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田中利典師曰く「チベット旅行記」(9)最終回

2024年09月17日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「チベット旅行記」(9)(師のブログ 2016.9.8 付)、チベット旅行記の最終回である。師は〈チベットの大地を這いずり、仏教の教えのみを信じて生きているような人々にたくさん出会って、私は仏教者としてもう一度、人が生きるとはなんなのかという問いかけを続けていた〉とお書きである。では、全文を以下に紹介する。
※2枚の写真は、利典師のブログから拝借

「チベット旅行記」⑨ー田中利典著述集を振り返る280908
10年前に綴ったチベット旅行記のその9ー最終回です。長かった…おつきあいいただき、ありがとうございました!



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「旅の終わりに…」
旅に出ると私はいつも思う。旅先で多くの人々に出会うたびに「人間はなにかをして生きているんだなあ」と漠然と思うのである。人間はなにかをして生きている…至極当然のことなのだが、日常の生活を離れて、非日常の外国旅行へ行くと、そういう思いをいつも抱くのである。

今回は秘境といわれる国だけに、今まで以上により強くそう思ったのだった。商売をしている人、畑を耕している人、食事の世話をしている人、巡礼をしている人、昼間から寝そべってる人、物乞いをしている人…千差万別に多くの人々がいた。

考えれば「あんなことを達成した、こんなことも成し遂げた」といったところで、所詮私も、家庭と仕事を行き来しながら、なにかをして生きているだけの存在である。誰もが生まれた以上は死ぬまで、なにかをして、生きるのである。その生きる過程で成し遂げたことの価値など、大いなる宇宙の営みから見たら芥子粒(けしつぶ)にも満たないものである。それでも私たちはああだこうだと右往左往しているのだ。考えてみれば愚かな話である。

仏教では「世間虚仮」という。「是真仏法」とも説く。チベットの大地を這いずり、仏教の教えのみを信じて生きているような人々にたくさん出会って、私は仏教者としてもう一度、人が生きるとはなんなのかという問いかけを続けていたのであった。柔和な仏像とおどろおどろしい曼荼羅画の狭間で、生きることの複雑さや猥雑さを感じながら…。こうして私はチベット旅行を終えたのだった。
※仏教タイムス2006年9月掲載「チベット旅行記」より
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