goo blog サービス終了のお知らせ 

車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

飛騨の小京都 in 岐阜県高山市

2020年03月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昔懐かしい町並みが今も数多く残る高山市。城下町の中心にあり、商人町として発達した上町、下町の三筋の町並みは「三町伝統的建造物群保存地区」の呼び名で、国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

市のHPによれば、「高山市上一之町・上二之町・上三之町・片原町・神明町4丁目の各一部と、下二之町大新町、高山市下一之町・下二之町・下三之町・八幡町・大新町1丁目・大新町2丁目・大新町3丁目・大新町4丁目の各一部」と記載があり、住居表示だけを見てもかなりの広範囲にわたります。

私達が丸一日をかけて費やした町歩きが、何処のどの通りだったのか、今となっては全く不明ですが、それでも僅かにこの辺りは「大新町一丁目」だったはず、でも間違いないかといわれれば・・・明快に「ハイ!」と言えません😓

宮川沿いの道を行きつ戻りつ、気になる角を折れて曲がって、行き着いた先々の景色に感動した高山の町並は、まさに飛騨の小京都と呼ばれるに相応しい。ちなみに私の個人的な感想でいうなら、観光地化してしまった京都の表の町並には、こんなにしっとりとした風情はありません。

町歩きの先々で紹介される特別な建物、私も真似て幾つか紹介してみます。まずは明治12年(1879)築の「日下部家住宅」。江戸時代の建築技術が集大成された美しい佇まいは、全国でも第一級の町屋として国指定重要文化財に指定されています。

「日下部家住宅」に隣接するのは、明治40年(1907)に建てられた「吉島家住宅」。江戸後期頃から生糸繭の売買などで栄えた家柄で、洗練された町家の佇まいは景観の重要な位置を占めており、同じく国指定文化財の指定。

屋根に取り付けられた卯建(うだつ)の見事な事、ちなみに卯建とは、小屋根のついた防火壁の事を言いますが、実は一口に卯建といっても、多種多様な形式があり、それだけで十分に観光の表役者になれる存在なのです。

ふらふらと、特に決められたコースで無い路地を歩くのは、迷子になりかねない危険も有るけど😅、単純に面白く、時間があっという間に過ぎてゆく感じ。

日本家屋の板塀越しに見えるお宅が、洋風の建物だったり、でもそれが妙にしっくり馴染んで見えるのも、この町ならではの魅力かもしれません。

一際立派な建物は、三町伝統的建造物群保存地区の南端・神明町4丁目に建つ「高山市政記念館」。明治28年から昭和43年まで町役場・市役所として利用され、その後昭和61年まで公民館として使用されていました。

和洋折衷の2階建て総檜造りの建物には、高山で最初に導入された「硝子障子(ガラス窓)」が嵌め込まれ、当時の町の勢いを物語っています。建物・その他は『旧高山町役場 附棟札及び新築関係書類』として、高山市文化財の指定を受けています。

「藤井美術民芸館」には、高山市の医師『藤井糺一(ただいち)』が大正中期から約70年にわたり収集した、安土桃山時代からの古美術品等、約2,500点が収蔵・公開されています。今回は興味の度合いと時間の関係で素通り😓

八軒町に残る国指定史跡「高山陣屋」は、高山城主:金森氏の下屋敷の一つ。金森氏が上ノ山(山形県)へ移されて後は、幕府直轄地の役所となり、代官や郡代などによる政治が執り行われてきました。

明治に入ってからは、県庁、郡役所、支庁、県事務所など、代々地方の役所として使われてきました。このような郡代役所の建物が残っているのは全国でも高山市だけだそうです。

町の主要な通りに出ると、修学旅行らしき一団が、眩しいほどの若さを振りまいて近づいて来ました。派手で五月蝿いだけの団体観光客は苦手ですが、何故か制服姿の集団は、古い町並みにとても良く似合っています。何かの拍子に聞こえるお国言葉に、かってそんな姿で見知らぬ観光地を歩いた自分の制服姿が重なり、泣きたいような甘酸っぱさを思い出させてくれるのです。

町の辻のささやかなお社は、櫻山八幡神社社号標の右手に鎮座されていた「鳳凰台組秋葉社」。長い説明ですが【秋の高山祭 (十月九日 土日)には、祭りの華ともいうべき屋台が十一台出ます。この一台、一台の屋台を維持管理するのが屋台組みと呼ばれる町内組織です。屋台組みには組内の火防鎮護と町内安全を願って、古くから秋葉神 を祀る風習があります。この秋葉神は鳳凰台組内の火伏せの神として遠州秋葉山本宮 よりご分霊を勧請して深く尊崇され、篤い信仰を集めてきました。祭神は、迦具土神(かぐつちのかみ)又の名を火産霊神(ほむすびのかみ)とお呼びします】

火防鎮護の神として人々に敬われてきた「秋葉様」。実はこのような社は、大小の違いはあるものの、この高山の町歩きのいたるところで目にする事ができます。日本三大美祭の一つにも数えられている「秋の高山祭り」を支える屋台組組織。その方々によって大切に受け継がれてきた火伏せの秋葉信仰・・何処かの番組の台詞ではないですが「日本って良いなぁ~」😄

訪問日:2012年5月17日


櫻山(さくらやま)八幡宮 in 岐阜県高山市

2020年03月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

高山市桜町に鎮座される「櫻山(さくらやま)八幡宮」。御祭神は『応神天皇』、相殿に『熱田大神・香椎(かしい)大神』を祀ります。例祭:八幡祭は「秋の高山祭」として全国に知られており、11台の屋台が町を巡る曳き廻しや、布袋台のからくり奉納など、伝統的な祭行事が楽しめます。

【仁徳天皇の御代(377年頃)、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という凶族が天皇に背いて猛威を振るい人民を脅かしていた。征討将軍の勅命を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)は、官軍を率いて飛騨に入った(日本書紀)。武振熊命が、当時の先帝応神天皇の御尊霊を奉祀し、戦勝祈願をこの桜山の神域で行ったのが創祀と伝えられる。大永年間(室町時代、16世紀)京都の石清水八幡宮より勘請したが、戦乱により荒廃。元和9年(1623)高山領主金森重頼は、江名子川から発見された御神像を八幡神と奉安し、社殿を再興し神領地を寄進した。明治8年高山の大火により、末社秋葉神社を除きほとんど消失したが、同年33年までに境内復興が完了する。】櫻山八幡宮公式HPより

往古、神域には数百本の桜樹が花を競ったと伝えられる「櫻山八幡宮」。御神紋もそれに相応しい桜紋ですが・・・これは多分「丸に八重大和桜」。

石造の二の鳥居は享保15年(1730)、青銅製の社号額と共に飛騨代官『長谷川忠崇』によって奉納。

「逆さ桐の灯籠」、石灯篭の火袋の下に掘られた桐の紋が、一ヶ所だけ逆向きに掘られています。意図的に不完全なところを一ヶ所作っておくことで、まだ完成していないので壊れないと言う呪いを表すのだとか。石に彫られた紋なので鮮明ではありませんが、右下が正しい向きの桐紋。

神門に続く大石段は、長さ330センチの19段がすべて一枚岩で造られています。その先、神門の左右より神域を守護されるのは、まだ新しい狛犬さん。

 拝殿の向かって左隣、右から末社「照前神社:天満神社・稲荷神社・琴平神社」。画像の都合上、紹介の順番はバラバラ。

画像左は「末社:照前神社」御祭神は『浪速根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)』。両面宿儺討伐の戦勝祈願に應神天皇の御尊霊を奉祀され、当宮を創祀された神とされます。

画像右は「琴平神社」 御祭神は『大物主神・崇徳天皇』。社殿の天井には天狗の絵があり、それにロで噛んだ紙を投げつけて天井につけば、病気が全快すると言い伝えられています。

「末社:稲荷神社」、御祭神は『倉稲魂命』。江戸時代の始め、衣食住の太祖「万民宝栄の神」として深い信仰を受け、ご神威の高い伏見稲荷神社のご分霊を勧進して奉祀。

社殿前から神域を守護される「稲荷のお狐様」、さほど古いものではないと思われます。

「末社:天満神社」、御祭神は『菅原道真公』。宝暦四年(1754)に京都の北野天満宮より勧請。天神様には必須の「筆塚」。

「大原代官寄進の灯籠」。側の説明を要約すると「大原紹正は天領飛騨第十二代目の代官で、明和三年(1766)に着任して飛騨一円の統治にあたった。崇神の念強く、安永七年(1778)に灯籠一対を奉納。安永二年(1773)、幕府の苛酷な検地命令に反対して起こった一揆を鎮圧、再検地の強行で飛騨国を増石した功により郡代に昇格した。」と・・・農民にとっては鬼の代官ですが、そういう時代だったのです。

手水舎の「大手水石(おおてみずいし)」は、明治十年(1877)十月 上宝村の石工:『朝岩平吉』が一個の石を刻んだもので、「寒澄清徹」の銘があります。

昭和63年に現在地に移転された絵馬堂。周囲の壁には崇敬者より奉納された沢山の絵馬が架けられています。いずれも奉納絵馬の名に相応しく古今様々な「神馬」が描かれています。

絵馬に描かれた「神馬」も素敵ですが、社紋の腹掛けをつけた「神馬」も凛々しくて美しいですね。

絵馬殿の後方に「秋葉神社」への石段があり、その両脇に護国タイプの狛犬さんが神域を守護されています。他にも狛犬の奉納はあったのですが、ご亭主殿は見向きもしませんでした。狛犬さん達・・すみません😔

境内から見えていた建物は、高山祭の実物屋台を常設展示する「高山祭屋台会館」。江戸時代後期、大輪の牡丹のように花開いた高山祭の屋台は、国指定重要有形文化財に指定されています。

参拝日:2012年5月17日


飛騨民俗村・飛騨の里 in 岐阜県高山市

2020年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

今日のブログは、まだ私たちが車中泊に目覚める前の話。主にバイクタンデムの後部座席を主たる移動手段としていたけれど、当然、移動距離は限られます。さらに厄介な病気になった所為でバイクの後部座席も無理になり、沈みがちな日々が続いていたある日、車移動で高速を使えば、行きたいと言っていた飛騨だって日帰り出来ると・・・ご亭主殿から提案されました。

初めて走る東海北陸自動車道からの景色、初めて立ち寄るSA・PA。中国道・山陽道しか知らなかった私にとって、窓から見える景色はそれだけで別世界でした。

36個のトンネル(数えた)に驚嘆しつつ、3時間半かけてたどり着いた目的地は、高山市上岡本町にある「飛騨民俗村・飛騨の里」、正式名称は「飛騨民俗村」。この景色を見ただけで、もうすでに感動・感激モード😭

「飛騨の里に移築された茅葺き屋根の民家は6軒。合掌造り家屋と入母屋造り家屋に分けられます。茅葺き民家は飛騨地方でも豪雪地域にあたる北部、旧大野郡白川村・荘川村、旧吉城郡神岡町・宮川村・河合村などに多く見られました。なかでも白川・荘川の茅葺き民家は屋根が合掌した手の形に似ていることから「合掌造り」と呼ばれています。飛騨の里では、旧若山家・旧西岡家の「切妻合掌造り」の建物と旧吉真家に代表される「入母屋造り」の建物を公開しています。厳しい自然と向き合った飛騨のくらしが 合掌造りを生み出しました。」公式HPより

眼前に広がる「五阿弥池」は、昭和初期に新宮地区の水田用の貯水池として造成されたもの。緑の山々を背景にした池の面は、写しこんだ山の緑よりも深い碧に染まっています。池の畔にあるのは、旧高根村大字中洞から移築した水車を利用した粉ひき用の「わらび粉小屋」。当時は、わらび粉の採集、製造時には山中にあるこの小屋に住み込んで作業をしたそうです。後方に見える合掌造りの建物は、白川村大字長瀬より移築された「ハサ小屋」。収穫物の乾燥と作業に使われていました。

切妻造、板葺石置屋根の建物は、岐阜県指定重要文化財「旧新井家」。旧清見村池本の小鳥川沿いに建っていた農家で、江戸時代後期の建造とされています。1階軒下から突出した腕木の先の白い胡粉は高山の町人の中でも「旦那衆」と呼ばれる裕福な家のみに、塗る事を許されたものでした。

画像の左手、切妻造、板葺石置屋根の「旧田中家(国指定重要文化財)」。江戸時代の国学者『田中大秀』は、高山一之町で薬種商を営む「田中屋」の三男として生まれました。財産家だった田中家は商売のかたわら冬頭村(現高山市冬頭町)に田畑を所有し、小作人に貸し与えていました。この建物はそれらを管理する「田舎(でんしゃ)」として用いられていました。

「旧田中家」の手前右にあるのは、高山市一之宮町山下より移築された「旧中藪家(県指定重要文化財)」。軒高が低く、勾配がゆるい板葺石置屋根。 旧中藪家では、囲炉裏のあるオエから作業場のニワまで、床板を張らず、土間のままで生活していました。こうした床形式は「土座形式」といい、江戸時代中期以前に遡るといわれ、飛騨地方の民家の中でも非常に古い形態といえます。この日は、数少ない「クレヘギ」職人である『山口末造氏』による、クレヘギ作りの実演を見せて頂くことができました。( クレヘギは屋根に葺く板葺材)

山の水を引いた洗い場。ここで野菜や食器などを洗っていたのでしょうが、冬場はさぞかし寒くて冷たかったでしょうね。それでも川で直接・・に比べれば格段の設備であったと思われます。

昭和33年(1958)、御母衣ダムの建設によって水没する事になった「旧若山家(重要文化財)」。昭和34年に大野郡白川郷下滝村から高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなりました。

建物の2階は主に「おカイコさん」の飼育場として活用されていたそうで、その広さに驚かされましたが、何よりも、緻密に作り上げられた合掌造りの構造をじっくり見せて頂けたことに感動😍。

飛騨民俗村の建物の中では「旧若山家」の人気が一番高く、内部の見学を終えても人の姿が途切れることはありません。たくさんの観光客がひっきりなしに訪れ、記念の一枚のシャッター係を仰せつかります😅 で、お礼にとシャッターを押してくれます😄

でも流石に裏手に回って来る人はいませんね。良い景色なのに・・

1996年から約3ヶ年かけて飛騨の里に再移築された「旧若山家」。移築に際して当時の風景を忠実に再現するため、家のまわりには石垣、川、段々畑、裏の池などがつくられたそうです。

旧若山家の西側に建つのは、旧河合村大字保から移築した「立保(たてほ)神社拝殿と舞台」。立保神社は鈿女・白山・国作大神社の三社を合祀した神社で、三社の拝殿を集めて建てられました。上を拝殿、下に舞台、もうひとつを神饌殿として使用。飛騨の里に移築した際にこれを楽屋にして、花道でつなぎました。「神様に奉納する神事」は、雪深い地で暮らす人たちにとって、実はとても大切な娯楽の一つでもあったのです。

飛騨北部の豪雪地帯にあった茅葺き入母屋造りの「旧八月一日(ほづみ)家(市指定重要文化財)」。旧大野郡荘川村にあった西願寺の庫裡として建築。室内では飛騨地方で用いられた「ソリ」が多数展示されています。飛騨地方においてソリは、積雪の多い冬期間の最も重要な運搬手段であり、用途に応じて様々な種類のソリが考案され、用いられていました。

屋根部分の破風の中には、「鼻小屋」と呼ばれる小さな屋根付きの出窓が設けられており、屋根裏の採光に使われていました。

旧八月一日家の横に立つ「鐘堂(大正6年建築)」は、揣岸寺(臨済宗妙心寺派・都竹清隆住職)より寄付されたものです。

「旧冨田家(県指定重要文化財)」は飛騨市神岡町杉山、飛騨地方と富山を結ぶ越中東街道沿いにあり、「茂住(もずみ)鉱山」の仕送人として荷物や牛馬の中継を営んでいました。家の構造はチョウナ造りと呼ばれ、中央部分の居住空間を高く抜いて右側に中二階を設けた、茅葺き入母屋造りの飛騨地方北部の建築様式を色濃く伝えたものです。

暖かな日差しが差し込む縁側近くの部屋では、地元の方による「飛騨さしこ」の実演が行われており、小物の販売もされています。

ある種のテーマパークでありながら、ここには確かな人の息遣いが残されています。使い込まれ、鋼鉄のように固くしまったた土間の土の色、わずかに残る柱の小さな傷・・そこには確かに「家族」の暮らしがあったのです。

実りの田の向こうに見えるのは「匠神社」の石鳥居。本殿は旧河合村保にあった「鈿女(うずめ)神社」を移築したもの。覆殿は旧宮川村加賀沢の「白山神社拝殿」、丹生川町からおいでになった「狛犬さん」・・・いずれも飛騨の里のために各地から集められて作られた神社だそうです。

コットン・・コットン・・・水の流れに促されて水車がゆっくりと回っています。静かな山間の村にこれほどふさわしいバックミュージックが他にあるでしょうか。

丘の上に祀られていた小さなお社も・・・・きっと何処からか移されてきたのでしょう。神は人の敬いによって神になると言われます。このお社に鎮座される神が永遠に神であられますように・・

最後の茅葺民家は白川村加須良より移築された「旧西岡家(県指定重要文化財)」。この時は茅葺屋根の補修もしくは修繕がなされており、内部の見学はできませんでしたが、別の意味で興味深い経験が出来ました。旧西岡家があった加須良地区は白川村最北の集落、峠を一つ越えれば富山県五箇山の上平村に至ります。

白川村・・五箇山・・・この時思ったのです。絶対にいつかそこに立って、人の暮らしの中にある合掌集落を見たい。その時から五年の歳月を経て、画期的な医学の進歩に救われ、さらに車中泊という移動手段を見つけた・・。そうして、さらに二年の後、この時の願いは、飛騨民俗村訪問から七年後。2012年5月の白川村、更に10月の五箇山訪問で本当に現実のものになりました。

訪問日:2005年9月24日


下呂市小坂地区~道草ウォッチ in 岐阜県下呂市小坂

2020年03月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

小坂町のマンホールは、中部の駅百選の第1回選定駅(25駅)に選出された「飛驒小坂駅」の周辺にも設置されています。素晴らしいと評判の建物は、出来ることなら見ておきたいという私の要望に応え、マンホール撮影も兼ねて、夕暮れ間近の「飛驒小坂駅」に立ち寄ってもらいました。

小坂温泉郷と御嶽山登山口の玄関駅である駅舎は、開業当初からの丸太造り山小屋風で独特の風情があります。御嶽山飛騨側の登山口であることから、正面には神社の神殿にあるような千木が設けられているのも、流石は・・と思わせられました。

人の気配が途絶えた駅のホームは、何故か無性に人恋しくて思わずご亭主殿の姿を探してしまいます。差し出した手を握り返してくれるその温もりが、年甲斐も無くふわっと心に染みて、そのまま向こうに見える山をただ・・見つめていました。

御岳山麓に広がる大自然には、ニホンカモシカやニホンツキノワグマ、ニホンザルなど多くの生き物が生息しており、特に「どんびき平」と呼ばれる湿原の周辺では、ニホンカモシカの姿が頻繁に見られるそうです。

日本の固有種で、天然記念物にも指定されているという「ニホンカモシカ」。見たいとは思いますが御岳山に行くことは絶対に無理!。でも小坂駅近くにある「大島橋」まで行けば、何と!四頭のニホンカモシカが出迎えてくれます😄

今夜の車泊地に予定していた「道の駅:南飛騨小坂」。すぐ裏には小坂川が流れ、駅の西200mの県道沿いからは御嶽山を望める・・日中の人の往来があるロケーションなら最高に素敵なのですが、生憎と周りには猫の子一匹居ません。

県道437号沿いにあるという事でそれなりに賑やかかなと思っていましたが・・・・閉店と同時に人の気配がなくなり、シ~~~ンという音があたりを包み込む感じ。そこそこの町中に住んでいるので、少々賑やかでも眠れますが、度を越す静かさの中では全く眠れません。寝ないと明日の活動に差し障ります。近くに別の道の駅があるということで、急遽移動となりました。

訪問日:2012年5月16日

静かすぎて寂しいからという理由で車泊地を変更する・・・よくある事です😣


白王(はくおう)神社 in 岐阜県下呂市萩原町

2020年03月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

下呂市萩原町野上に鎮座される「白王(はくおう)神社 」。御祭神は『伊邪那岐命・伊邪那美命・ 菊理姫命・応神天皇・八王子神』

「創建年代は不詳。往古より「高峰仏ヶ尾山」への山岳崇拝による前宮として建立されたと伝えられます。中世以降に白山信仰に変わり、明治四十一年に、区内各村社・無格社等を合併合祀して「白王神社」と改称。」

鳥居の内、石段参道途中より神域を守護されるのは、明治19年12月建立の招魂社系の狛犬さん。 招魂社系ですが、お顔の真ん中、鼻の特徴が「イノシシ」😅

境外末社「浅水稲荷社」、『倉稲魂神』をご祭神とします。

参拝日:2012年5月16日


下呂温泉:合掌村 in 岐阜県下呂市

2020年03月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

下呂温泉でもっとも規模の大きい観光施設として2010年夏に竣工された「下呂温泉:合掌村」。重要文化財の「旧大戸家住宅」を中心に、白川郷・五箇山から移築保存された合掌造り家屋10棟が里山に点在。飛騨の生活文化が体験できる屋外型博物館です。

入場料は大人800円、受付・売店は「旧大濱家住宅」の建物で、ここから先に「合掌茶屋:旧井波家住宅」。旧岩崎家の建物を利用した民族資料館があります。

集落では一際存在感を放つ民家は「旧大戸家住宅」。白川郷の御母衣字上洞にあったもので、御母衣ダム建設の際に解体され、この地に移築されました。天保4年(1833))から弘化3年(1846)まで、13年の歳月をかけて建造されものと「棟札」に記録されています。

鳥居と石灯篭が見えるこのささやかな場所には、どんな神が祀られているのでしょう?、周囲を歩きながらに垣間見る立地では、確かなことは何もわかりません。

私たちは、合掌の里と歳時記の森を結ぶ道路上を歩いています。そこから見える景色は、間近に見るものとはまったく別の、美しく懐かしい光景を展開しています。

あの建物は何処だろう?こうして見ると、僅か十軒の集落だと言うのが信じられないくらい、はるか向こうにまで茅葺屋根が連なって見えます。

2005年に一日かけて散策した「飛騨の里」、きっと此処とそんなに大差は無いだろう。数日後には白川郷に行き、そこで丸一日を費やす予定。全く興味が無いわけではないけれど、今回は周囲を歩くだけに留めました。この先も予定はびっしり、先に進まなくてはいけないのです。

訪問日:2012年5月16日


下呂温泉・足湯巡りの 町歩き~其の三 in 岐阜県下呂市

2020年03月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「江戸時代、ここ下呂郷湯之島から、富山、高山や、金山、蹟、中仙道大田宿を結ぶ飛騨街道と、中仙道中津川宿に至る南北街道がわかれていました。このように交通の要所のため、湯之島(下呂宿)には本陣や、荷駄の取次ぎのための馬繋場として伝馬宿が置かれ賑わいを見せていました。~中略~ 湯之島には、伝馬宿があったこの場所に高札場を儲け、荷駄高札や、年間三万人を超す湯治客に関するお触れも掲示されたものと思われます。」湯之島の高札場より

いにしえの宿場の雰囲気を取り戻そうと言う事で、かって問屋場が置かれていた場所に復元された「高札場」。夜になるとライトアップもされるそうですが、この時は私たち以外に誰も立ち止まる人は居ませんでした。

石畳の湯の街通りを歩いていると、ちょっとした植え込みの影から、モザイクの「カエル」さんが顔を覗かせ、楽しませてくれます。

町歩きの楽しみの一つでもあるお店の暖簾観察。あっちにもこっちにも趣向を凝らしたカエルさんの絵があり、おかげで中々先に進めません。そうそう、カエルと言えば・・湯の街通り沿いに鎮座する「下呂温泉:加恵瑠(かえる)神社」。下呂温泉街の新しい観光名所として2010年7月創建されました。「げろ」にちなんだネーミングと「無事帰る」などの語呂合わせで、縁起やご利益を楽しむスポットとなっています。

「加恵瑠(かえる)神社」なので、石灯籠の円窓はカエルのシルエット、手水鉢の上にもカエル、もちろん奉納の絵馬も「カエル」、となれば、当然・・・・・・

そう、ご神体も「加恵瑠様」。形としては玉に手を置く仕草とか、注連縄の巻かれた体とか・・神社の狛犬さんっぽいイメージなのですが、きっとそれは触れてはいけない「コト」なのかも😣

が、何と言っても私のお気に入りは、拝殿前に掛けられた「紋幕」。染め抜かれた「加恵瑠紋」を見た瞬間、二人顔を見合わせてニンマリ😄 こういうセンス、大好きです。

本日五つ目の足湯は、「加恵瑠神社」の斜向かいにあるヒノキ造りの「鷺の足湯」。下呂温泉街で一番最初に誕生した足湯という事で訪れる人も多く、何度か観光客の方と同席しました。さすがに五つ目ともなると足湯巡りも義務のような感じで、滞在時間はどんどん短くなります😅

有名な足湯と言うことで、敷地には観光地名物?の顔出し、その近くには、かって飛騨街道にあったという「常夜灯」が保存展示されています。

湯の街通りから少し坂を下った先に、白いロマネスク風の建物が見えてきました。1925年から続くという歴史のある公衆浴場「白鷺の湯」。建物の右手には「日本三名泉 発祥之地」碑が建立されています。

という事で足湯巡りの最後は、「白鷺の湯」の前に造られた「ビーナスの足湯」。円形の湯船の真ん中には、その名の通り、ビーナス像が置かれています。最後の足湯巡りの証拠写真の為に頑張って足を浸けましたが、三分ともちませんでした。

無料の足湯は、下呂庁舎脇に2008年にオープンした「田の神の足湯」が残っていますが、流石にもうお腹一杯・・いや、飲んではいないので何と言えば良いのだろう😅。結局、足湯の写真そのものも残さないまま退散。

下呂温泉の名所巡り、もう少し続きますが、それはまた明日に。

訪問日:2012年5月16日


下呂温泉・足湯巡りの 町歩き~其の二 in 岐阜県下呂市

2020年03月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「下呂ロイヤルホテル雅亭」の別館敷地内、等身大の「さるぼぼ弁財天」がお出迎えしてくれる「さるぼぼ七福神社」。その名の通り、七福神になった「さるぼぼさん」が祀られている可愛い神社です。

どれくらい等身大かと言うと、これくらい😆  。「さるぼぼ恵比寿さん」、二頭身なので、顔デカイ!!😲

銀ネズ色の「さるぼぼ布袋尊」。黄金色の「さるぼぼ寿老人」は、いつでも何処でも、さるぼぼになっても、亀さんと一緒。

青いお体に真っ白いお髭の「さるぼぼ福禄寿」。緑のお体の「さるぼぼ毘沙門天」

お社の手前にある「さるぼぼ黄金の足湯」で、黄金の宝船に乗った“さるぼぼ七福神”を見ながら、のんびりと足湯を楽しむ・・とっても贅沢な感じ。眩しい黄金の湯に足を浸せば、「運気」も「幸運」アップも叶うかも😍 

金色に輝くお湯で足の疲れもほぐれたら「さるぼぼ大黒天」がお出迎えしてくれる「おみやげ処」で、お土産の品定め😊 。入り口の暖簾には大黒天様に扮した赤いさるぼぼさんが並んでいるのですが、それがとっても可愛いのです。この赤い「さるぼぼ大黒天」、奉納絵馬にも登場してます。

本日四番目の足湯は、「雅亭」の前にある「雅の足湯」。文字に罪は無いのですが、実はここ数年「雅」という文字を見ただけである人物の顔がちらつき、虫唾が走るほどの拒否反応がおきます😣

温泉街にのびる石畳の飛騨街道沿いには、何ともエロティックな『小島功』氏のイラストが点在しています。エロティックですが決してイヤらしくないのは、多分に某お酒メーカーのカッパさんの影響かもしれません。

1984年に下呂温泉の観光PRポスターのイラストを製作した『小島功』氏、私達が下呂を訪問した三年後の2015年4月、87歳でその生涯を閉じました。

下呂温泉:足湯巡りの 町歩き、もう少し続きます。

訪問日:2012年5月16日


下呂温泉・足湯巡りの 町歩き~其の一 in 岐阜県下呂市

2020年03月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

往古より「日本三名泉」と称された「下呂温泉」。アルカリ性単純温泉の湯は無色透明で、別名、美肌の湯とも言われています。

下呂温泉街を突っ切るように流れる飛騨川の河原には「噴泉池」と呼ばれる河原露天風呂があり、心地よさげな湯気をくゆらせています。囲いの一切無い露天風呂で入浴をするには水着が必要だそうです。青空の下の露天温泉・・心惹かれますが流石に水着は準備していない、更にこの状況でお湯につかる根性は無い・・で、手を浸しただけで終了。

下呂温泉の起源は、延喜年間(901~923)とも天暦年間(947~957)ともいわれています。現在の温泉地の東方にある湯ヶ峰(1,067m)の山頂付近に温泉が湧出したのがはじまりで、泉効があり、当時から湯治客があったと言われています。

文永2年(1265)、山頂からの湧出は止まってしまいましたが、飛騨川の河原に湧出しているところを発見され、このことは開湯伝説における「薬師如来が一羽の白鷺に化身し、湧出地を知らせた」として伝えられています。

室町時代の京都五山の僧『万里集九』の詩文集「梅花無尽蔵」「本邦六十余州ごとに霊湯あり。その最たるものは、上州の草津、津陽の有馬、飛州の湯島、この三か所なり」と記され、また江戸時代の儒学者『林羅山』「詩集第三西南行日録」に、「我が国は諸州に温泉を多く有す。その最も著しいものは、摂津の有馬、上州の草津、飛騨の湯島、この三か所なり」と記しています。(当時の泉名は「下呂」ではなく「湯島」と表記されていました。)

「河原露天風呂」は無理ですが、下呂の温泉街には七箇所の無料足湯が設置されています。タオルと冷たいお茶を持って、早速足湯巡り😄 スタートは「モリの足湯」。頭上のビニール傘は、子育てに励むツバメさんの為に用意されたものです。

温泉街の中心、飛騨川を跨ぐ「白鷺橋」。橋の両側にはレトロな雰囲気を演出するガス燈。日暮れてオレンジ色のガス灯に照らされる温泉街、きっとロマンチックな景色でしょうね。

橋の中ほどに作られた案内板、中央に描かれた白鷺と、独特の「下呂温泉」の文字。そして白鷺の頭上、矢印の示す方向には「下呂富士」の文字が見えます。

下呂温泉を日本三名泉の一つとして世に知らしめた『林羅山』の像、足元に集まった猿たちは、まるで何か語りかけるような仕草で『羅山』の手元を見上げています。そういえば、町歩きの途中でこれとよく似た構図の版画絵を見たっけ。

さて、その『林羅山』と向かい合ってベンチに座り、物思いにふけっているのは『チャップリン』の等身大ブロンズ像。なんで下呂温泉に彼が??と気になって調べたら、観光客たちが映画について楽しく語らいながら温泉街散策ができる”映画通り”を目指す「ミラクルマイル」事業なるものが持ち上がり、その第一号として精巧なチャップリン像が誕生。それが2001年の話ですが、他に誰の像もないことを思うと・・・・多分、企画倒れになったのでしょう😅

「白鷺橋」を渡りきった先、下呂温泉旅館会館1階に鎮座されるのは、下呂温泉の恵みと温泉が永遠に湧くことを願って1989年に建立された「下呂温泉神社」。出羽三山の湯殿山の御分霊が祀られています。

本日二つ目の足湯は「足湯の里 ゆあみ屋」の前にある「ゆあみ屋の足湯」。歩き疲れた足にホンワカとした湯のぬくもりは最高、ついでに何ともいえない珈琲の良い香りが鼻腔を刺激します。

下呂温泉:足湯巡りの残りは五カ所、町歩きとあわせて明日に続きます。

訪問日:2012年5月16日


高賀(こうか)神社 in 岐阜県関市洞戸

2020年03月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

関市洞戸高賀に鎮座される「高賀(こうか)神社」。別名「高賀山大本神宮」とも称します。

標高1,224mの高賀山の山麓にあり、高賀山を囲む高賀六社の一社。平安時代から室町時代にかけて、白山信仰の影響を受け、本地垂迹説により十一面観音(白山比咩神)、大日如来を本地仏として信仰。さらには、牛頭天王信仰、虚空蔵菩薩信仰がなされていました。

一の鳥居近くの駐車場に車を置き、ここからは徒歩での参拝。二の鳥居は、車道と参道が平行した形で並んでおり、私たちは鳥居を潜って先に進みます。

二の鳥居をすすむと、木陰に包まれた三の鳥居があり、そこから正式に境内参道となるのですが、何故か説明文とセットに出来る拝殿や境内の写真がありません😔

 

御祭神は『天之御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)・国之常立尊(くにことたちのみこと)・国狭槌尊(くにさづちのみこと)・豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)・泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すひじにのみこと)・大戸道尊(おおとじのみこと)・大戸辺尊(おおとまえのみこと)・面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)・忍穂耳尊(おしほみみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)・天児屋根尊(あまのこやねのみこと)・猿田彦尊(さるたひこのみこと)・素戔嗚尊(すさのおのみこと)・大玉尊(ふとだまのみこと)・金山彦尊尊(かなやまひこのみこと)・日本武尊』。何と二十三柱😲

「創建は奈良時代の養老年間と伝わる。言い伝えによれば、霊亀年間、高賀の地には光を放つ魔物が住み着いた。これを聞いた朝廷は使者を派遣し、この山の麓に21柱の神々をまつり、退魔の祈祷を行なった。すると魔物は姿を消したとされる。その後、この山は「秀でて高き故まためでたい」という意味で「高賀山」、神社を「高賀山大本神宮大行事神社」と名付けたとされる。」

それにしても主要な社殿の写真がこれ一枚だけというのは、私にしてはお粗末😓

理由の一つは、多分境内に建立されていた「高光公とさるとらへび」の像、かたわらの説明によれば、「平安時代の天暦年間、この地に妖怪さるとらへびが住み付き、村人に危害を加えているのを聞いた朝廷は、『藤原高光』をこの地に遣わせ、高光が妖怪を退治したと伝わる。この際に高光が高賀山大本神宮大行事神社を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をしたとされる。またその後、高光は高賀山麓の六ヶ所に神社(高賀六社・後述)を建立したとされている。」この像の迫力にすっかり夢中になって、拝殿も境内社も末社も、後回しになってそれっきりになったのでしょう😔

高光公に馬乗りにされ首根っこを押さえつけられた「さるとら蛇」。今まさに首を落とされようとする怪物の口からは、とうてい、人の使う文字では表せない叫び声が😱。

退治される前の「さるとら蛇」は、神社の絵馬にも使われていますが、どんな心願が成就されるのか・・と言うか、この後首を切られて退治されちゃうんですよね😅

そうそう、先の説明文の中に「なお、美並村を流れる粥川の鰻が『藤原高光』を案内したと伝えられて、今日でもこの地区の人々は鰻を殺さないとのことで、現在、ここに生息する鰻は天然記念物に指定されています。」の一文があるのですが、ここに来る途中の看板にも「古来よりウナギは神の使い」と書かれています。

 と、すっかりこの物語に夢中になって、後で気がつけばそれらしい建物の画像が一枚も無かったと言う・・😓。流石に狛犬さんはご亭主の担当なので外していませんが、さて・・この狛犬さんが守護されていたのは、境内の何処だったんでしょう?本殿へと至る石段脇の狛犬さんとは、別の場所だったという事だけは覚えているのですが。

こちらの絵馬は、江戸時代前期の天台宗僧侶『円空』が彫り上げた狛犬を写したもの。仏師としも知られていた円空が残した「円空仏」と呼ばれる木彫りの仏像は、素朴で優しく、仏教に帰依しないものにも等しく微笑みかけてくれる気がします。

最晩年をこの地で過ごしたと伝えられる『円空』。境内にある「円空記念館」には、高賀神社に所蔵されていた多くの「円空仏」が、「高賀神社伝来円空作仏像群」として保管されており、岐阜県重要文化財に指定されています。今回、この「円空仏」にお目にかかるのを楽しみにしていたのですが・・・日頃の行いの所為なのか、不信心ゆえなのか・・無情な「本日休館日」の札😭

「高賀神社」の絵馬、「円空記念館」のドアの引き手にも使われた円空さんの狛犬。実は予想外の場所で私たちを出迎えてくれて、だから尚更、実物を拝見したかったのです。

この石製の円空狛犬、「高賀神社」参道途中の 高賀川に架かる「円空橋」にいます。面白い・珍しい・古いと形容詞がつく狛犬とあれば、レプリカだろうと何だろうと素通りできないご亭主殿。それはもう大喜びでシャッターを押しっぱなしでした。

「高賀神社」にはもう一つ、とても有名な「ふくべの霊水」と呼ばれる宮水があります。私達が参拝したこの日も、沢山の方がお水取りをされていて、旅の途中の私たちを羨ましがらせました😅

参拝日:2012年5月21日