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田中利典師の『修験道という生き方』新潮選書(14-終)/明治以前の日本人の価値観に戻れ

2022年12月02日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、ご自身のFacebookに、新潮選書『修験道という生き方』(宮城泰年氏・ 内山節氏との共著)のうち、師の発言部分をピックアップして、〈シリーズ『修験道という生き方』〉のタイトルで連載されている。心に響くとてもいいお話なので、私はこれを追っかけて拙ブログで紹介している。
※トップ写真は、般若寺(奈良市般若寺町)のコスモス(2022.10.5 撮影)

今回はいよいよ最終回になる。タイトルは「欧米文明とどう向き合うか」。キリスト教的な一神教の世界では、神と自然と人間は、同心円のなかに存在しない。しかし日本や東アジアでは、神も自然も人間も同心円のなかにいて、互いに協力関係にある。

梅原猛氏は「明治以前の価値観に戻れ」という。明治以前の価値観を残しているものの一つは、修験道である。山で修行し、体を使って心をおさめるという修験道は、今、この観点から見直さなければいけない…。では師のfacebookから(10/21付)から、全文を抜粋する。

シリーズ『修験道という生き方』(14-終)「欧米文明とどう向き合うか」
欧米文明とどう向き合っていくのか、というのは私たちの大きな課題ですね。欧米文明の基盤にあるのは、やはりキリスト教的な一神教がつくりだした価値観。

それは、神と自然と人間は、同心円のなかに存在しないという世界。神は唯一絶対なもので、超越的なところにいて、自然と人間も分離されている。この三者がバラバラになって、神―人間―自然の支配、従属関係ができあがってしまっているのが欧米の価値観なのです。

しかし、日本だけではなく、東アジア各地の思想や信仰では、おおむね、神も自然も人間も同心円のなかにいる。神、自然、人間は、お互いがいてこそ存在し合うパートナーなのです。そして、今後の世界の趨勢は、こういった世界観が大事になっていくと私は思っています。

欧米のなかからも、自然を大事にしようという運動、いわゆるエコロジー運動や今時ならSDGsの啓蒙が広がってきていますが、そもそもキリスト教思想は、『旧約聖書』の「創世記」に出てくる「産めよ、増やせよ、地に満ちよ」だった。ヤハウェの神と契約したユダヤ教徒、キリスト教徒が、この大地の全てを支配せよということであり、人間が自然界の全部を隷属させようということであった。

ところが自然を支配・開発しすぎてしまって、大地=自然が壊れかけてている。キリスト教思想からくるエコロジーというのは、じつはそういう状況から生まれてきた。つまりこれ以上壊すと、自分たちの生きる環境まで危うくなるという、「人間のためのエコロジー」、「人間中心主義的エコロジー」が基本なのです。

近頃はディープ・エコロジーの思想などがでてきて、人間中心主義的な発想こそが問題だと考えるエコロジストも生まれてきているそうですが、そういう人たちに対しても、神と自然と人間が同心円的にひとつの世界をつくっている世界観を持つ、ということは大きなテーゼとなると思っています。

日本人は、神と自然と人間が同心円的に存在する世界観が当たり前であったから、世界観が違うということをさほど意識することなく、欧米文明を享受したんですね。ところがその結果、いろいろなものを壊してしまったということに気がつきはじめた。

自然破壊が進んだとか、個人が裸のむき出しになった社会、ひたすら便利さだけを追い求める社会になってしまったとか、そのことがもたらす不具合に気づいたとき、本当にこのままの欧米的世界観でいいのかという、根本問題にも目が向いてきた。そういう気づきを生む心が日本人にはあるような気がします。

梅原猛(1925~2019 哲学者)さんが著書『神殺しの日本』(朝日新聞社)の中で、欧米の価値観に洗脳される前の、明治以前の価値観に戻れとおっしゃっているけれど、ところが私たちの周りにあるものは、もうほとんどが明治以降につくられたものばかりなのです。そんな中、明治以前の世界観に戻っていく手がかりのひとつが修験道だと私は思っています。
 
修験道には、近代以前のものを護りつづけている力があって、山に修行に入るとそれが分かってくる。自然とは何か、人間とは何か、神仏とは何かが感じられる。そうした修行を通じて、直に気づいたり、取り戻したり、学びなおしたりすることが山では生まれてくる。

修験道はもともと理論を教える宗教ではない。修行によって感じとっていく宗教です。つまり、何かを感じとることができたとき、古代からつづいてきた、もしかすると縄文時代からつづいてきたかもしれない、日本の風土に気づくことができる。

そういう欲求が、都市の生活からも生まれているのが現在だと思いますね。だから、修験道に興味をもって山にくる人たちが増えてきたんだと。そして、この変化に対応できる能力を修験道の側ももたなければならないと私は強く思っています。

※今回でこのシリーズも最後にします。そのせいか、ちょっと難しいことを書いてみました(笑)。ご寛恕ください。しかし、修験道の魅力は奥深いのですよ。

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哲学者内山節先生、聖護院門跡宮城泰年猊下と、私との共著『修験道という生き方』(新潮選書)は3年前に上梓されました。ご好評いただいている?著作振り返りシリーズは、今回、本書で私がお話ししている、その一節の文章をもとに、加除修正して掲載しています。本稿で最終になります。私の発言にお二人の巨匠がどういう反応をなさって論議が深まっていったかについては、ぜひ本書『修験道という生き方』)をお読みいただければと思います
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