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tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

まだ間に合います、ヤマトタケルコース!(奈良交通・古事記をめぐるバスツアー)

2013年03月27日 | 記紀・万葉
奈良交通とNPO法人奈良まほろばソムリエの会のタイアップによる「古事記をめぐるバスツアー」、いよいよこの土曜日(3月30日)のヤマトタケルコースで最終回を迎える。奈良県下でヤマトタケルゆかりの地を訪ねるというバスツアーは、めったにないことである。参加費は、昼食つきで5,800円。今も受付中だが実施日が近づいているので、ぜひお早めにお申し込みいただきたい。
※トップ写真は「日本武尊琴弾原白鳥陵」前。写真はすべて3/24の撮影

私はこのコースで、サブガイドを担当している。これからお申し込みされる方のために、同じコースの3月24日(日)実施分の様子を、写真とともに紹介させていただく。

「ヤマトタケルコース」(3月24日、30日)のメインガイドは、奈良まほろばソムリエの加藤英之さんである。加藤さんは愛知県刈谷市在住で、愛知県下のメーカーの経理マンである。米国公認会計士の資格もお持ちだ。24日は前日の土曜日から奈良に泊まられ、この日のコースをおさらいされたそうだ。この熱心さには頭が下がる。コースは

近鉄・JR奈良駅―日本武尊琴弾原白鳥陵―掖上鑵子塚古墳―(昼食)―景行天皇陵―黒塚古墳資料館―崇神天皇陵―白堤神社―石上神宮・出雲建雄神社―近鉄・JR奈良駅

である。以下、加藤さんが作られた解説資料から抜粋して、各史跡を紹介する。

日本武尊琴弾原白鳥陵(ヤマトタケル ことひきはらしらとりりょう)
所在地:御所市富田
被葬者:倭建命(?)



倭建命(ヤマトタケルのみこと)は、伊吹山の神との戦いに深手を負い、故郷の大和へ帰る途中、伊勢国(三重県)の能褒野(のぼの)で薨去(こうきょ)しますが、その直前に故郷を偲んで詠んだとされるのが次の歌です。

やまとはくにのまほろば たたなづくあをかき やまこもれる やまとしうるはし(大和は秀でた国だ。重なり合っている青い垣。山に囲まれている大和は美しいなあ。)

これは、国偲び歌と呼ばれます。ヤマトタケルは、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と表記されています。以下、できるだけ『古事記』に基づき、「倭建命」で統一することにします。

『古事記』によると、倭建命薨去の知らせを聴いて大和にいる妃や御子たちが能褒野に駆け付け御陵を作ります。しかし、倭建命は大きな白鳥となって飛び立ち、浜や海を越え、漸く河内の志幾(八尾市)に降り立ちます。更に妻子たちが追い掛けてゆき、志幾(しき)に2つ目の御陵を作ります、白鳥は再び飛び立って行ってしまいます。伊勢から河内と云う飛行ルートで、大和は素通りとなります。能褒野で国偲び歌を詠んだ倭建命ですが、死んでも故郷の大和に還ることはできなかったと云う悲劇となっています。



ここは大和です。では、目の前にある白鳥陵は一体何なのでしょう? ご覧のようにこの日本武尊琴弾原白鳥陵には鳥居もありませんが、宮内庁が『日本書紀』に基づいて御陵として管理しているれっきとした陵墓です。『古事記』とは異なり、『日本書紀』では、白鳥は、伊勢の能褒野(亀山市又は鈴鹿市)~大和の琴弾原(御所市)~河内の旧市邑(羽曳野市軽里)と云うルートで飛んで、御陵は3つあることになっています。実は、日本武尊琴弾原白鳥陵は、『古事記』ではなく、『日本書紀』に基づいて宮内庁が指定したものなのです。因みに、白鳥の三陵は、現在下記が指定されています。

①三重県亀山市田村町名越 能褒野王塚古墳
②奈良県御所市富田 日本武尊琴弾原白鳥陵
③大阪府羽曳野市軽里 軽里大塚古墳


余談ですが、『日本書紀』では、倭建命が白鳥となって能褒野の御陵から飛び立った後で、柩を開いてみると、衣だけが空しく残って屍はなかったと伝えられています。また『日本書紀』では、仁徳天皇の時に、どうせ白鳥陵は空っぽであるのだから、白鳥陵のを廃止して、役丁(えよほろ/えきちょう)に従事させようとしたところ、変異が起こったので元通りに戻したと云う記事もあります。

掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳
所在地:御所市柏原字鑵子山
被葬者:葛城氏(?)江戸時代には、武内宿禰、考安天皇、倭建命の説がありました
墳形:前方後円墳
石室:竪穴式石室
規模:全長150㍍、後円部の径102㍍、高さ17.5㍍、前方部の幅88㍍、高さ12㍍
築造年代:5世紀後半とされます。



この付近には、他にも鑵子塚と呼ばれる古墳が多数存在します。真弓鑵子塚(円墳)、与楽鑵子塚(円墳)、近内鑵子塚(円墳)など。鑵子(かんす)とは、青銅や真鍮などで作られた湯沸かしのことだそうです。掖上鑵子塚古墳の場合、後円部が3段に築成されている姿によるものでしょうか。

掖上鑵子塚古墳は、宮山古墳(室大墓)の東方約2㎞に所在し、国見山北側の尾根先端部を利用し切断して造られた前方後円墳。前方部を南西に、後円部を東北に向けています。周囲は、現在は埋め立てられて水田になっていますが、周壕(しゅうごう=堀)の痕跡がはっきりしています。1970年代に前方部周濠の発掘調査が行われ、円筒埴輪のほかにコウヤマキ製の木製品の一部が見つかっています。

周濠は前方部と後円部で9メートルもの比高差があり、また、この時の発掘調査の成果から周濠には水を湛えていなかったということが判っているとのこと。前方部の南側の周壕内に径約50㍍の円墳(掖上鑵子塚南古墳)が取り込まれています。後円部は3段、前方部は2段に築成され、葺石と埴輪列の存在が確認されています。

残念ながら、古くに盗掘を受けており、江戸時代の古図(1788年の大和御陵図)によると、後円部中央に石棺の一部が露出しており、宮山古墳と同様の長持型石棺があったらしい。現在も墳頂部に板石が散乱しているとのこと。須恵質の円筒埴輪が出土している他、冠帽形埴輪、柄頭形埴輪、水鳥形埴輪並びに当古墳出土の可能性のある衝角付冑形埴輪があります。柄頭形埴輪の文様は、宮山古墳のものと類似しています。

南葛城地方では、宮山古墳に次ぐ規模を持ち、江戸時代には日本武尊琴弾原白鳥陵と考えられていた時期もあります(『和陵三才図絵』、『聖跡図志』)。ご覧の様に、掖上鑵子塚古墳は、非常に見晴らしの悪い所にあります。逆に、周囲からも見えにくい所にこっそり築造されたものと言えます。憚りがあって、おおっぴらに古墳を築造することが出来なかった有力者の墓であると云う説もあります。



御所市から天理市に移動する途中、桜井市の「三輪茶屋」(三輪そうめん山本)で、にゅうめんと柿の葉寿司の昼食である。温かいにゅうめんで暖をとったあとは皆さん、「桜めん」(桜葉を練り込んだピンク色のそうめん。期間限定)、「生姜めん」(生姜を練り込んだそうめん。体がぽかぽか温まる)や「NEW麺」(お鍋にそのまま放り込んだり、電子レンジでも調理できるにゅうめん)をお土産に買っておられた。ここはトイレもきれいなので、とても有り難い立ち寄り場所である。





景行天皇陵
所在地:天理市渋谷町向山
被葬者:景行天皇(?) 江戸時代末の文久年間までは、崇神天皇陵とされていました。
墳形:前方後円墳で、後円部は3段、前方部も3段に築成されています。東西軸で、西に前方部が位置します。
石室:埋葬施設は不明だが、竪穴式石室(?)
規模:全長300㍍、後円部の径168㍍、高さ25㍍、前方部の幅170㍍、高さ23㍍
築造年代:4世紀後半(古墳時代前期後半)とされています。



奈良盆地の東南部、山の辺の道の天理から三輪山にかけては大型古墳が集中し、大和古墳群と呼ばれています。大和古墳群は、更に北から、萱生古墳群、柳本古墳群、纏向古墳群の3つのグループに区分されています。萱生古墳群が、大和古墳群と呼ばれることもあるので注意。柳本古墳群には、景行天皇陵、天神山古墳、櫛山古墳、崇神天皇陵、黒塚古墳が含まれています。築造順は、天神山古墳⇒黒塚古墳⇒崇神天皇陵⇒景行天皇陵⇒櫛山古墳(大和の古墳編年による)。

景行天皇陵は、地名から渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)とも呼ばれています。現在は、第12代景行天皇の山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)とされています。景行天皇は倭建命の父に当たります。『古事記』によれば、景行天皇は、纏向の日代宮に都をおいたとされています。江戸時代の文久年間までは、第10代崇神天皇の山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)とされていました。慶応元年(1865年)に景行天皇陵に指定替えされました。

黒塚古墳
所在地:天理市柳本町黒塚
被葬者:?
墳形:前方後円墳で、後円部は3段、前方部は2段に築成されています。東西軸で、西に前方部が位置します。
石室:竪穴式石室
規模:全長130㍍、後円部の径72㍍、高さ11㍍、前方部の幅51㍍、高さ6㍍
築造年代:4世紀初頭(古墳時代前期初頭)とされています。

黒塚古墳は、櫛山古墳、崇神天皇陵と同じ尾根の西端に造られています。周囲に水をたたえた周濠をめぐらしています。戦国時代には楊本氏が楊本城、江戸時代には織田氏が柳本陣屋を構築していたこともあり、改変を受けていると云われます。



1997年から1998年にかけて発掘調査が行われました。U字状の粘土床が後円部の竪穴式石室から見つかりましたが、この上には直径1m以上の丸太をくり抜いた長さ6.2㍍の割竹形木棺が据えられていたと推定されています。割竹形木棺と遺体は腐食してなくなっていましたが、34面の鏡、刀剣類、鉄鏃、U字形鉄製品、Y字形鉄製品、水銀朱などが出土しました。出土した34面の鏡は、木棺内の画文帯神獣鏡1面を除き、全て三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と云う構成。天神山古墳が三角縁神獣鏡を全く伴わなかったのと好対照となっています。葺石や埴輪は確認されていません。

崇神天皇陵
所在地:天理市柳本町行燈
被葬者:崇神天皇(?) 江戸時代末の文久年間までは、景行天皇陵とされていました。
墳形:前方後円墳で、後円部は3段、前方部も3段に築成されている。東西軸で、西に前方部が位置します。
石室:埋葬施設は不明ですが、竪穴式石室(?)
規模:全長242㍍、後円部の径158㍍、高さ23㍍、前方部の幅102㍍、高さ15㍍
築造年代:4世紀後半(古墳時代前期後半)の早い時期と推測されています。



崇神天皇陵は、地名から、行燈山古墳(あんどんやまこふん)とも呼ばれています。現在は、第10代崇神天皇の山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)とされています。崇神天皇は、景行天皇の祖父に当たります。『古事記』によれば、崇神天皇は、師木の水垣宮に都をおいたとされています。

江戸時代の文久年間までは、第12代景行天皇の山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)とされていました。慶応元年(1865年)に崇神天皇陵に指定替えされました。古墳時代前期の築造です。春日断層崖から盆地部へ伸びる丘陵の一つに造られた前方後円墳です。奈良県内では箸墓古墳に次いで第4位。全国の古墳の中でも第16位の大きさを誇ります。周囲に水をたたえた階段状の周濠3をめぐらしており、灌漑に利用されています。幕末の文久年間に大規模な修陵が行なわれています。

白堤神社(しろつつみじんじゃ/しろとりじんじゃ/はくていじんじゃ)
所在地:天理市長柄町池ノ尻
御祭神:倭建命



倭建命を白鳥明神として祭祀するのは、奈良県ではこの白堤神社だけです。延喜式神名帳の山邊郡白堤神社(しろつつみじんじゃ)に該当するとされています。また『大和志』には「長柄村にあり。今白鳥明神と称す」とあります。

『山辺郡記』には、「伝説では、いにしえは大熊神社(祭神は大熊命=白堤の首の祖)を村社としていた。しかしその後、境内社である白鳥社(祭神は倭建命)の方を本社として、白堤社の名称を継承したために誤解が生じたと云うのが真相に近いであろう」とあります。大熊社は、現在、境内社となっていますが、本社と対等の風格を備えています。白堤神は堤の神としての性格を持つ神で、旧地は現在よりも200㍍南の白鳥池の西堤上に鎮座していました。



太平洋戦争末期の1944年、本土決戦に備える特攻隊基地として大和海軍航空隊大和基地(通称、柳本飛行場)が建設されました。このときに白鳥池は埋立てられ、白堤神社は小学校校庭に強制移転されました(旧地には、白堤神社跡の碑が建っています)。更に1946年現在地に再度移転されました。付近には、防空壕が2つ残っています。

天理市の宮崎酒造は、白堤(はくてい)と云う銘柄の清酒を醸造販売していますが、これは近所の白堤神社からとったものと云います。白堤は、石上神宮にも奉納されています。白堤のラベルには、倭建命の草薙剣がデザインされています。(残念ながら、宮崎酒造は2012年末に廃業しました。)



この「白堤」の酒樽は、石上神宮の境内で見つけた

石上神宮
所在地:天理市布留町384
主祭神:布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ)
御祭神:布留御魂大神 (ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂大神 (ふつしみたまのおおかみ)、宇摩志麻治命 (うましまじのみこと)、五十瓊敷命 (いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣命 (いちかわおみのみこと)
御神体:布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)

石上神宮は、大和朝廷の宝物庫兼武器庫として重要な役割を果たしていました。『古事記』神武東征の際、熊野で苦戦する神武天皇(カムヤマトイワレビコ)に、天照大神と高木の神とが、高倉下を通じて横刀(布都御魂)を届けます。この補給により神武天皇は、窮地を脱することができました。この横刀が、現在、御神体として本殿に奉斎されている布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)です。

『古事記』垂仁天皇の時代に、皇子の印色入日子命(イニシキノイリヒコ)が横刀千口を作り、石上神宮に納付しています。印色入日子命は、景行天皇(オホタラシヒコオシロワケ)の兄です。

『日本書紀』垂仁天皇の時代に、五十瓊敷命(イニシキノミコト)(印色入日子命と同一)が、石上神宮の神宝の管理を妹の大中姫(オオナカツヒメ)に委託しようとしましたが、大中姫は、これを物部十千根大連(トオチネノオオムラジ)に授権します。以来、物部氏が石上神宮の神宝、即ち、武器を管理することになりました。

『日本書紀』垂仁天皇の時代に、丹波国桑田村の甕襲(みかそ)と云う人が、むじなの腹から八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を見付けて献上しました。これは、現在、本殿に奉斎されています。

『古事記』履中天皇(イザホワケ)は、墨江の中つ王の乱に際して、難波の宮から石上神宮に避難しています。

元々は大神神社と同様、石上神宮には、本殿はなかったそうです。拝殿奥の禁足地が礼拝の対象だったと云います。明治7年(1874年)に禁足地を発掘したところ、伝承通り2つの神宝(布都御魂剣、八尺瓊勾玉)その他が出土したことから、本殿が建造されることになりました。また建造中にも、明治11年(1878年)の禁足地再発掘で刀が出土しました。この刀が、現在、御神体として布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)と一緒に本殿に奉斎されている布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)です。禁足地は現在も石の瑞垣で囲まれています。



拝殿(国宝)
第72代白河天皇が、石上神宮の鎮魂祭のため、永保元年(1081年)に宮中の神嘉殿を寄進されたものと伝えられています。現存する拝殿としては、全国で最古の建造物となります。正面七間、側面四間、檜皮葺、入母屋造、向拝付きの建物です。鎌倉時代に改修を受けており、大仏様の貫の技法が使われています。

七支刀(しちしとう/ななつさやのたち)
『日本書紀』の神功皇后52年に「百済王が久氐を遣わし、七枝刀を奉った」と云う記事があり、この刀が該当するとされています。刀身の表と裏に金象眼の銘文61字のあることが発見され、「泰(和)四年(369)五月十(六)日丙午正陽」と始まる銘文に「七支刀」とあり、百済王世子が倭王にもたらした呪刀であると判読されています。神庫(ほくら)に収蔵されてきましたが、現在では他の主な御神宝と共に、昭和55年(1980年)に完成した宝物収蔵庫に奉安されています。

禁足地出土品:勾玉・管玉・環頭大刀柄頭等。宝物収蔵庫に奉安。
鉄盾二枚:1枚は、東京国立博物館に委託。1枚は、宝物収蔵庫に奉安されています。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき):腹巻とは、背中で引合わせる鎧。足利尊氏奉納と伝えられる。奈良国立博物館に委託。

摂社出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)
所在地:天理市布留町
御祭神:出雲建雄神(いずもたけおのかみ=スサノオノミコトを指す)
由緒:出雲建雄神は草薙神剣の御霊に坐す。今を去ること1300余年前、天武天皇朱鳥元年(686年)に布留川の上、日の谷に瑞雲立ち上る中神剣光を放ちて現れ「今此の地に天降り諸の氏人を守らむ」と宣し給ひ即ちに鎮座し給ふ。一間社春日造、檜皮葺。

摂社出雲建雄神社の右隣に祀られているのは、末社・猿田彦神社(祭神;猿田彦神)。一間社春日造、檜皮葺



奥に祀られているのは、
摂社 七座社:三間社流見世棚造
摂社 天神社:一間社春日造、檜皮葺

出雲建雄神社拝殿(国宝)
元々は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿でしたが、大正3年(1914年)に出雲建雄神社拝殿として現在地へ移建されたもの。保延3年(1137年)に建立されました。切妻造り、檜皮葺で、正面五間側面一間。中央の一間は、馬道と呼ばれる通路となっており、割拝殿形式。また中央の一間は、屋根が唐破風となっています。馬道が付いている建造物の例としては、他に、法隆寺東院舎利殿及び絵殿、唐招提寺礼堂、東大寺二月堂参籠所等があります。


引用は以上である。加藤さんは、バス車中用、現地解説用、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」説明用の3種類もの資料を作られ、丁寧に解説された。改めて資料(A4版)の枚数を数えてみると、ざっと30枚もある。お客さんは「大学の先生みたい」と、加藤さんの解説に熱心に耳を傾けておられた。

冒頭にも書いたが、奈良県下でヤマトタケルゆかりの地というのは数が少ないし、資料も限られている。それをうまくつなぎ合わせ、また所どころで「草薙剣」の話もはさみながらお客さんの興味を引き付けるという工夫は、なかなかできるものではない。

最終回はいよいよこの土曜日(3月30日)である。同行する私の気持ちも引き締まる。このツアーでは、古事記マップや御所周辺の観光ガイドなど、添乗員さんが困るほどたくさんの資料をお渡しする。『古事記』に興味のある皆さん、ぜひご一緒しましょう!
※奈良交通の同ツアーのサイトは、こちら

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1 コメント

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サムライ鉄の道リスペクト (特殊鋼流通関係)
2024-09-17 00:33:57
それにしても古事記はすごいよな。ドイツの哲学者ニーチェが「神は死んだ」といったそれよりも千年も前にイザナミ神についてそうかいてある。この神おかげでたくさんの神々を生まれたので日本神話は多神教になったともいえる。八百万の神々が出雲に集まるのは、イザナミの死を弔うためという話も聞いたことがある。そしてそこから古事記の本格的な多神教の神話の世界が広がってゆくのである。
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