てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

焼けなかったコレクション(3)

2010年07月07日 | 美術随想

岸田劉生『麗子六歳之像』(1919年)

 岸田劉生の絵がいくつかあった。劉生といえば、国の重要文化財に指定された作品が2点もある、近代洋画史上もっとも重要な画家のひとりだということになっている。教科書にも載っているはずで、知名度もすこぶる高い。

 ぼくもまだ少年のころ、福井の美術館に巡回してきた劉生の展覧会を観た記憶がある。いったいどんな絵があったのかほとんど忘れてしまったが、板に描かれた自画像の一枚に明らかな継ぎ目があり、1ミリぐらいの隙間ができていたことを鮮明に覚えている(あとから調べたら、その絵はおそらく『黒き帽子の自画像』らしい)。

 それに、おびただしい麗子像の連作のいくつかもそのとき観たはずである。ただ、あまり好ましい印象はもたなかった。愛娘を描いた絵のはずなのに、必ずしも愛らしく描かれてはいない。現代の親たちが、自分の子供を携帯の待ち受け画像などにして「可愛い可愛い」と溺愛するのとは大きなちがいである。画家・岸田劉生の眼は、娘の姿のなかに何を感じ取っていたのだろうか。

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 このたびの展覧会にも、麗子の絵が2枚あった。『麗子六歳之像』は、麗子像シリーズが描きはじめられたごく初期のものだが、ぷっくりした頬にまだあどけなさがある。ごく素直な、少女の顔である。木炭で描かれているようにみえるが、毛糸のショールは水彩で着色されているらしい。

 最近になって東京国立近代美術館に寄贈された、同じタイトルの絵がある。住友のものと比べてみると、ほぼ同じ構図だといえる。着ているものも、麗子の髪型もそっくりだ。ただ、こちらはすべて水彩で描かれている。


参考画像:岸田劉生『麗子六歳之像(毛糸の肩掛したる麗子)』
(1919年、東京国立近代美術館蔵)


 この2枚の絵には明らかな関連があると思われるのだが、そのへんの前後関係を推察するのに最適な資料がある。というのも、画面の端にこれを描き上げた年月日が記されているのだ。前者には「一九一九・二月某日(五日か? 黒く塗りつぶされた上に書かれているので判別しにくい)」とあるが、後者は「千九百十九年三月七日」と明らかに読める。つまり木炭の麗子像が先に描かれ、水彩のほうはそれから約1か月後に描かれたらしいということがわかる。

 しかしよくよく比べてみると、水彩の麗子のほうがやや下膨れの、力士のような面影になっているように思える。ここまでくると愛らしいというよりも、少し気味悪くも感じる。育ちざかりの少女といえども、たった1か月でこれほど変わってしまうものだろうか?

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 麗子はさらに変貌をつづける。今から10年前、当時日本人画家としては過去最高額で落札された『毛糸肩掛せる麗子肖像』はやはり同じようなショールをまとっているが、「千九百二十年十一月十日」とあるとおり、水彩の麗子像から1年8か月も経っている。ここではあごの膨らみはすっきりとして、まるでダイエット食品の使用前・使用後を見るがごときだが、少し上がり気味だった眉は平たくなり、眼光には冷静な思慮深ささえただよう。

 所蔵先の解説によると、このとき麗子は風邪で寝込んでいたので、枕と布団で作った人形に衣装を着せて描いたということだ。このエピソードひとつを取ってみても、麗子は画家にとって娘である以上に、あるいはモデルである以上に、ごく身近にあるモチーフのひとつにすぎなかったのではなかろうかと思う。ほとんどいつも同じ顔の向きで描かれていることが、それを証拠立てている。


参考画像:岸田劉生『毛糸肩掛せる麗子肖像』
(1920年、ウッドワン美術館蔵)


 そして重要文化財となった『麗子微笑(青果持テル)』へと至る。切手の図柄にもなったし、われわれが麗子像と聞いてまず頭に浮かぶのはこのイメージかもしれない。この絵の年記は「千九百二十一年十月十五日」と読めるので、さらに11か月が経過している。ここであの有名な“微笑”があらわれる。無表情だった麗子の顔に、感情らしきものが登場するのである。

 何がちがうといって口もとがまったくちがうし、視線の向きは前の2作のように正面を見ているのではなく、最初に掲げた住友の麗子と同じく左側を見ているが、やや流し目に近い雰囲気になっている。この表情もまた、あまり子供らしいとはいえない。子供はこんな笑い方をするものではないだろう。微笑というよりは、薄笑いと呼びたい気さえする。住友の麗子から、この麗子までが2年8か月。いたいけな幼女がこの顔に変わるには、あまりにも短い歳月だといわざるを得ない。

 これらの連作に描きとめられているのは、麗子の成長の記録ではなく、劉生の画風の劇的な変遷であり、同一のモチーフからいかに深遠な人間像をえぐり出せるかという飽くなき探求の痕跡なのかもしれない。


参考画像:岸田劉生『麗子微笑(青果持テル)』
(1921年、東京国立博物館蔵)


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