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天誅組とは何か(第8回なら観光サロン)

2012年05月07日 | 観光にまつわるエトセトラ
観光に興味のある有志で作る「なら観光サロン」の8回目を4/26(木)に開催した。参加者は26人。来年の「天誅組蹶起(けっき)150年」を控え、演題を「天誅組とは何か」として、舟久保藍(ふなくぼ・あい)さんを講師に迎え、約1時間のご講演をしていただいた。6/2(土)には第10回古社寺を歩こう会として「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」というウォーキング・ツアーも予定しているので、ちょうど良い予習にもなった。

舟久保さんは、「維新の魁・天誅組」保存伝承・推進協議会(五條市新町)の特別理事を務めておられる。この日、舟久保さんにはツボをきちんと押さえつつ、興味深いエピソードを交えてお話しいただいた。懸命にメモしたがとても追いつかなかったので、当日配付していただいた「天誅組の変」(五條市教育委員会)から、概要を抜粋する(青字で表記)。

1.「天誅組」とは
天誅組は幕末の文久3年(1863)8月、江戸幕府を倒して新しい日本を創るさきがけになろうと立ち上がった、中山忠光(ただみつ)を盟主とする尊王攘夷の志土たちです。中山忠光は当時19歳の血気盛んな青年貴族でした。後に明治天皇となる祐宮(さちのみや)の叔父にあたり、祐宮の侍従を務めたことも
ありました。

忠光のもとには、土佐(高知県)出身の吉村虎太郎、三河(愛知県)出身の松本奎堂(けいどう)、備前(岡山県)出身の藤本鉄石(てっせき)が三総裁として仕えていました。また五條在住で天誅組に参加した志士には、乾十郎・井澤宜庵(ぎあん)の二人がおり、丹生川上神社の神職を務めていた橋本若狭(わかさ)も、宇智郡滝村(五條市滝町)の出身でした。


舟久保さんは、「忠光は、明治天皇の遊び相手を務めた」と表現されていた。


写真はすべて吉田遊福さんに撮っていただいた。遊福さん、有難うございました!

2.寺田屋事件(文久2年)
文久2年には「寺田屋事件」が起きた。薩摩藩尊皇派等の鎮撫事件である(世に「寺田屋事件」と呼ばれる事件は2つあり、別の1つは慶応2年[1866年]に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件である)。Wikipediaで寺田屋事件(文久2年)をおさらいしておく。《文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩尊皇派が薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫されたと言われる事件。寺田屋騒動とも》。

《藩兵千名を率い上洛した久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負った。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体がその路線であった。このことに不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七らは同じく尊王派の志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集った。当時寺田屋は薩摩藩の定宿であり、このような謀議に関しての集結場所としては格好の場所だったようである》。



《久光は大久保一蔵等を派遣しこの騒ぎを抑えようと試みたが失敗したため、彼らの同志である尊王派藩士を派遣して藩邸に呼び戻し、自ら説得しようとした。ただし万が一を考え、鎮撫使には特に剣術に優れた藩士を選んだ。大山綱良らは有馬新七に藩邸に同行するように求めたが有馬はこれを拒否し、“同士討ち”の激しい斬りあいが始まった。この戦闘によって討手1人)と有馬ら6名が死亡、2名が重傷を負った。また2階には多数の尊王派がいたが、大山綱良らが刀を捨てて飛び込み必死の説得を行った結果、残りの尊王派志士たちは投降した》。

《負傷者2名は切腹させられ、尊王派の諸藩浪士は諸藩に引き渡された。引き取り手のない田中河内介らは薩摩藩に引き取ると称して船に連れ込み、船内で斬殺され海へ投げ捨てられた。斬った柴山矢吉は後に発狂したという話がある。彼だけでなく、鎮撫使側の人間は不幸な末路をたどったものが多い。一方で、尊皇派の生き残りは多くが明治政府で要職に立った。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かっていった》。同年8月には生麦事件(島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷)が起き、そのもつれから文久3年7月には薩英戦争が起こっている。そういう時代であった。



3.寺田屋炎上!(by 京都市産業観光局)
余談になるが、Wikipedia「寺田屋事件」に、こんなことが書かれている。《現在寺田屋を称する建物には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった》。

《2008年になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し,現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している》。

《大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない》。これは驚いた。私が「寺田屋」を訪ねたのは1度や2度ではない。幼い長男を連れて行って、「弾痕」や「刀傷」を見せたこともある(以来、息子は日本史好きになった)。それが「再建」だったとは…。「京都のいしぶみデータベース」にはA4版6ページの「寺田屋関係資料9種と若干のコメント」という詳しい資料が掲載されている。

そこには《2008年9月1日発売週刊ポスト誌9月12日号に“平成の「寺田屋騒動」”と題した記事が掲載された。この記事は,伏見寺田屋は鳥羽伏見戦で焼失し,現在の建物はその後再建されたものであると主張する。事前に同誌の取材を受けた京都市産業観光局観光部観光企画課では「ご指摘の件は至急調査確認」(ポスト誌による)すると回答した。その後,京都市歴史資料館に調査依頼があり,当館では「寺田屋が鳥羽伏見戦で焼失した」と結論づける調査報告を提出。9 月25 日,産業観光局観光部ではこれを各報道機関に配布した。本稿は京都市産業観光局観光部(担当観光企画課)の依頼により作成した寺田屋再建に関する京都市歴史資料館の報告書をもとにしている》とある。 閑話休題。「天誅組の変」の引用を続ける。



4.当時の五條
そのころの五條には幕府の代官所が置かれ、周辺の幕府領(天領)を支配する政治の中心地でした。それでも代官所は、数名の役人しかおらず警備も手薄で、倒幕の狼煙(のろし)を上げるには都合の良い攻撃目標でした。また、森田節斎(せっさい)のような尊王の儒学者が生まれたように、そこに住む人々の教養も高く、尊王思想にも理解があったようです。また、五條は朝廷を崇拝する気風が伝統的に強い十津川の玄関□であり、反幕府の機運が高まると、京都の志士が節斎と連絡を取り合いながら、十津川に入って郷士たちに決起を呼びかけていました。

坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」で、刺客は「十津川郷士」と偽って押し入った。十津川郷は古くから朝廷から税の減免を認められていたので、勤王の志が強かったのである。

5.森田節斎
森田節斎は文化8年(1811)に五條で生まれ、15歳の時に京都で頼山陽に入門したのち、各地を遊学して立派な儒学者に成長し、吉田松陰など尊王攘夷の志士たちを教育しました。天誅組に参加した志士にも、乾十郎や原田亀太郎など節斎の指導を受けたものがいました。天誅組の変当時は倉敷で塾を開いていましたが、幕府から危険人物と目されたので塾を閉めて故郷へ帰り、最後は紀州粉河近くの荒見村(現在の和歌山県粉河町荒見)に隠れ住み、慶応四年(1868)に同所で亡くなりました。


6.天誅組の変
文久3年、そのころの日本ではいわゆる鎖国が終わり、外国人が日本に人り込んでくるようになりました。それと同時に江戸幕府の権力が弱くなり、多くの人たちがこれからの日本はどうあるべきなのかを真剣に考えていました。そんな中で、天皇を崇拝する思想である尊王論と、外国を排除する思想である攘夷論とが結びつき、幕府を倒し天皇が直接政治を行う新しい社会を創ろうとする尊王攘夷派と、幕府を立てなおし朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする公武合体派との間で、険悪な雰囲気となっていました。

同年8月、朝廷の要職に就いていた三条実美(さねとみ)ら尊王攘夷派の公家たちは、幕府に攘夷決行の命令を下しましたが幕府はためらってそれを実行しようとせす、ついに実美たちは倒幕の策を練りました。それは孝明天皇に神武陵・春日大社で攘夷を祈願する大和行幸を働きかけ、それに乗じて倒幕の兵を挙げようというものでした。そして思惑通り8月13日(旧暦)、大和行幸の詔(みことのり)が発せられました。それを受けて、倒幕軍の先鋒になろうとした天誅組の志土たちは密かに京都を出発。70~80人ほどの軍勢で五條代官所を襲撃したのは、8月17日の七つ時(午後4時ごろ)のことでした。

天誅組は、五條代官の鈴本源内らを殺害して代官所を焼き払うと、桜井寺を本陣に代官所管轄下の天領を朝廷に差し出すと宣言しました。後は天皇の行幸を待つばかりとなり土気も高まる天誅組でしたが、翌8月18日、京都では公武合体派が政変を起こし、三条実美ら尊王攘夷派は失脚した(8月18日の政変)ために大和行幸は取りやめとなり、一転して天誅組は逆賊として追討軍に追われるところとなりました。



7.8月18日の政変(公武合体派のクーデター)
「8月18日の政変」について、Wikipediaを引いて説明を加えておく。《文久3年8月18日、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。(中略) 大和行幸の詔は8月13日に発せられたが、前後して会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、中川宮朝彦親王を擁して朝廷における尊攘派を一掃するクーデター計画を画策していた。8月15日、松平容保(京都守護職、会津藩主)の了解のもと、高崎正風(薩摩)と 秋月悌次郎(会津)が中川宮を訪れて計画を告げ、翌16日に中川宮が参内して天皇を説得、翌17日に天皇から中川宮に密命が下った》。

《文久3年8月18日午前1時頃、中川宮と松平容保、ついで近衛忠熙(前関白)・二条斉敬(右大臣)・近衛忠房父子らが参内し、早朝4時頃に会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置が完了した。そこで在京の諸藩主にも参内を命ずるとともに、三条ら尊攘急進派公家に禁足と他人面会の禁止を命じ、国事参政、国事寄人の二職が廃止となった。8時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内し、諸藩兵がさらに九門を固めた》。

《かかる状況下での朝議によって、大和行幸の延期や、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議した。長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなった。19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿落ち)》。

《政変の前日、土佐浪士の吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵するも、政変による情勢の一変を受け9月末に壊滅した(天誅組の乱)。また、10月には平野国臣や河上弥一らが七卿落ちの公家の一人澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵したが、諸藩に包囲され澤らは逃亡、河上らは集めた農兵に逆に殺害されるなど、無残な敗北に至った(生野の変)。政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮した》。では「天誅組の変」に戻る。

天誅組は、尊王の志が厚い十津川に立てこもってそこで兵を募り、高取城を攻めるなどなおも抵抗を続けましたが、天誅組が反乱軍となった事実が十津川郷士に知れると、彼らも離反して勢力は日に日に弱まり、9月24日に吉野郡小川郷鷲家□(今の東吉野村小川)でほとんど全滅しました。天誅組の変は、尊王攘夷派によって試みられた最初の反幕府武装蜂起だったのです。そうした意味で、天誅組の変は明治維新のさきがけとなるものであり、五條が明治維新発祥の地と言われるゆえんでもあります。

8.おお、大砲(徳川300年の実態)
高取城の攻防について、舟久保さんから興味深い話をお聞きした。高取藩の藩宝たる大砲から撃たれた弾は、当たった男に3日間の耳鳴りをさせただけ、というトホホな話である。このシーンは、司馬遼太郎著『おお、大砲』に活写されている。《『おお、大砲』は、高取藩士の次男坊の新次郎が、ひょんなことから藩に常備された大砲の担当となって、天誅組との高取城攻防戦に活躍する内容である。新次郎と因縁のある玄覚房は天誅組に参加するが、維新後に再会した二人が次のような会話を交わす部分がある》(井本喬氏のHP「本に出会う」)。

《「大砲さ、だれにも当たらなかったのに、運わるく私にあたってしまった。頭に、三貫目玉が一発、ぐゎあんとぶちあたって来た」「それあ‥‥‥」新次郎はしばらく声をのんで、「私が射ったんだ」「ほほう、これは奇縁だ」玄覚房は妙な感心の仕方をして、「奇縁だな。やっぱり、あんたとは縁があったんだ。よりにもよって、あんたがぶっぱなした玉とは夢にもおもわなんだ」「私も想像だにしなかった」「まったくあの大砲にはひどい目にあわされた。三貫目玉がカブトに当たってから、三日三晩、耳鳴りがして眠れなかったほどだ」
「耳鳴り。…」こんどは新次郎のおどろく番だった。二百年間、高取藩の藩宝として受けつがれてきたブリキトース砲は、この紀州の足軽あがりの男に耳鳴りさせただけにすぎなかったのだ。(なるほど、そういうものかもしれない)この一事で、徳川三百年というものの中身が、なんとなくわかるような気がした》(同)。



9.幕府による「天誅組討伐」
高取城攻撃が行われたあとの詳しい動きをWikipedia「天誅組の変」から拾っておく。《天誅組に対して、高取藩兵は大砲と鉄砲で攻撃、烏合の衆である天誅組はたちまち大混乱に陥ったが、忠光にこれをまとめる能力はなかった。天誅組は潰走して五条へ退却する。吉村は決死隊を編成して夜襲を試みることとし、26日夜、決死隊は高取藩の斥候に遭遇し交戦するが、味方の誤射により吉村が重傷を負ってしまう。決死隊はなすところなく退却し、天の辻の本陣へ戻った。忠光は、紀州新宮より海路で移動し、四国、九州で募兵することを提案するが、吉村らはこれに従わず、忠光は吉村らと別れて別行動をとった。また、この時点で三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥のように脱走するものもあった》。

《幕府は紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などに天誅組討伐を命じた。9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。9月5日、忠光が吉村らに再度合流して天の辻の本陣へ帰った。諸藩の藩兵が動き出し、6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する》。

《14日、紀州・津の藩兵が吉村らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は十津川郷に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みるが、重傷を負っていた吉村は一行から落伍してしまう》。

《24日、一行は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。那須信吾は忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、藤本鉄石も討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。一行から遅れていた吉村は27日に鷲家谷で津藩兵に撃たれて戦死。天誅組は壊滅した。忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐり脱出に成功、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われた。忠光は長州に逃れて下関に隠れていたが、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)によって元治元年(1864年)11月に絞殺された》。



10.「流転の王妃」嵯峨浩(ひろ)は、中山忠光のひ孫だった!
下関に隠れてからの中山忠光の動きが興味深い。舟久保さんから詳しくお聞きしたが、Wikipedia「中山忠光」から拾っておく。《長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、潜居中の同年11月9日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。刺客であろうとされる剣の達人である福永正介の墓が現在の下関市大字福江字平松にある。長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われている。(忠光の)墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位》。

《「忘れ形見・仲子とその末裔」中山神社内の愛新覚羅社の由緒書きによると、長府藩潜伏中に寵愛した侍妾恩地トミは、忠光が暗殺された後に遺児仲子を産んだ。忠光の正室・富子が仲子を引き取り養育する事になり、公家の姫として育てるために、忠光が暗殺された長府藩の藩主家・毛利氏の養女となり公家・中山家に引き取られた。富子は亡き夫の忘れ形見の仲子を大事に育て上げ、維新後に仲子は嵯峨公勝夫人となった。また、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身の浩は、忠光の曾孫(ひまご)にあたる》。

仲子の孫で、忠光の曾孫(ひまご)にあたる嵯峨浩(ひろ)は、「流転の王妃」である。Wikipedia「嵯峨浩」によると《嵯峨浩、1914年(大正3年)3月16日―1987年(昭和62年)6月20日)は、愛新覚羅溥傑(満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟)の妻。流転の王妃として知られる》《浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた》。

《当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められなかった。そこで昭和天皇とは父親同士が母系のまたいとこにあたり、侯爵家の長女であり、しかも結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになった。翌1937年(昭和12年)2月6日、二人の婚約内定が満州国大使館から発表され、同年4月3日には東京の軍人会館(現九段会館)で結婚式が挙げられた》。



浩は2人の女の子を産む。しかし戦争が運命を弄んだ。夫婦は次女を伴って新京に移り住んでっていたが、溥傑は日本へ亡命する途中でソ連軍(赤軍)に拘束される。浩は流転の末、上海発の最後の引揚船に乗船して帰国する。浩は《日本に引揚げた後、父・実勝が経営する町田学園の書道教師として生計を立てながら、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転した嵯峨家の実家で、2人の娘たちと生活した。一方、溥傑は、溥儀とともに撫順の労働改造所に収容され、長らく連絡をとることすらできなかった。1954年(昭和29年)、長女の慧生が、中華人民共和国国務院総理の周恩来に宛てて、「父に会いたい」と中国語で書いた手紙を出した。その手紙に感動した周恩来は、浩・慧生・嫮生と、溥傑との文通を認めた》。

《1957年(昭和32年)12月10日、学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生大久保武道とピストル自殺した(天城山心中)。1960年(昭和35年)に溥傑が釈放され、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会した。この後、浩は溥傑とともに、北京に居住した。(中略) 1987年(昭和62年)6月20日、北京で死去した。1988年(昭和63年)、浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、慧生の遺骨とともに納骨された》。

《溥傑が死去した1994年(平成6年)、浩と慧生の遺骨は半分に分けられ、溥傑の遺骨の半分とともに愛新覚羅社に納骨された。浩と慧生の残る半分の遺骨は、溥傑の遺骨の半分とともに、中国妙峰山上空より散骨された。次女の嫮生は日本に留まって日本人と結婚、5人の子をもうけ、2008年(平成20年)現在、兵庫県西宮市に在住する》。この話は、テレビ朝日開局45周年記念作品「流転の王妃・最後の皇弟」としてドラマ化された。観光サロンの参加者にも、このドラマを見た人がいたが、それが天誅組とつながっていたとは、誰も知らなかった。なお浩を演じたのは常盤貴子で、偶然彼女は《浩の孫(次女嫮生の次男)と同級生であった》という。

11.天誅組「軍令」にみるサムライ精神(おわりに)
最後に舟久保さんは、天誅組の「軍令」を抜粋して紹介された。
○一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず。
○乱暴、これあるまじき事。猥(みだ)りに民屋に放火し、餓死するともほしいままに取り申すまじき事。
○諸勝負は勿論、飲酒にふけり、或いは婦人等けっして犯すまじき事。
○上下の礼を守り、言語動作、人に対して驕(おご)りがましき振舞あるべからざる事。


確かにここには、「皇軍」の名に恥じない行動を求めるサムライの態度が感じられる。一時的な奇襲隊ではなく、皇軍先達としての意志が読み取れるのである。私利私欲ではなく、「天」や「神」といった「公」に殉じようとする意志が感じられる。

参加された皆さん、たくさんの良いご質問をいただき、おかげで私も理解が進みました。舟久保さん、わずか60分なのに中身の濃いお話を有難うございました。お若いのに、よくあれだけの該博な知識を身につけられたものです。舟久保さんこそ、本物の「歴女」ですね。次は6/2(土)の第10回古社寺を歩こう会「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」でお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします!
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