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日本仏教の伝統の中で by 田中利典師

2018年12月04日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)で種智院大学客員教授の田中利典師が、ご自身のFacebookで「対談:田中利典vs正木晃」(仏教タイムス2005年3月掲載)の文章を再掲載されていた。ご自身が「2005年の対談記事ですが、いまなお、色あせてない、と思うのは我田引水でしょうか…」とお書きの通り、13年の年月を全く感じさせない。以下に紹介させていただく。
※トップ写真は、利典師のFacebookから拝借した

「日本仏教の伝統の中で、私たちはその余力で生きている」
 ー田中利典著述集を振り返る 271202

明治初期に神仏分離をして虚妄の国家神道を作り一神教化を図って近代化は成功しますね。ところが庶民レベルでは未だに多神教的風土が続いていて、ついこの間まで日本人の家庭には仏壇と神棚があったわけです。神仏習合でやってきた。

でも今はない。神棚も仏壇もない。それは伝承が途切れているから。神仏習合の文化的伝承は、国は一神教こしらえたけれど、庶民レベルでは文化伝承のなかで鎮守の森の祭りもあったし、家の中では先祖供養と土地神祭祀もやってきた。今でもそのなごりはある。が、もうぎりぎりのところまで来ている気がする。

自然と切れて、それで人間が幸せになれるのならそれはそれでいい。養殖ものばかり食べて夕日も見たことない子どもがいっぱい生まれて、それで日本がよい国で人間が幸せであるならいいが、違うでしょ。近代化を図ってきて日本人がホントに心が豊かで人間性が豊かであるならいいけれど、目の前に壊れているとしか思えないことが次々と起こっていて、なおまだそれを是とするか、ということですよ。

戦争に負け国家神道が解体され、物と金のみを与えられ、今になって、心の時代といいますが、じゃどこに戻るのかということです。戻るべき心はとっくに取り外されている。それを支えてきた家制度、村落共同体制度が昭和35年以降高度経済成長と共にガラガラガラと壊れていった。

私は「三つ子の魂百まで」というのがこの国に暮らしてきた人達の中には累々してまだ伝承しているものがあるのだと思う。けど「三つ子の魂百まで」というその精神的な文化伝承もそろそろ怪しくなってきている。壊し切る前にきちっと戻るべきものを示す役割が政治家にないとするなら、少なくとも宗教人はもつべきだと思う。

家制度、村落共同体が壊れ、前近代的なものが壊れてきましたが、唯一残っているのが例えば檀家制度。檀家制度というコミュニティは壊れかかってはいるがまだ壊れ切ってはいない。この檀家制度があるうち、そうしたものを取り戻す努力を今のお坊さんにはすべき役割があるのではないか。自分達の糊口を養うことに終始するのではなくて、ホントに日本仏教の伝統の中で私たちはその余力で生きているわけですが、使い果たすのではなく、もう1回使い直すことが必要。
ー仏教タイムス2005年3月掲載「対談:田中利典vs正木晃」

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私にはいくつかの持論がある。実は檀家制度というのは、江戸時代に出来たものだが、江戸時代の人口はせいぜい2000万人から2500万人。現在は1億2600万人を越えている。とするなら2500万人を対象とした制度というのは、基本持たないのではないか。組織や制度は2割3割の変動には対応出来るが、4倍5倍となると、制度自体が変革されないと無理だと思っている。

檀家制度も、いままで、創価学会や、新宗教が生まれる中で、手の届かないところを補填されながら存続してきた部分があるが、そろそろ、制度自体を根本的にリニューアルするべきときだと思っている。さてさて…。(2015年12月2日)


利典師がお書きの通り、日本は明治初年の「神仏分離令」、戦後の「神道指令」(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)と、2度にわたる宗教破壊を経験している。その中でよく檀家制度(寺檀制度)が、曲がりなりにも維持されてきたものだと感心する。

「葬式仏教」と揶揄されることがあるが、やはり日本人の心情は「葬儀は仏式であげたい」ということなのだろう。神仏分離令150年の年末にあたり、思いをめぐらしている…。
コメント
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