毎日新聞デジタル版(2020年8月30日14時30分)に《「奈良のシカ 夢中で食べた」戦後の食糧難 元小学校教諭の後悔》というショッキングな記事が出ていた。戦後の食糧難の時期、男子寮の畑でサツマイモを育てていたが、一頭の鹿が毎晩荒らしに来る。追い払っても追い払っても何度も来る。あるとき寮生の1人が、「もう我慢できない。退治して食っちまおう」と言いだした。
※トップ写真は、Wikipediaから拝借した
現れた鹿を寮の庭に追い詰めて殺し、風呂場で解体した。サツマイモを入れて煮物にし、皆夢中で食べた。「食べ物が不足すると、私がそうだったように人間の精神は荒廃していく。だからこそ多くの人の命を奪い、飢えさせる戦争は、二度と起こしちゃならない」…。では、以下に記事全文を紹介する。
古来、神の使いとして大切にされてきた国の天然記念物「奈良のシカ」。若草山を背景に、奈良公園でのんびりと草をはむ姿は「平和」の象徴そのものだが、戦中・戦後には食糧難から密猟され、一時絶滅の危機に陥ったことがある。「飢えは人を変える」。奈良市の元小学校教諭、藤田喜久(よしひさ)さん(89)が、タブーを犯して「神鹿(しんろく)」に手を出さざるを得なかった当時の状況を初めて語った。
「神鹿」の歴史は奈良時代から
奈良のシカの歴史は奈良時代にさかのぼる。平城京を守るため創建された春日大社に、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の祭神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」を招いたところ白いシカに乗っていたと伝わる。以降「神鹿」として保護の対象とされてきたが、戦前に公園周辺に約900頭いたとされるシカは、戦後間もなく、1割以下の79頭にまで激減した。
藤田さんは、奈良県波多野村(現山添村)出身。小学校教諭だった父の影響を受けて教壇を目指し、1945年4月、奈良師範学校(現奈良教育大)に入学、奈良市内にあった男子寮に入った。戦中は月に1回、米3合の配給があったが、敗戦を境に量は激減。穀物は、大麦や大豆を含め1度に2合しかもらえなくなった。みそも手に入らず、寒い日は、配給された岩塩と道ばたで採ったタンポポで「岩塩汁」を作って飲み、体を温めた。
イモ荒らされ「もう我慢できぬ」
寮には10代の男子学生約50人が暮らしており、空腹をしのぐため敷地内の畑でサツマイモを育てていた。46年秋、「神鹿」を巡る事件が起きた。苦労して育てたサツマイモを毎晩、荒らしにくるシカが現れたのだ。最初は、農具を振り回して追い払っていたが、何度も繰り返されるうち、生徒の一人が言った。「もう我慢できない。退治して食っちまおう」
奈良ではかつて、シカを死なせると死罪になる時代があったとされる。藤田さんも幼い頃から「奈良のシカは神聖な存在。傷付ければとんでもないことになる」と言われて育った。ただ当時、寮生は誰もシカを食べることに反対しなかった。それだけ空腹だった。
ある日の真夜中、畑の近くで待ち伏せているとシカが現れた。農具を手に取り囲み、追いかけ回した。シカは寮の1階窓ガラスを突き破って廊下を突進。誰かが投げた鍬(くわ)が背中に刺さったが、かまわず右へ左へと走り続けた。最後は、寮の庭に追い詰め、数十人で袋だたきにした。風呂場に運び込んで解体すると、寮の炊事係がサツマイモを入れて煮物にした。皆夢中で食べた。
飢えは精神を荒廃させる
「なぜ、あんなことを……」。その時は罪悪感がなかったという藤田さんだが、時がたつにつれ、後悔の気持ちが生まれてきた。ただ「神鹿」に手を出した後ろめたさから、今まで家族や教え子にも話すことがなかった。
2020年8月、「奈良のシカの密猟」を取り上げた毎日新聞奈良版の記事を読んだ。「(戦後の)深刻な食糧難を伝える史実として、今後も語り継いでいかなければならない」。記事で紹介されていた大学教授の言葉が胸に突き刺さり、証言しようと考えるようになった。
「食べ物が不足すると、私がそうだったように人間の精神は荒廃していく。だからこそ多くの人の命を奪い、飢えさせる戦争は、二度と起こしちゃならない」。戦後75年を迎え、今、改めてそう思う。【加藤佑輔】
※トップ写真は、Wikipediaから拝借した
現れた鹿を寮の庭に追い詰めて殺し、風呂場で解体した。サツマイモを入れて煮物にし、皆夢中で食べた。「食べ物が不足すると、私がそうだったように人間の精神は荒廃していく。だからこそ多くの人の命を奪い、飢えさせる戦争は、二度と起こしちゃならない」…。では、以下に記事全文を紹介する。
古来、神の使いとして大切にされてきた国の天然記念物「奈良のシカ」。若草山を背景に、奈良公園でのんびりと草をはむ姿は「平和」の象徴そのものだが、戦中・戦後には食糧難から密猟され、一時絶滅の危機に陥ったことがある。「飢えは人を変える」。奈良市の元小学校教諭、藤田喜久(よしひさ)さん(89)が、タブーを犯して「神鹿(しんろく)」に手を出さざるを得なかった当時の状況を初めて語った。
「神鹿」の歴史は奈良時代から
奈良のシカの歴史は奈良時代にさかのぼる。平城京を守るため創建された春日大社に、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の祭神「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」を招いたところ白いシカに乗っていたと伝わる。以降「神鹿」として保護の対象とされてきたが、戦前に公園周辺に約900頭いたとされるシカは、戦後間もなく、1割以下の79頭にまで激減した。
藤田さんは、奈良県波多野村(現山添村)出身。小学校教諭だった父の影響を受けて教壇を目指し、1945年4月、奈良師範学校(現奈良教育大)に入学、奈良市内にあった男子寮に入った。戦中は月に1回、米3合の配給があったが、敗戦を境に量は激減。穀物は、大麦や大豆を含め1度に2合しかもらえなくなった。みそも手に入らず、寒い日は、配給された岩塩と道ばたで採ったタンポポで「岩塩汁」を作って飲み、体を温めた。
イモ荒らされ「もう我慢できぬ」
寮には10代の男子学生約50人が暮らしており、空腹をしのぐため敷地内の畑でサツマイモを育てていた。46年秋、「神鹿」を巡る事件が起きた。苦労して育てたサツマイモを毎晩、荒らしにくるシカが現れたのだ。最初は、農具を振り回して追い払っていたが、何度も繰り返されるうち、生徒の一人が言った。「もう我慢できない。退治して食っちまおう」
奈良ではかつて、シカを死なせると死罪になる時代があったとされる。藤田さんも幼い頃から「奈良のシカは神聖な存在。傷付ければとんでもないことになる」と言われて育った。ただ当時、寮生は誰もシカを食べることに反対しなかった。それだけ空腹だった。
ある日の真夜中、畑の近くで待ち伏せているとシカが現れた。農具を手に取り囲み、追いかけ回した。シカは寮の1階窓ガラスを突き破って廊下を突進。誰かが投げた鍬(くわ)が背中に刺さったが、かまわず右へ左へと走り続けた。最後は、寮の庭に追い詰め、数十人で袋だたきにした。風呂場に運び込んで解体すると、寮の炊事係がサツマイモを入れて煮物にした。皆夢中で食べた。
飢えは精神を荒廃させる
「なぜ、あんなことを……」。その時は罪悪感がなかったという藤田さんだが、時がたつにつれ、後悔の気持ちが生まれてきた。ただ「神鹿」に手を出した後ろめたさから、今まで家族や教え子にも話すことがなかった。
2020年8月、「奈良のシカの密猟」を取り上げた毎日新聞奈良版の記事を読んだ。「(戦後の)深刻な食糧難を伝える史実として、今後も語り継いでいかなければならない」。記事で紹介されていた大学教授の言葉が胸に突き刺さり、証言しようと考えるようになった。
「食べ物が不足すると、私がそうだったように人間の精神は荒廃していく。だからこそ多くの人の命を奪い、飢えさせる戦争は、二度と起こしちゃならない」。戦後75年を迎え、今、改めてそう思う。【加藤佑輔】
> 自らも含め鹿を「神聖な存在」と考える人は居るのだろうか?
> 獣と言えど少なくとも命の尊さは感じるべきかと。
少なくとも奈良市民は、鹿を「神鹿」と考え、大切にしています。