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田中利典師の「修験道の廃絶」(世界遺産登録10周年記念講座)

2024年01月25日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、「修験道の廃絶」(師のブログ 2015.3.6 付)、前年に開催された「吉野大峯世界遺産登録10周年記念連続講座 in 東京」の中の〈日本が日本のままで生きている世界遺産「吉野大峯」〉(2014.7.11)の話である。
※トップ写真は、吉野山の桜(2022.4.7 撮影)

明治維新後の神仏分離令・修験道廃止令によって、日本の宗教は大きく変わった。しかも〈これは何も修験だけの問題であったわけではなくて、日本国全体の大きな転換期でありました。私はある種の文化大革命、日本人の精神文化がここで大きく変えられたと思っています〉と持論を展開されている。ぜひ、全文をお読みいただきたい。

「修験道の廃絶」
今から1400年ほど昔、西暦538年、あるいは552年といいますが、仏教が正式に日本に伝わってまいりました。はじめ蘇我氏と物部氏の間で少し神様を祀(まつ)る一派と、仏教を祀る一派が揉(も)めますが、ほとんど揉めたのはこのときだけ。後1300年以上、神様と仏様は仲良くやってまいりました。

神道は仏教が伝わる前は、神道という概念、言葉さえなかったかもしれません。ところが仏教の広大な教義、論理を元に、神道も神道という概念が出てまいりました。あるいは仏教美術、仏教の建物様式を真似て神殿ができたり、あるいは御神像までできたりして、神道は仏教の影響を受けました。

仏教も日本人が受け入れたときに、既に非常に神道を意識していました。その証拠の一つが、仏教が伝来したときに造られた仏像の多くが楠であった。楠というのは霊木信仰であります。

元々日本にあった神信仰に仏教が融合していった。中国や朝鮮には霊木で彫られた仏像というのはほとんどありませんが、日本では最初に造られる仏像の多くは霊木に刻まれている。

神様と仏様はいずれ融合して、神仏習合、神仏混合の宗教を生んで、いわば日本人の精神文化、仲の良い夫婦のような関係でやってきた。その夫婦の間に生まれたのが修験でありました。

ところが明治に、明治維新が成ってすぐ、政府ができたかできないかわからないときに、いち早く出された施策が神仏分離。1300年以上続いた神様と仏様がここで袂を分かちました。

廃仏毀釈という運動がこのあとに生まれるんですが、ややもすると神仏分離によって被害を受けたのは仏教だけのようにいわれますが、実は神道も随分な被害を受けます。

後に出てくる国家神道というヒエラルキーの中に、古い形の神道は改変をされて、地域にあったたくさんの神々が合祀の下に鎮守の杜が壊される。

神道も仏教も大変な被害を受けたのがこの神仏分離の時代でありましたが、いずれにしろ仏教は仏教で純化すれば生き残ることができました。神道は神道で純化すれば生き残ることができた。

ところが修験というのは神仏習合の宗教でありますから、生き残ることはできませんでした。大方の修験寺はつぶされるか、神社になるか。ついには明治5年に修験道廃止令というのが出ます。

金峯山寺も上が山上の本堂で、下が山下の本堂で、全体が金峯山寺というお寺だったんですけども、明治5年の神仏分離、修験道廃止以降、2年間がんばりますが、2年後には吉野の地主神の金峯神社の、山上の本堂は奥宮、山下の本堂は口宮ということで、寺の姿をなくす、寺号をなくしました。

全国にあった山のほとんどは修験信仰でした。熊野は熊野権現、英彦山(ひこさん)は英彦山権現、白山は白山権現、羽黒山は羽黒山権現、富士山は浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)。

神様と仏様が融合した形で、日本のほとんどの霊山は信仰されてきたんですが、そのことごとくが神社となって生き残るか、廃絶するかという時代を迎えたのであります。

これは何も修験だけの問題であったわけではなくて、日本国全体の大きな転換期でありました。私はある種の文化大革命、日本人の精神文化がここで大きく変えられたと思っています。
※吉野大峯世界遺産登録10周年記念連続講座 in 東京世界遺産『吉野大峯』の魅力:演題:日本が日本のままで生きている世界遺産「吉野大峯」(平成26年7月11日 東京SYDホール)講演録より
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