てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

生き延びた狩野派(5)

2013年06月14日 | 美術随想

狩野山雪『老梅図襖』(1646年、メトロポリタン美術館蔵)

 この『老梅図襖』も、ひと眼で腰砕けになってしまうような驚きを秘めた絵だった。果たしてこれが、梅なのか? 前項の朝顔の図がわれわれの常識を一瞬にして乗り越えてしまったように、こちらの梅も、遠く離れた海外で発見された新種の植物のようである。

 この絵は、文化財に指定されていない。というのも、今はニューヨークのメトロポリタン美術館にあるからだ。大貫妙子が歌ったように、普段はエジプトのファラオなどと一緒になって、異国に安住しているのであろう(なおこの襖の裏面に描かれた絵は、取り外されてアメリカの別の美術館に所蔵されるという、まことに数奇な運命をたどった)。

 もとはといえば、妙心寺の塔頭である寺院を飾っていた襖だということだ。そんな由緒ある絵が海外へ流出したいきさつについては知らないが、最初に眼をつけたアメリカ人は、それこそ図鑑などに載っていない新種の梅を見つけたような気になったのではないだろうか。

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 それにしても、とぼくは思う。屏風絵や襖絵は、ほとんどあらゆるモチーフを描くのに足りるほどの、じゅうぶんな大きさを備えた媒体であるはずだ。たまに東京などに出ると、畳何畳分かわからぬほど巨大な面積にタレントの顔が大写しにされた広告がビルの上に掲示されていたりして驚かされることがあり、まさに奈良の大仏も真っ青といったおもむきがあるが、それほどの大きさがあれば何だって描けるはずなのである。

 ではなぜこの老梅は、アコーディオンの蛇腹を縮めたごとき姿で、横に詰まったような状態で描かれたのだろうか。いや、もっといえば、襖の引き手に邪魔されるのを避けるみたいに、不自然に枝が湾曲したようなかたちをしているのか。

 伊藤若冲を世に広めた功労者のひとりである辻惟雄(のぶお)は、今から40年以上も前に山雪の“奇想”に着目し、次のような文章を書き残している。

 《老樹の灰緑色の幹は、金地の輝きのなかを、さながら身もだえしのたうちまわる巨大な蟠龍のように、上昇し、下降し、屈曲し、痙攣する。桃山の巨木は、ついに奇怪な幻想の世界に移されてしまった。》(「奇想の系譜」)

 この絵が描かれたとされる1646年は、日本の年号では正保3年にあたり、家光の治世である。ぼくはあまり歴史に詳しくないが、さほど乱れた世であったとは思われない。ではなぜ、観る者の気持ちを不穏にさせるくねくねとした奇怪な枝が描かれねばならなかったのだろう?

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 まず気がつくのは、右端の襖の一面と、その隣の一面とが、明らかにつながっていないということだ。寺から持ち出されたり、表裏を剥がしたりする過程で一部が欠損してしまったのかどうか、はっきりしたことは何もいえないが、とにかく現状では水平に伸びた太い幹が途中からどこかへ行ってしまったように見える。

 こういった不完全さは、他の屏風絵や襖絵についてもよくみられる。この老梅が必要以上にひしゃげて感じられるのは、人間でいえば首と足がつながったような、不自然な“つぎはぎ”になっているせいでもあろう。

 ただ、もちろんそれだけではない。特に中央の二面は、それだけで - まるで株価の乱高下さながらに - 激しい上下動を繰り返している。これが自然のありようを忠実に写していないことは、あまりにもたしかなことだ。

 では、両端の二面に限って観てみると、こちらはごく平凡な、写実的な梅であるように思える。いってみれば、健全な梅の途中に突然変異の梅を接ぎ木したような、まことに奇妙な造形になっているのだ。ここまでくると、西洋のタブローに慣れてしまった身には、まことに鑑賞しづらいといえる。この襖全体でひとつの絵画として眺めていいのかどうか、判断に迷わざるを得ないのである。

 こういった、理屈では収拾がつかない“へんてこりん”な絵がアメリカに買われていき、彼の地で多くの人の眼を楽しませているのは、やはり難解な抽象表現主義絵画が流行したあとで、眼の肥えた人々がたくさん生存しているからかもしれない。江戸時代の絵を現代アートと重ね合わせて味わえるほどの柔軟な感受性は、残念ながらぼくには少し欠けているようだ。

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