てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

黒い蜘蛛と白い女 ― 岐阜から名古屋への旅 ― (8)

2014年08月28日 | 美術随想

山本芳翠『浦島図』(1893-1895年頃、岐阜県美術館蔵)

 西洋と日本とにおける人物画のギャップに苦しんでいた山本芳翠が、試行錯誤の末に自分なりの答えを見いだしたのが、これも忘れるわけにはいかない名作『浦島図』なのではないかと、ぼくは勝手に考えている。

 パリで絵を学んだ彼は、ルーヴルでの模写を通じて、西洋美術の底流に流れる神話や宗教といったモチーフの重要性をいやというほど叩き込まれたはずである。しかし、日本に帰ってきてまで西洋のテーマを引きずるわけにはいかない。その結果、『灯を持つ乙女』といった、巧みではあるけれどちょっと謎めいた、意味深な絵を描くことにもなったのだろう。いってみれば、宗教画と日本の風俗画の“あいのこ”のような作品である。

 しかし彼は、日本には日本独自の神話があることに気づいたのだ。昔話として子供にも知れ渡っている浦島太郎の物語は、古事記などに記されたエピソードがもとになっているといわれる。それを、大胆に絵画化してみせることを思い立った。考えてみれば、浦島太郎を描いた絵巻はあるけれども、一枚のタブローとして仕上げた例はこれまで存在しなかったのではなかろうか。

 そこで問題になってくるのが、画家の想像力である。西洋にみられるような、特定の人物を示すアトリビュートがあるわけではない。強いていえば、浦島太郎が助けた亀とか、乙姫からもらった玉手箱ぐらいのものだ。しかし画家は、そんな不利な条件を逆手に取り、パリで学んだ古典の約束ごとをかなぐり捨ててイメージの翼を最大限に飛翔させた結果、まれに見る異色作がここに誕生したともいえる。

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 この絵も、何年か前に観る機会があった。そのときはおそらく5分以上も、キャンバスに顔を近づけたり、少し後ろに下がったりして、眼福ともいうべきものに酔ったのだ。実をいえば、今回は『裸婦』の重文指定よりも、『浦島図』との再会のほうが個人的にはうれしいできごとであった。

 まず眼につくのは、蓬髪を振り乱した男の姿だ。絵本などに描かれているイメージとはかなり異なるが、これこそが浦島太郎である。彼は後ろを振り返ろうとしているが、はるか向こうに霞んで見えるのは、どこか異国の宮殿を思わせる竜宮城だ。その手前、イルカが引く手綱をつかみ、巨大なシャコガイに乗ってウェイクボーダーさながらに水面を疾走してくるのは、乙姫様その人であろうか?

 浦島太郎が手にしているのはもちろん玉手箱だが、美しい螺鈿で装飾されている。いうまでもなく、螺鈿とは貝の裏側を使う工芸の技法だ。そしてまた亀の後方、裸の女が旗のようなものを掲げているが、その先端は三つにわかれた銛になっている。海に関係するモチーフが、これでもかとばかりにちりばめられているのである。

 ただ、いちばん左にいる女が花びらをまき散らしているところを見ると、どうしても散華を連想してしまう。それだけでなく、この絵には仏教のにおいがぷんぷんするのだ。構図の下地には、如来たちが雲に乗って降臨する来迎図があったにちがいない。パリ帰りの山本芳翠が、仏教画に手本を求めたというあたり、やはり彼のしたたかさをよくあらわしているような気がする。

 とまれ、この一枚をもって芳翠は、西洋絵画の模倣から完全に脱却し、新しい“日本の洋画”の金字塔を打ち立てたといえるかもしれない。

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