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田中利典師の『吉野薫風抄』白馬社刊(14=終)/「安心立命」(心が安らかで何事にも動じない境地)か超自然的な「現世利益」か

2022年10月02日 | 田中利典師曰く
田中利典師の処女作にして最高傑作という『吉野薫風抄 修験道に想う』(白馬社刊)を、師ご自身の抜粋により紹介するというぜいたくなシリーズ、いよいよ今回(第14回)で最終回となった。タイトルは「仏教を現代に問う」。師ご自身が「とうとう最後!長いです」とお書きのように、とても長い。しかし30歳代の若き僧侶の正義感や苛立ちがストレートに出ていて、これには感銘を受ける。師のFacebook(5/27付)から紹介する。
※トップ写真は一言主神社(御所市)周辺のヒガンバナ(2022.9.25撮影)

とうとう最後!長いです。シリーズ吉野薫風抄(終)/「仏教を現代に問う」
私は霊感者でもないし、霊能力者でもない。もちろん霊的な世界や超自然的な世界を見たり、行き来したりするような力もない。しかしながら世間一般の人々は僧侶や行者に対して期待の多くをそういう方面に抱いているのではないかと、私は思っている。

世間一般の人々にとって我々僧侶とは死者を葬り、霊供養を司る職業である。死者や霊魂について詳しいはずと思い込まれても仕方ないだろう。また行者は神仏の顕現を行じ、様々な祈願に応えその時々に、神仏に親近している。超自然的な世界を見、まさにそこへ行く者なのである。

心の時代といわれて久しいが、物質至上主義に支配され、処理しきれぬ情報量にあふれかえる現代社会は、人間が生きていく上での信じるに足る価値観を喪失させ、精神的な支柱を見失わせてしまったかのような様相を呈している。それ故に、宗教が希求される。

人間にとって宗教はいつの世でも希求され続けて来たが、現代ほど心の問題として渇望されている時代は少なかったのかもしれない。そして今私は、この宗教に求められているものに二面性を見るのである。

一つは宗教的回心、宗教的な安心である。宗教を持つことによって強く生き直す力が与えられる。あるいは死に臨んでは安らかな境涯を得る力を持つことが出来よう。いわゆる安心立命(あんしんりつめい)である。

さてもう一つとは今挙げた宗教本来が目指すものではなくて、いわゆる神秘的な世界への憧れとか、霊的な世界への恐怖とかいう、様々な超自然現象への畏怖と憧憬(あこがれ)である。現世利益的な欲求とも言えようか。

今日の宗教ブームを生んだ源はどちらかといえば後者に対する希求のなせる業であり、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の如く流行する新興宗教のほとんどがそれらの要求に対して即物的な救済をうたっているのが何よりの証拠であろう。

ところがこの二つの面は実は別々のものとして扱えないように思う。それは宗教に安心を求める人間と、超自然的な現世利益を求める人間との二通りがあるのでなく、一人の人間の中で両方希求する心が内在しているからである。

仏教の話をしよう。仏教は今から二千五百年程前に出現された釈迦牟尼仏陀(釈尊)によって開かれた宗教だが、前にも述べたように釈尊の教えには超自然的な世界、霊的な世界についての答えがほとんど用意されていない。

無記(十四無記あるいは、十困難といわれる)といっておよそ形而上学的な問題は仏教の究極の目的とする涅槃(ねはん)に導くものではないと考えられて、答えておられないのである。それよりも現世、現時点の即今只今において、如何に生きるか、知何に生くべきかを問題とされたのである。

今どう生きるかを解決できないでいるのに、形而上学的な、霊界などといった見えない世界、確めようもない世界に思い煩うことは愚かしいことであるとして棄捨されたのである。釈尊の生の言説を扱った原始経典には各所にそう説かれているし、それは伝統的な仏教の正統な考え方でもある。

しかしながら、である。だからといって私は原始仏教の教条主義に陥るものではない。如何に生くべきかというのは安心立命に至る宗教本来の究極的目的と言えるが、霊的な世界、超自然的な世界に対する要求に対してもまた、仏教徒として正しく対峙(たいじ)していかなければならないと思っているのである。

表面的には釈尊の言説に反しているように見えるかも知れないが、対機説法(たいきせっぽう)を旨とされた釈尊の精神にこそ叶うものであろう。

本当のことを言うと、僧であれ行者であれ、霊的なこと、超自然的なことについては皆が皆、一様に詳しいのかというと、そうではない。僧や行者が全員優秀な霊感者とか霊能者であるわけではなく、逆にそういう人の方が稀なのだ。

加えて仏教本来の目的からするなら、先に述べた如く、現世利益に偏ったそういう問題は第一義ではなく、いわば外道の領域とさえ扱われがちなのだから、伝統仏教の真義とはならないわけで、どの宗派に於いても、あまりまともに取り組んでいるとはいえない状況なのである。もしかすると世間一般の人々はこのことをほとんど知らないでいるのかもしれない。

世間一般の人々が僧侶や行者(両方をひっくるめて以後は坊さんと書く)に対して、霊的なことや、超自然的な世界への道先案内人として多くを期待しているにもかかわらず、個々の坊さんを含めた伝統仏教があまりまともに取り組んでいるようには見えないと述べたが、これは大きな問題である。

伝統仏教が釈尊の正統な教えを継承する立場として、安心の問題を第一義に置くのは確かにわかるが、前稿の冒頭でも述べたように、現実に伝統教団の坊さんたちが行なっていることというのは、死者の弔いに手を染め、民衆の欲する所で神仏の間を取り持つ現世利益のご祈祷に生業を求めているのである。この職業ほど、霊的なこと、超自然的な世界に密接にかかわっているものはないわけで、第一義だ、第二義だ、などと言っている暇などはないであろう。

私もときどきは信者宅に招かれて家祈祷や様々な祈願を行なうが、その節、必ず、祈願に合わせてその家のお仏壇もお参りするようにしている。今までずい分いろんな家のお仏壇を拝して来た。ところがいい加減な祭られ方をしている仏壇が実に多くて困るのである。

一々例を挙げるには紙面が足りないが、もう無茶苦茶といって差し支えないかもしれない。いったい当家の檀家寺は何をしてるんだと腹立たしく思う時さえもある。

もちろん先祖供養のやり方はその土地土地の慣習や取り決めによって一様には扱えないとはいえ、仏教徒としての祭紀の基本はあるはずであろう。どの宗派でもどこのお寺でも位牌を檀上にし、下段に御本尊像をお祭りしていたなら、一言注意をするべきだし、事分けて解説するのが檀家を預かる坊さんの当然のつとめではあるまいか。放ったらかしではあまりに無責任、ということになろう。

君ネ、そんなことにこだわるのは仏教的でないんだヨとある時、某師から言われたことがあるが、それならあんたらは何にこだわって仏壇回向をしてるんだと言いたくなる。一般の人々はそういった所から仏教に関わって、より多くのものを求めていくのであるから、道先案内人としては求められたことに対して正しく応えていかなければいけないであろう。こんなことは霊的な問題などという以前のことであるのもかかわらず、かくの如き体に見えるのである。

それだけではない。檀家寺の総代としてかなり功を積んできたような人でさえ仏教のことや、自分のお宗旨の教えについて全然理解していないことに度々驚かされている。お寺で今まで何を聞かされてきたのかと、疑いたくなってしまう。

先に述べ来たったように、伝統仏教では霊的なことや、超自然的な無記に類する問題については正統な理由を掲げて、まともに取り組んではいないのだが、実は宗教的な安心を希求する人々の要求に対してさえまともに取り組んでいるとは思えない状況なのである。

一般の人々はそんな実情をあまりちゃんと知らないのではないかと、少し触れたが、実は逆に、皆うすうすわかっているのではないかとも思う。だから自らが希求する宗教的な欲求、それは安心の問題にしても、現世利益的なものにしても、伝統仏教のお坊さんに求めるのではなく、新新宗教などともてはやされる今どき流行の宗教に求め、心身ともに傾倒させているのではないであろうか。

私は宗教を希求する心に二面性があって、一人の人間の中にその両方が存在しており、その一方の面である超自然的な事柄について、伝統的な仏教があまりまともに取り組んでいないと言った。そして、では第一義の問題である安心の問題に対してもいかほどのまともな取り組みがなされているかというと、それさえ疑問であると今述べた。宗教は生きていなければ意味がないが、果たしてこれで生きた宗教といえるのであろうか。

生きた宗教であるからこそ、釈尊の行なわれた対機説法、応病与薬の実践活動が行ない得るのである。その実践活動をおろそかにする宗教などまさに死んだと同然と言われでも仕方ないことになる。

臨機応変たる実践活動の背景にはしっかりとした信仰の確立(信心決定) があらねばならないが、今どきのお坊さんを見ていると、生きた宗教に携わっている感が少ないし、また信仰の確立も大いに怪しいように思える。人々の宗教的渇望に対して、何ほどの手段も内容も持ち合わせてはいないように思われてならないのである。

少し口が過ぎているかもしれない。「おまえにそんな偉そうなことを言う資格があるのか」と内心恥じる所もあるが、これは自分自身への問いかけでもある。

さて、霊感や霊能力がなければ人々の希求する様々な宗教的欲求に、応えていけないのかといえばそんなことは断じてないはずである。過去に本稿で述べ来たったように、霊能力や霊感は万能ではない。使えば減るし、最もこわいのは、使う側がよほどしっかりしていなければ、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類いに堕落する可能性が多く、かえって大きな災いとなる場合すらある。そんな中途半端に終始するような霊能力なら、初めから無い方がましなくらいである。

ではどうやって人々を導いて行くのかというと、少なくとも先ず死者の弔いはどうあるのか、霊の供養とはどうあるべきなのか、加持祈祷とはいかなるものなのかといった宗教行為に携わる者の基礎的な問題を究め尽くす程度のことはやっておかねばならないだろう。

何やしらんがこうやったらよいのだ、くらいではもうダメなのである。霊能力者がおこなうことすら、仏法に照らして、どういうことなのか、理解出来るくらいに究めておく必要がある、と私は考えている。

仏教の真ん中を目指す者としては、それら第二義的な問題に対しても、正しき対応が出来るように、仏法を、あるいはそれに伴う宗教儀礼さえも究め尽くしておかねばならないにちがいない。それが宗教儀礼にたずさわる儀礼司祭者としての最低限の責任ではあるまいか。

(私も含めてであるが)今時のお坊さんはこういう問題について永らく怠って来てしまったようだ。新興宗教の方がよっぽど真剣に取り組んでいるといえよう。ともかく、今からでも遅くはないはずである。

それにもまして最も大切なのはなんといってもまさに各人の信仰の実践、信心決定に尽きる。もちろん、自分の信仰が不退位(ふたいい、もう後戻りしない位置)にまで到達していたら、それが理想であるのだけれど、そうでなくてもいつも菩提を目指す者(つまり菩薩)であらねばならない。

正しき法に生きている者なれば、必ずや求法の人々の光明となり得るに違いないと私は確信する。ともかくも、焦らず、日々怠らず、歩むべし。

私はかく願い、仏教の明日を進む者でありたいと思っているし、そのための、修験道の行者であり続けたいと思っている。偉そうなことを言ったかもしれないが、それが私の心からの叫びなのである。

◇◇

本稿も34歳くらいに書いたもので、もう30年以上前のものである。いや、若い。ホンマに若くて、恥ずかしい・・・(😣)。でも、真っ正直に書いているのがいかにも初々しく、今となっては羨ましくさえある(笑)。

この『吉野薫風抄』の抜き書きは今回で終えるが、いまの社会にも通底する問題意識を若い時から持っていたのだと、久しぶりに拙著を読み返して、感慨深いものがありました。もしかすると齢を重ねた分、薄汚れてしまった感さえしています。今さらながら、精進しなくちゃ!と反省して、本稿を閉じることにします。次のシリーズはしばらくお待ちくださいませ。

なお、この私の処女作『吉野薫風抄』は平成4年に金峯山時報社から上梓され(26歳から35歳まで書いたコラムを編集)、平成15年に白馬社から改定新装版が再版、また令和元年には電子版「修験道あるがままに シリーズ」(特定非営利活動法人ハーモニーライフ出版部)として電子書籍化されています。この先を読みたい方は、Amazonにて修験道あるがままに シリーズ〈電子版〉を検索いただければ、Kindle版が無料で読むことが出来ます。
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