしされ、大事に使い続けていました。いつのまにか研ぐよりも安価な商品が出回り、使い捨てが普通になっていますが、砥ぎなおした裁ち鋏の切れ味は、実際に使ったら手放せなくなります。

最後の碑は敷地内の目立たない場所にあったものですが、文字の感じからして「句碑、もしくは歌碑」のようにも見えます。既に文字もつぶれ、判読は出来ませんでしたが、幾つか拾い読めた字面から、隣接する「春日大社」での禊を謳ったものかと推測、でも定かではありません。

歴史のありそうな碑なのに何の説明も無いというのは、なんとも気になります。ここにあるという事は何か関連があるはず・・と言う事でネットの海を探してみましたが、由来を示すものなどは一切見つかりませんでした。

館内の見学は最後にして、周辺の散策を先にということで向かったのは「岐阜県刃物会館」。

古来より著名な刀工を輩出してきた「大和(奈良県)、山城(京都府)、備前(岡山県)、相州(神奈川県)」そして「美濃(岐阜県)」。ここ関は「五箇伝(ごかでん)」と呼ばれる美濃の地域にあり、今も刃物関連の企業が数多く存在しています。刀鍛冶の一場面を捉えた壁のレリーフは、このまま額にして飾りたいくらい素敵です。

丁度観光バスが乗り付けた所為で、館内は一気に人が溢れ、賑やかな品定めがあちこちで始まりました。我がご亭主殿も、お高そうな😅小刀やナイフが並んだショーケースに釘付け、しばらく動きそうにありません。

続いて立ち寄ったのは、世界初の刃物総合博物館「フェザーミュージアム」。「切る」の物語を楽しみながら学べる、日本でも珍しいカミソリ専門の博物館。「フェザー安全剃刀日ノ出工場」内にあり、自社や世界の様々なカミソリが展示されています。もちろん、カミソリ以外の物も含めての展示数は5,000点以上に及び、しかも入館は無料😍

こちらの施設は2010年11月の岐阜の旅で見学させていただきました。シンボルの巨大なカミソリホルダーは、10年前と変わらない姿で健在。変わらない景色というのは、我々のような隙間を楽しむ旅人には、最高のおもてなしに思えます。

敷地内に祀られている屋敷神、この水盤は多分その為の手水だと思うのですが、向かい合った「F」の字で囲まれています。こういう遊び心って、凄く素敵だと思いませんか😄

 2010年に立ち寄った刃物ミュージアム、八年前に遡っての思い出は明日のブログで😄

訪問日:2018年10月12日


富加・あちこちウォッチ in 岐阜県富加町

2020年02月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

車中泊での旅に目覚めた2010年。その年最後の11月に訪問先に選んだ岐阜県関市とその周辺。夕刻近くにたまたま通りかかって見かけた「松井酒造店」

富加町加治田にある酒造場で、「半布里戸籍」「加治田城」などの酒を生産しています。先を急がなければいけない時間でしたが、素通りするにはあまりにも惜しい景色。写真に残すだけ、数分だけで良いからと車を止めてもらい、薄ぼんやりとした明るさの中でデジカメを向けました。

本当は、お店の横の駐車スペース?の隅に文化財指定の看板があった気が・・・とは言え、無理やり車を停めて貰っているし、この時はj🐣さんも一緒だったしで、我儘はいえません😣 後日、自宅に帰って調べたところ、酒蔵の建築年代は江戸時代中期の寛政年間、「松井屋酒造資料館」として酒蔵用具、古文書とともに一般公開されているとのこと。また2階には、明治から昭和初期の生活道具も展示されているそうで、流石にもっと広範囲に調べておくべきだったと後悔😥

「松井酒造の酒造場3棟、酒造用具3143点及び酒造文書459点が、県重要有形民俗文化財の指定を受けています。」

訪問日:2010年11月27日

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マンホール探しの際にたまたま遭遇した長良川鉄道の一両電車。地元の方にはきっと日常のありきたりな景色なのに、なぜか一両だけと言う事に、不思議と惹き付けられるのです。

一両電車に触発されたわけではありませんが、折角なので通り道にある長良川鉄道:「富加駅」に立ち寄ってもらいました。

面白い事に、富加駅のホーム西半分は美濃加茂市加茂野町鷹之巣に位置しており、昭和61年12月に旧国鉄越美南線から長良川鉄道に転換するまでは、「加茂野駅」と言う駅名だったと知りました。

好奇心丸出しでホームから構内を散策していると、電車が近づいてくるアナウンス! こういう機会は、鉄道目的でない私たちには滅多に無いチャンス、ワクワクと電車を待ちます。 

右手から入ってきたのは、長良川鉄道が2007年から2009年にかけて製造した濃い小豆色の「ナガラ500形気動車501」。

おや、今度は反対方向から白地の「ナガラ500形気動車503」も近づいて来ました。車体の横一面に、良く見えないのですが何かの模様がラッピングされています。

二台の車両がすれ違うタイミングを待ち、とりあえず自己満足の画像をGet😄

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富加町の訪問では期待大であった「富加町郷土資料館」への訪問。目的は日本最古の半布里戸籍(はにゅうりこせき)。正式には「大宝二年:御野国加毛郡半布里戸籍(みのこくかもぐんはにゅうりこせき」と言います。

【今から約1300年前の大宝二年(702年)に作られた戸籍で、奈良正倉院にひっそりと残されていた現存する最古の戸籍です。半布里(はにゅうり)とは現在の富加町にあたるとされており、町内に残る羽生(はにゅう)という地名が、その名残であると考えられています。】富加町公式HP

説明によれば、54戸、1119人もの人々の氏名・続柄・年齢などがほぼ完全な形で残されており、こうした例は非常に稀有であると云われています。富加町郷土資料館では、その『御野國加毛郡半布里戸籍』のレプリカを見ることが出来ます。

 が・・・休館日の月曜の訪問だった為、玄関のガラス越しに館内の覗き見で終わり😔  本当に、毎回同じ失敗をして・・いいかげん学べよ!と、自分自身に悪態ついてます😩

訪問日:2018年10月12日


中山道太田宿 in 岐阜県美濃加茂市

2020年02月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

中山道六十九次:五十一番目の宿場「太田宿」。中山道の三大難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあった事から大いに栄え、本陣:1軒、脇本陣:1軒、旅籠:20軒を擁し、家数は108軒。今も宿場町の面影を残す町並みには、当時の建物が幾つか現存しています。

「旧太田宿本陣門は、広大な敷地を誇る太田宿の本陣において唯一現存する史跡で、文久元年(1861)10月、皇女和宮の幕府への下向のために建てられたと伝えられます。この門は、一間の薬医門で、両袖に半間の塀がつき、旧本陣の偉容を偲ばせる格式あるつくりです。また、当時の本陣には、幕府大老井伊直弼、水戸の天狗党武田耕雲斎などの有力者も宿泊していたようです。」(中山道会館HPより)

脇本陣:林家住宅は、主屋うだつの鬼瓦の銘から、明和6年(1769)の創建と判明。 林家は江戸中期、脇本陣を勤めるかたわら庄屋として尾張藩太田代官の指揮下で宿の行政事務を取り、また、家業として質屋や味噌・溜の製造販売も営んでいた旧家です。 最盛期には、東西25間の間口、土蔵9棟、馬屋3棟、離れ座敷などを持つ壮大な構えでした。(中山道会館HPより)

大田宿の中では一際目を引く存在で、在りし日の繁栄の様子が伺える佇まい。国重要文化財の建物では、今も普通に暮らしが営まれ、見学は外観のみ。 棟続きの「隠居家」は一列三室型の町屋形式で、最初に建てられた時期は不明。現在の建物は、文政12年(1829)の家相図に基づいて修復されたもので、こちらは内部の見学もできます。

全体を一枚に収めようと思うと、相当後ろに下がらなければ、それでも真正面は無理。

林家住宅向かいの一画を占める「御代桜醸造」、元々太田宿で料理屋を営んでいましたが、明治26年(1893)に酒造業を開始。 御代桜醸造に残る蔵は、明治時代に脇本陣林家のものとして利用されていた蔵を移築、再利用されたといわれています。

「小松屋」の屋号で営まれていた旅籠は、大田宿のお休み処として活用。建物内には、美濃加茂市出身の文学者『坪内逍遥』の資料なども展示されており、畳の室内でゆっくりと寛げる場所となっています。

大田宿の最後は、臨済宗妙心寺派の禅寺「龍興山祐泉寺」。開山の歴史は文明6年(1474)に遡るといわれています。

境内には、大正3年(1914)にこの地を訪れ、旧太田町から旧犬山町までの木曽川がヨーロッパのライン川に似ているとして「日本ライン」と命名した地理学者『志賀重昂』の碑や、槍ケ岳を開山した『播隆上人』の墓碑などが建立されているそうです。

私達が見たのは、境内の立ち入りやすい一画に建立されていた、三つの碑だけ。まずは脇本陣3代目で芭蕉の門弟『林由興(冬甫)』が、師を悼んで建てた芭蕉句碑。

【 春なれや  名もなき山の 朝かすみ 】

太田で生れ育った明治の文豪『坪内逍遙』が述懐の念をこめて詠んだ「椿の歌」二首

【 山椿  咲けるを見ればいにしへを  をさなき時を 神の代をおもふ 】
【 この木の  実ふりにし事ししのばれて  山椿はな いとなつかしも】

『坪内逍遙』歌碑の後ろに見えるのは、『北原白秋』が祐泉寺を訪れ茶席でしたためた歌碑。

【 細葉樫  秋雨ふれりうち見やる  石燈籠の あを苔のいろ】

生憎の雨で、のんびりゆっくりとはいかなかった大田宿の町並み散策はここまで。こうした町歩きは予定時間に縛られず歩かないと、思いがけない発見は見つかりません。

しかも後になって見返せば、見逃してしまった場所の多い事😔、ちょっと悔しいかな。

訪問日:2018年10月11日


村国神社&村国座 in 岐阜県各務原市

2020年02月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

各務原市各務おがせ町に鎮座される「村国神社」。式内社で各務原市内の金弊社五社のうちの一社。各務原市各務地区の産土神とされており、御祭神は『村国男依命(むらくにのおよりのみこと)・ 伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)』

飛鳥時代に『天火明命』と『御子石凝姥命』を祭神として村国氏が創建したと伝えられ、後に『村国志我麻呂』が『村国男依』を合祀。承保3年(900)頃に、「白山権現」を合祀。一の鳥居から二の鳥居、参道の両側に並ぶ石灯籠が、崇敬の篤さを物語っています。

参道の突き当たりに架かる朱の神橋、その先に広がる神域は、思わず深呼吸をしたくなるような清々しい空気。清浄と言う言葉がこんなにしっくりくるのは、神域とを隔てる水の流れの清らかさ故でしょう。

【飛鳥時代、此の地一帯を治めていた村國氏の祖が、『天之火明命』と『御子石凝老命』を御祭神として創建。弘文元年、壬申の乱が興り豪族:村國男依氏は、『大海人皇子』の命を受け大津街道を攻め上がり、大海人皇子の連に大勝をもたらしました。天武4年、天命を全し、此の世を去ると帝より外小柴の位を授り、子息『村國連嶋主』によって、此の社に『村國連男依の命』として祀られ、以来、村國の社と呼び、産土神として代々村國一族が守ってきました。】岐阜県神社庁HPより

拝殿前より神域を守護されるのは、のんびりとした顔立ちが何とも優しいちょび髭の狛犬さん一対。こうして並べると、まるで掛け合い漫才でもしているような雰囲気。

境内に建立されていた句碑【 村国の  男依(おより)をしのぶ 祭り笛 】

神橋を渡りきった先の左手、境内の一画を占める建物は、慶応2年(1866)に美濃国各務村の庄屋が発起人となり、明治10年(1877)に完成した芝居小屋「村国座」

二階建て、白壁の切妻造で、小規模な芝居小屋ですが、回り舞台、仮花道、太夫座、奈落が備えられ、桟敷席は一階と二階にあり、劇場形式の農村舞台となっています。

村国神社奉納歌舞伎は、子供歌舞伎として存続し、毎年十月の第二土・日曜日に行なわれます。そのため、地元の子供たちは八月から稽古に励むんだそうです。

思いがけない場所で遭遇した農村歌舞伎の芝居小屋・・村国座は大規模な改修もなされておらず、江戸時代~明治時代の地方の芝居小屋として貴重である事から、「各務の舞台(かがみのぶたい)」として重要有形民俗文化財に指定されています。

参拝日:2012年5月14日

各務原市は、2016年11月12日掲載の「ご当地マンホール」も含め、神社も幾つか紹介しています。興味のある方は、上記のリンクをクリックしてね😊


手力雄(たぢからお)神社 in 岐阜県岐阜市

2020年02月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

岐阜市蔵前に鎮座される「手力雄(たぢからお)神社」。御祭神は『天手力雄神(あめのたぢからおのみこと)』。通称「手力様」と称され、古来より近隣の方々の産土神として崇敬されています。

朱塗りの三の鳥居は道路の半分を占める大きさですが、じつはこの道路「手力雄神社」の参道で、私道😲。祭礼に使用しない時は市民に開放されているのです。しかも一の鳥居は、はるか大垣市の赤坂にあるそうです😲。

二の鳥居 は中山道と手力雄神社参道との境にあり、近くには「左 木曽路」と刻まれた道標が残されています。

境内入り口の靖国鳥居がさしずめ四の鳥居となるのでしょうか?それとも複数の鳥居が有る場合、拝殿に一番近い場所は、たんに「鳥居」なのでしょうか?

由緒に「貞観2年(860年)に鎮座したと伝えられる。弘治年間には斉藤氏の祈願所になる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、当社を祈願所としていた織田氏が西軍についたため徳川家康の襲撃を受け、神体などごく一部を除き全焼した。」

元和年間(1615~1624)に本殿・拝殿などを再建。幣殿・拝殿は明治13年(1881)に再度造営。現在の社殿は2008年の造営です。

石灯籠と狛犬さんが交互に並ぶ参道、拝殿への左右には、四対の狛犬さんが神域を守護されています。しかも、どの狛犬さんも個性豊か、狛犬好きには嬉しい面々です。

鳥居のすぐ近くより神域を守護されるのは、明治30年(1897)9月建立の狛犬さん一対。精緻ではないですが、笑った顔がなんとも愛嬌たっぷり。

こちらは大正4年(1915)11月建立の浪花型狛犬さん一対。更にその先には、昭和15年建立の鈴しょうわ狛犬さんも居ました。

最後は明治27年(1894)8月建立の垂れ耳、獅子顔の狛犬さん一対。笑いかけているような顔立ちに、思わず釣られてニィ~~~😄・・心が和みます。

神社から程近い「手力尾橋」のレリーフは、神社の祭礼の様子を描いたもの。毎年4月第2土曜日に行われる春の大祭「火祭り」は、岐阜県重要無形民族文化財に指定されています。

参拝日:2012年5月14日


領下(りょうげ)八幡神社 in 岐阜県岐阜市

2020年02月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

岐阜市領下往還南に鎮座される「領下(りょうげ)八幡神社」。御祭神は不詳ですが『応神天皇』と思われます。

貞観(860年~)の頃、三野厚見郡の大領:各務吉宗の居住した地に一族の守護神を祭り、以後霊地として領下地区の産土神として崇敬されています。

拝殿前より神域を守護されるのは昭和8年(1933)1月建立の、髭の狛犬さん。吽形さんの手の下で遊ぶ仔狛は、体に見合った鞠を抱いて得意げ。

ご本殿への直接参拝が出来るようで、拝殿後方に回り込んで改めて参拝🙏🙏。

本殿正面に施された彫刻の素晴らしさ😍 扉の美しさもですが、左右に控える龍も、向背から見下ろす龍も😍。これだから寺社彫刻の見聞はやめられません。

最後は、本殿玉垣内から神域を守護される、昭和8年(1933)1月建立の狛犬さん。吽形さんはちょっとニヒルに、阿形さんの大きく開けた口からは「ガッハッハァ~」と豪快な笑い声が聞こえそう。

参拝日:2012年5月14日


石切神社 in 岐阜県岐阜市

2020年02月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

岐阜市下川手に鎮座される「銀幣社:石切神社」。御祭神は『石凝姥命(いしこりどめのみこと)』。岩戸開きに際して鏡を作った神とされ、天孫降臨に従った五神の一人、「鏡作部(かがみつくりべ)」の祖神とされます。

「土岐家代々崇敬の神社にして古昔は土岐郡大冨村に鎮座ありしを、尾張勢三国の管領『土岐頼康』により当地に勧請し、文和二年城郭の東北に遷宮し鬼門除の守護神として奉崇す。天文十一年『斎藤道三』により土岐家滅亡す。夫れより川手領下両村の氏神とす。」岐阜県神社庁より

拝殿前より神域を守護されるのは、明治34年(1901)10月吉辰日建立の狛犬さん一対。特に吽形さんの何ともすました顔が、妙に私のツボを捉えました。

手水舎の近くに作られた神池らしき場所、石橋の先には小さな社が祭られています。

鮮やかな朱の鳥居は「境内社:厚見稲荷」。御祭神は『倉稲魂神(うかのみたまのかみ)』。奥行きの深さと鳥居の間隔が絶妙で、気持ちが洗われるような感覚。

参拝日:2012年5月14日