てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

4月なのに草間彌生 ― 網目から水玉へ ― (3)

2012年04月03日 | 美術随想

『愛はとこしえ[TAOW]』(2004年)

 展覧会場の入口は、赤と白のポップな水玉でおおわれ、そのなかに真っ赤なウィッグをかぶった草間のポートレートがはめ込まれている。そして若い女性をはじめとした観覧者たちは、カメラを向けて盛んにシャッターを切る。

 通常の展覧会ではあり得ない、おそらくは草間彌生にしか許されないこの演出は、一見すると堅苦しく見える美術館の敷居をうんと低くして、一般の人を手広く迎え入れる役割を果たしてくれてもいるだろう。だが、そこには新しい権威のようなものが出現しつつあるのではないか、という気もしてしまう。ぼくには壁にはめ込まれた草間彌生の写真が「水玉教の教祖」のように、それを取り巻く人々が「信者」のように見えなくもなかった。

 芸術とはいつの世にも、価値の上昇と下落とに翻弄されるものである。一時期は誰からも顧みられなかった作品が、ある日を境に熱狂的に受け入れられるということは往々にしてあるものだ。

 たとえばゴッホがその典型であるけれど、生前はまったくといっていいほど無名だったゴッホの絵が、ある日突然に全世界の人々に共感されるようになったわけではない。それには多分、いちばん最初にアクションを起こした、いわば仕掛人のような人が存在したのである。そして結論からいえば、ゴッホの存在を有名にしたいという仕掛人のもくろみは、まんまと成功したといえる。

                    ***


『波[TWXZO]』(2007年)

 草間彌生は、自分で自分をプロデュースし、奇抜なファッションを身にまとって人々の注目を浴びることに長けている。いい意味でもわるい意味でも、彼女は過去数十年間にわたって人々の注目を集めるようなことを故意にやらかし、激しい毀誉褒貶の嵐のただなかに身を置きながら、アーティストとしてのキャリアを積み重ねてきたのだ。

 今ではほとんど伝説となったアメリカでの「ハプニング」という過激なパフォーマンスは、狂気と芸術のギリギリの接点というよりは、むしろ何割かは狂気のまさった仕業のように思える。今、草間のポップな水玉のとりこになっている若い世代の人々は、かつての草間の刺激的な行動をどれほど知っているのであろうか?

 今、その当時のことについて詳しく記述する勇気をぼくはもたない。彼女の自伝を読みながら、正直にいって感心するよりも呆れ、年老いてからのおとなしい(と見える)草間彌生の姿は幻なのだろうか、と考えてしまった。世間の好奇の眼にみずからを晒しつづけた芸術家というと、サルバドール・ダリにとどめを刺すものと信じていたけれど、草間はあらゆる意味でダリよりも強烈で、インモラルで、アブノーマルで、そしてクレージーなのであった。

                    ***


『青春の日々[YOZMTO]』(2007年)

 最初の展示室に一歩足を踏み入れると、たちまちにして“病者・草間彌生”の世界に絡めとられる。いや、いつの間にか彼女の細胞のなかへ侵入してしまったかのような感がある。原色のあふれた派手な空間から一転して、黒と白のモノクロームの世界である。これこそが、草間芸術の原点ではなかろうか。

 『愛はとこしえ』と名付けられた50点の連作は、足掛け4年を費やして制作された。いや、草間の指先から奔流のように流れ出た軌跡を定着させたのが、これである。すでに70代後半の仕事だが、その線には迷いがなく、ぶれもない。

 人の目玉だったり、横顔だったり、人形だったり、微生物のような奇怪なかたちだったり、意味不明のものであったり、ありとあらゆるものが無限に増殖していく。そう、まさに増殖なのである。

 長い時間をかけて描き継がれた作品は、その内部におのずと出発点があり、終着点がある。つまりは、あるストーリーを内に秘めているのが普通だが、草間には、それがない。

 『愛はとこしえ』は、細胞があっという間に増えて世界を満たすように、広い展示室の壁という壁を、一気におおいつくしてしまうのである。やはり、正常な人のなすこととは思われない。コクトーが阿片中毒にかかり、その解毒治療中に描いた奇妙なデッサンを思い出した。


参考画像:ジャン・コクトー『阿片 ― 或る解毒治療の日記』に収録されたスケッチ(1928-1929年)

 思えば、コクトーが阿片の禁断症状で苦しんでいるさなかに、遠く離れた極東の島国で草間彌生は生まれ落ちたのである。これも何かの因縁であろうか。

つづきを読む
この随想を最初から読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。