参考画像:『ネット・アキュミュレーション』(部分、1958年、国立国際美術館蔵)
際限のない網目をびっしりと描くことから、草間彌生の画業 ― という言葉はふさわしくないが ― ははじまっている。
展覧会場の上の階では、館蔵品を展示するコレクション展がひっそりと開かれていたが、そこにも草間の作品があった。『ネット・アキュミュレーション』はごく初期のもので、彼女がアメリカに渡った翌年に制作されている。黒地の画布に白い絵の具で細かな網目が折り重なるように描かれ、増殖していく。アキュミュレーションとは、「集積」というような意味である。
3枚の連作からなっているが、どこにも中心はなく、したがって周縁もない。こんな気の遠くなるような絵を、当時の草間は朝から晩まで、食事とトイレのとき以外は休む間もなく描きまくったという。
《私はノイローゼにしばしば悩まされた。カンヴァスに向かって網点を描いていると、それが机から床までつづき、やがて自分の身体(からだ)にまで描いてしまう。同じことを、繰り返し、繰り返しすることで、網が無限に拡がる。つまり、そこでは自分を忘れて網の中に囲まれてしまい、手も足も、着ているものまで、部屋中すべてが網で満たされていく。》(草間彌生『無限の網 ―草間彌生自伝―』新潮文庫)
あたり一面をおおいつくした網の目のわずかな隙間が、細かなドットの集積となって見えてくる。そうやって、彼女の水玉は生まれたのだ。若き草間をさいなんだ病的な感覚が、のちの「ハプニング」で盛んにおこなわれたボディーペインティングの原体験というべきものであり、そういう過激なことをしなくなった今でも、草間が水玉の衣装に身を包んで人前にあらわれるのは、よく知られているとおりである(私服姿の草間彌生というのを、ぼくは想像できない)。
草間がよく使う言葉に、セルフ・ オブリタレーション(自己消滅)というものがある。増殖する水玉の恐怖に打ち勝つには、みずからも水玉になって同化してしまうしかない、ということか。草間の方法論は、人間よりもむしろカメレオンに近いような気がする。カメレオンは自分の体色を自在に変化させることができるというが、今現在の草間も、まさにそれをやっているのであろう。
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『青春を前にした我が自画像』(2011年)
だが、草間彌生はそれで本当に解放されているのか。おそらく、彼女はまだ満たされていないのだ。だからこそ、『愛はとこしえ』のような驚異的な連作をほとんどエンドレスに描きつづけようとするのである。絵を描きはじめてから何十年も経っているのに、いまだに強迫観念に駆られるように描きつづけなければならないというのは、常人の理解をはるかに超えた難事業だといえる。
水玉におおわれたカボチャの前で子供たちが喜んだり、赤白で派手に彩色された携帯電話を見た女子たちが「カワイイ」などという嘆声を漏らしたりするのを見るのは、草間にとって幸福なことかもしれない。けれども彼女の眼光鋭い瞳の向こうには、われわれの眼には決して映ることのない、この世ならぬ奇怪な化け物が蠢いているのではないか。そしてそれは、今もなお無限に増殖しつづけているのではないか。
最新作『青春を前にした我が自画像』に執拗に描かれた水玉と、写真で見かける草間彌生とはずいぶんちがった虚ろな眼付きは、そんな連想をさせるのにじゅうぶんすぎるほどであった。
(了)
DATA:
「草間彌生 永遠の永遠の永遠」
2012年1月7日~4月8日
国立国際美術館
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