奈良日日新聞に毎月1回(第4金曜日)連載している「奈良ものろーぐ」、先月(6/23)掲載されたのは「谷三山 吉田松陰が師と仰いだ儒者」だった。病弱で、青年の頃に聴力を失い、老いては視力まで失った。しかし刻苦勉励、和漢の書籍に通じ、門人は1,000人に及んだという。まずは全文を紹介する。
※トップ写真は華甍の庭に建つ三山の顕彰碑。若林稔さんにお撮りいただいた
「高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平」と詠んだのは五條出身の儒学者・森田節斎。谷の昌平とは、谷三山(たに・さんざん 1802~67)の通称である。三山は幕末の儒学者だ。三山は高取藩領だった高市郡八木村(橿原市八木町)の裕福な米穀商の三男として生まれた。幼い頃から病弱で一五、六歳の頃には完全に聴力を失った。
「もっぱら正史経伝(中国の史書や四書五経など)の研究に没頭した。やがて家塾興譲館をおこし門人は1000人に及んだ。嘉永2年、高取藩主植村家興は扶持を賜い士籍に列せしめた。三山の学は経学(四書五経の研究)を主とし、また経国済世(国を治め世を救う)に志あり、藩政あるいは攘夷や山陵修復などについて上書(上申)した。頼山陽も三山に敬服し、かたみ(遺品)としてその印を贈ったという。老年失明し慶応三年66歳をもって没した」(『明治維新人名辞典』。カッコ内は補記)。
幕末の思想家で尊王論者として知られる長州藩士・吉田松陰は郷里への手紙の中で三山のことを「生涯寅次郎の高師と敬うべき方」「師の師たる人」と書き記している。冒頭の森田節斎と三山は、1847年、三日三晩にわたり対談(筆談)した。その記録が『愛静館筆語』として残っている。
「内容は経書や史書についての議論が多く、全国の諸学者の批評についても相当激しく、また時事問題も取り扱われ」た(『伝記谷三山』)。節斎は「身は五條にあれども魂は八木に飛べり。今回の筆語にしてその志を果たすことを得たり。愉快愉快」(同)と締めくくっている。三山は自室でほとんどの時間を過ごしながら、世界情勢はよく把握していた。
三山の顕彰碑横にある説明板
三山の顕彰碑が橿原市の今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」の庭に建つ。その出だしは「攘夷ノ心切切タルモノ豈惟浪士ノミナランヤ…」。三山は攘夷論者であるとともに富国強兵と学校教育制度の充実を提言していたという。
三山は多くの門人を輩出した。尊王攘夷の志士・天忠組(天誅組)に加わって落命した原田亀太郎、のちに「奈良公園の父」と呼ばれた前部重厚(まえべ・じゅうこう)、「近代紡績の父」石河確太郎など。
橿原市に住む知人が三山の掛け軸を持っていた。「養成蛙吹…」ではじまる漢詩(南宋の范成大の詩)で、荒れ果てた田園風景を詠んだものだ。意味は「蚊がたくさん飛んでいるので、蚊を食べる蛙をいくら育ててもきりがない」。 激動の幕末にあって三山には、もどかしい思いが募っていたのだろう。三山が亡くなったのは王政復古のわずか二日後だった。今年は三山没後一五〇年。郷土が生んだこの偉大な学者に、思いをはせていただきたい。
※三山の生涯については、奈良県立大学・ユーラシア研究センターの調査報告を参考にさせていただきました。
「養成蛙吹…」ではじまる漢詩(南宋の范成大の詩)は、今井町町並み保存会の若林稔会長からご教示いただいたものだ。全文は「養成蛙吹無謂掃盡蚊雷却奇」(『石湖詩集』所収)である。また三山の顕彰碑(今井まちなみ交流センター「華甍」敷地内)の碑文の出だしは、
正三位子爵 植村家臺篆額
攘夷ノ心切切タルモノ豈惟浪士ノミナランヤ 世ノ愚婦愚夫ニ至ルマデ洋夷ノ猖獗ヲキケバ切歯扼腕シ 攘夷ノ令下ルヲキケバ歓喜踊躍ス 臣等ガ如キ無似ナルモノモ安ンゾ…
長州の吉田松陰が「師の師たる人」と讃えるほどの偉人が橿原市八木町にいたとは、驚きだ。大和はまことに奥が深い。
※トップ写真は華甍の庭に建つ三山の顕彰碑。若林稔さんにお撮りいただいた
「高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平」と詠んだのは五條出身の儒学者・森田節斎。谷の昌平とは、谷三山(たに・さんざん 1802~67)の通称である。三山は幕末の儒学者だ。三山は高取藩領だった高市郡八木村(橿原市八木町)の裕福な米穀商の三男として生まれた。幼い頃から病弱で一五、六歳の頃には完全に聴力を失った。
「もっぱら正史経伝(中国の史書や四書五経など)の研究に没頭した。やがて家塾興譲館をおこし門人は1000人に及んだ。嘉永2年、高取藩主植村家興は扶持を賜い士籍に列せしめた。三山の学は経学(四書五経の研究)を主とし、また経国済世(国を治め世を救う)に志あり、藩政あるいは攘夷や山陵修復などについて上書(上申)した。頼山陽も三山に敬服し、かたみ(遺品)としてその印を贈ったという。老年失明し慶応三年66歳をもって没した」(『明治維新人名辞典』。カッコ内は補記)。
幕末の思想家で尊王論者として知られる長州藩士・吉田松陰は郷里への手紙の中で三山のことを「生涯寅次郎の高師と敬うべき方」「師の師たる人」と書き記している。冒頭の森田節斎と三山は、1847年、三日三晩にわたり対談(筆談)した。その記録が『愛静館筆語』として残っている。
「内容は経書や史書についての議論が多く、全国の諸学者の批評についても相当激しく、また時事問題も取り扱われ」た(『伝記谷三山』)。節斎は「身は五條にあれども魂は八木に飛べり。今回の筆語にしてその志を果たすことを得たり。愉快愉快」(同)と締めくくっている。三山は自室でほとんどの時間を過ごしながら、世界情勢はよく把握していた。
三山の顕彰碑横にある説明板
三山の顕彰碑が橿原市の今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」の庭に建つ。その出だしは「攘夷ノ心切切タルモノ豈惟浪士ノミナランヤ…」。三山は攘夷論者であるとともに富国強兵と学校教育制度の充実を提言していたという。
三山は多くの門人を輩出した。尊王攘夷の志士・天忠組(天誅組)に加わって落命した原田亀太郎、のちに「奈良公園の父」と呼ばれた前部重厚(まえべ・じゅうこう)、「近代紡績の父」石河確太郎など。
橿原市に住む知人が三山の掛け軸を持っていた。「養成蛙吹…」ではじまる漢詩(南宋の范成大の詩)で、荒れ果てた田園風景を詠んだものだ。意味は「蚊がたくさん飛んでいるので、蚊を食べる蛙をいくら育ててもきりがない」。 激動の幕末にあって三山には、もどかしい思いが募っていたのだろう。三山が亡くなったのは王政復古のわずか二日後だった。今年は三山没後一五〇年。郷土が生んだこの偉大な学者に、思いをはせていただきたい。
※三山の生涯については、奈良県立大学・ユーラシア研究センターの調査報告を参考にさせていただきました。
「養成蛙吹…」ではじまる漢詩(南宋の范成大の詩)は、今井町町並み保存会の若林稔会長からご教示いただいたものだ。全文は「養成蛙吹無謂掃盡蚊雷却奇」(『石湖詩集』所収)である。また三山の顕彰碑(今井まちなみ交流センター「華甍」敷地内)の碑文の出だしは、
正三位子爵 植村家臺篆額
攘夷ノ心切切タルモノ豈惟浪士ノミナランヤ 世ノ愚婦愚夫ニ至ルマデ洋夷ノ猖獗ヲキケバ切歯扼腕シ 攘夷ノ令下ルヲキケバ歓喜踊躍ス 臣等ガ如キ無似ナルモノモ安ンゾ…
長州の吉田松陰が「師の師たる人」と讃えるほどの偉人が橿原市八木町にいたとは、驚きだ。大和はまことに奥が深い。
お軸の意味もさることながら、世間の風評を揶揄するために引用された「南宋の范成大の詩」引用か所にたどり着くまで大変苦労した膨大な詩集です
こんなのを読破されて自分の血にされていた先人のエネルギーのすごさに敬服しました
この度鉄田さんが谷三山をお書きになったことによって、また奈良の偉人を思い起こせる機会になれたらうれしいです
この度の「谷三山」のご紹介有難うございます。
以前、天理大学文学部前教授谷山正道先生から「谷三山」の業績について教えて頂き、その後八木のお屋敷を外から拝見したことがありました。
そしてラジオでも紹介したことがありました。
鉄田さんが紹介されているのを読んで思わず嬉しくてコメントを入れさせて頂きました。
有難うございます。
> 谷三山直筆のお軸も、捨てられるに近い状態で売りに出され
> たのを入手したもので、夏のお茶席で2回出して話題にしました
> が、皆目話題に乗ってきてくれませんので残念だったところです
それは思わぬ拾いものでしたが、これほど三山の名前が忘れられているというのは、とても残念です。
> 世間の風評を揶揄するために引用された「南宋の范成大の詩」
> 引用か所にたどり着くまで大変苦労した膨大な詩集です
大変ご苦労をおかけいたしました。南宋の詩にまで目配りしていたとは、さすが谷三山ですね。
> 谷山正道先生から「谷三山」の業績について教えて頂き、その後八木のお屋敷を
> 外から拝見したことがありました。そしてラジオでも紹介したことがありました。
小川さん、ずいぶんご無沙汰しています。私が参考にした奈良県立大学ユーラシア研究センターの調査報告書は、谷山正道先生が執筆されたものです。また機会を捉えて谷三山をご紹介ください!