てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

宮殿からの豪華な団体客 ― エルミタージュの美に触れる ― (4)

2012年12月08日 | 美術随想

レオナルド・ダ・ヴィンチ派『裸婦』(16世紀末)

 作者のはっきりしない『裸婦』という絵は、ぼくの頭ににわかな混乱をもたらした。いつかどこかで、いや割と最近、この絵を観たことがあるような気がしたのだ。

 すぐに思い出したことは、5月の連休の狭間を使って東京へ旅行したときに、「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」という展覧会で観たのではないか、ということである。家に帰って比べてみると、それは『裸のモナ・リザ』という別の絵だったが、同じものと思い込んでしまうのも当然なほど瓜ふたつなのであった(「3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (35)」参照)。おそらくぼくと同じように両方の展覧会を観て、既視感にとらわれた人も少なからずいたことだろう。

 たしかによくよく観察してみると、こちらのほうがやや丸顔だし、髪も少し長い(いわゆる“エクステ”をつけたような不自然な長さだが)。背景も微妙にちがっていて、画面の左端に柱が描かれているのが特に目立つ。『裸のモナ・リザ』にも柱の根もとが描き込まれているので、額縁の大きさに合わせてトリミングされたのかもしれない。

 しかし前にも書いたように、顔と胴体とが奇妙なねじれを生じていることは、こちらの『裸婦』でも同じだ。さらに、とってつけたような胸の不自然さ、まるで男のように隆々とした腕の盛り上がり・・・。要するに、『裸のモナ・リザ』の欠点はすべて、この『裸婦』という絵にも踏襲されているのである。

 このことについて、展覧会図録の解説では何も触れられていない。特に『裸のモナ・リザ』はダ・ヴィンチの弟子のサライに帰属するとされていたのだが、このことについてもまったく言及がない。おそらくは、どちらかがどちらかを模写した結果、ほとんど同じ作品がふたつ存在することになってしまったのだろうけれど、ダ・ヴィンチ自身の手が加わっていないことは確実だろう。

 今改めてルーヴルにある本家『モナ・リザ』と比較してみると、あまりにも似ていないのに愕然とさせられる。とある“物真似”が広く認知され、多くの人によって模倣されはたいいが、気がついてみると本物とは遠く隔たっていた、ということはしばしば起こり得ることのように思う。

                    ***


ベルナルディーノ・ルイーニ『聖カタリナ』(1527-1531年)

 『裸婦』にも増してダ・ヴィンチの影響を強く感じさせたのは、ルイーニという未知の画家が描いた『聖カタリナ』であった。

 暗い背景に、ぼんやりと浮かび上がる人物像。中央に描かれた聖カタリナは、うつむき加減で本を開いているところだが、その謎めいた微笑はダ・ヴィンチの『聖アンナと聖母子』に出てくるアンナの顔とよく似ているし、カタリナのアトリビュートである車輪に手を添えている右側の天使も、羊と戯れる幼子イエスを下敷きにしていることは明白である(「3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (33)」参照)。

 調べてみると、ルイーニという画家はやはりダ・ヴィンチの影響を受けた画家であり、この絵も最初はダ・ヴィンチの真筆としてコレクションに加えられたということであった。そうなると、作者が明らかになることで絵画の価値は一気に下がってしまったのかもしれない。だが、『裸婦』が恥を恥とも思わぬようなふてぶてしいポーズでおのれの裸を晒し、どうだといわんばかりにこちらを見返していたのに比べ、伏し目がちに内面の営為に没頭する知的な聖女の姿は、ダ・ヴィンチの深い精神性を見事に受け継いでいるように思われる。

 モナ・リザを裸にするなんて、たちの悪い冗談にすぎないのだ。

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