勤務先に毎月送っていただいている川上村の広報誌「広報かわかみ」(2020年5月号)をぱらぱらめくっているとき、「土倉(どぐら)庄三郎翁の史跡案内看板が完成しました」という記事が目に止まった。そこには、
西河・大滝地区の6ヵ所に吉野杉を使用した「土倉庄三郎翁 史跡案内看板」を設置しました。土倉翁の思想・業績を語り継いでいけるように、土倉翁にまつわるスポットを結び付け周遊できるようにしています。この機会に土倉翁の史跡をぜひご覧になって下さい。
川上村の特産品などを「道の駅 杉の湯川上」で購入(2020.5.11)
日本林業の父と讃えられる土倉庄三郎翁は、奈良県川上村が生んだ偉人である。詳しくは、吉野かわかみ社中のHPをご覧いただきたい。村人は今も、敬愛の念を込めて「土倉翁(どぐらおう)」と呼んでいる。
有名なエピソードがある。明治初年に神仏分離令(廃仏毀釈)、同5年に修験道廃止令が出され、吉野山の寺という寺は廃寺に追い込まれた。職を失った修験者(山伏)の数は、全国で17万人もいたというから驚く。
吉野山の里人は「これでは食べていけない」と、全山の桜を薪炭用として大阪の業者に売り渡す契約をした。それを聞いた土倉翁は「開国で、これから多くの外国人が日本を訪れる。そのとき吉野山を訪ねて桜がなければ、ガッカリする」と嘆き、その代金を自腹でポンと支払って買い戻した。それで今の吉野山の桜が保たれているのだ。
道の駅のうどん屋さんで、美味しいランチをいただいた(同日)
土倉翁は、大正6年(1917年)に亡くなった。平成28年(2016年)には川上村で「土倉庄三郎翁没後100年記念式典」が盛大に催され、翁が支援した同志社大学の総長や日本女子大学の学長の参列もあった。これに先立ち、私もホテル杉の湯で土倉翁に関する講演をさせていただいたが、立ち見が出るほどの盛況だった。同ホテルでは各部屋に田中淳夫著『樹喜王 土倉庄三郎』を置き、宿泊者が自由に読めるようになっていてる。
そこに今回の「史跡案内看板」である。翁ゆかりの場所6ヵ所に設置されているので、これらを周遊する楽しみも生まれた。ぜひ見て回っていただきたい。
西河・大滝地区の6ヵ所に吉野杉を使用した「土倉庄三郎翁 史跡案内看板」を設置しました。土倉翁の思想・業績を語り継いでいけるように、土倉翁にまつわるスポットを結び付け周遊できるようにしています。この機会に土倉翁の史跡をぜひご覧になって下さい。
川上村の特産品などを「道の駅 杉の湯川上」で購入(2020.5.11)
日本林業の父と讃えられる土倉庄三郎翁は、奈良県川上村が生んだ偉人である。詳しくは、吉野かわかみ社中のHPをご覧いただきたい。村人は今も、敬愛の念を込めて「土倉翁(どぐらおう)」と呼んでいる。
有名なエピソードがある。明治初年に神仏分離令(廃仏毀釈)、同5年に修験道廃止令が出され、吉野山の寺という寺は廃寺に追い込まれた。職を失った修験者(山伏)の数は、全国で17万人もいたというから驚く。
吉野山の里人は「これでは食べていけない」と、全山の桜を薪炭用として大阪の業者に売り渡す契約をした。それを聞いた土倉翁は「開国で、これから多くの外国人が日本を訪れる。そのとき吉野山を訪ねて桜がなければ、ガッカリする」と嘆き、その代金を自腹でポンと支払って買い戻した。それで今の吉野山の桜が保たれているのだ。
道の駅のうどん屋さんで、美味しいランチをいただいた(同日)
土倉翁は、大正6年(1917年)に亡くなった。平成28年(2016年)には川上村で「土倉庄三郎翁没後100年記念式典」が盛大に催され、翁が支援した同志社大学の総長や日本女子大学の学長の参列もあった。これに先立ち、私もホテル杉の湯で土倉翁に関する講演をさせていただいたが、立ち見が出るほどの盛況だった。同ホテルでは各部屋に田中淳夫著『樹喜王 土倉庄三郎』を置き、宿泊者が自由に読めるようになっていてる。
そこに今回の「史跡案内看板」である。翁ゆかりの場所6ヵ所に設置されているので、これらを周遊する楽しみも生まれた。ぜひ見て回っていただきたい。